text


困った事態の対処法


 大規模な国際会議の会場に久しぶりに足を向けたプロイセンは、この日は自分のスーツを着て臨んだ。近代的なベージュのビルの内側をエレベーターで昇り、降りた階のフロアをぐるりと見回す。
「おー、ここ来んの久しぶりだ。懐かしい。でも、変わってねえなあ」
 廊下の壁を飾る現代美術の絵画をひとつひとつ確認しながら、プロイセンは感慨深げに息を漏らした。
「おまえが代表やってた頃と同じ建物の同じ階だからな。多少物品は変化したが、基本的なインテリアは変わっていない。会場のデスクも同じだ。カーペットも」
 ドイツが隣で説明すると、プロイセンはちょっと興奮した様子で彼のほうを向いた。
「なあ、今日はおまえの隣に座ればいいんだろ?」
 心なしか嬉しそうな声音である。ドイツは首を縦に振った。
「ああ。椅子をふたつ使わせてもらえるよう申請しておいた」
「さっすが。仕事が早い」
「いや、当たり前だろう」
 プロイセンは景気よくドイツの背中をぱんと叩いた。何をそんなにはしゃいでいるんだこいつは、と思いながらドイツは彼をつれて会議場へ続く廊下を進んだ。と、同じ通路を対向するかたちで、ひときわ背の高い金髪の青年がこちらへ向かってくるのが見えた。それにいち早く反応したのは、プロイセンのほうだった。
「げげ、ロシア! なんであいつがいるんだよ!」
 彼はあからさまに肩をびくんとすくませると、ドイツのスーツの二の腕の布を掴んで足を止めさせた。ドイツは仕方なく立ち止まって、腕にしがみついてくるプロイセンを見下ろした。
「なんでっておまえ……ここはそういう場所なんだ、いて当たり前だろう」
 当然のように告げるが、プロイセンはぶるぶると頭を左右に振るばかりだった。
「俺は嫌だぞ、絶対会わねえ」
「おまえが俺の陰に隠れるのはちょっと無理があると思うんだが。日本か、せいぜいイタリアあたりならともかく」
 ドイツの体を盾にするように、プロイセンは身を屈めて彼の背中の後ろで小さくなった。もっとも、それでも十分はみ出ているのだが。プロイセンもすぐにこれでは隠れきれないと察したのか、ドイツの背を引っ張って手近な部屋のドアを勝手に開け、彼を引きずり込んだ。
「おい、何をするんだ。勝手に入って」
 ドイツが咎めるが、プロイセンはやはり首をふるりと振った。そして、ドアがきちんと閉まっているのを確認してから、ドイツの正面に立ち、その両肩に手を置いて力なくうなだれた。
「ごめん、やっぱ俺無理だわ、こういうとこ。EUならあいついないからまだいーけど、ここは無理。おまえだけ出ろ。俺があいつ苦手なの知ってるだろ。あいつんとこの昔の国歌聴くだけでいまだに頭が痛くなるんだぞ俺は。それをあいつんちの上司、いまになってメロディー復活させやがってぇ……おかげで国際競技会見れねえじゃねえか」
 プロイセンは愚痴をこぼしつつ、落ち込むように大きな嘆息を上げた。肩を掴む彼の手はほんの少し震えていた。
 彼はもともとロシアには苦手意識があったようだが、ここ十数年は特にひどい。もっともこれは再統一後に明らかになったことなので、それ以前から不得手であったのだろう。どうも、四十年ほど離れていた間に何か嫌な思いをしたようで、彼のロシア回避傾向は筋金入りなまでに確立されていた。ロシアとの間に何かあったことは確実だが……何があったのかはいまをもって不明である。本人が話さない(話したくないらしい)ので、現在のところ迷宮入りの様相を呈している。
 本人もこの体たらくを情けないと感じるだけのプライドはあるようで、顔を上げようとしない。しかし、自分の要求を通すことを優先し、「とにかく無理、無理だから」と首を振りながら繰り返す。ドイツはさすがにちょっとかわいそうに思えてきて、肩を掴んでくる彼の腕を軽くぽんと叩いた。
「わかったわかった。おまえがロシアを苦手としているのは重々承知している。俺もけっして得意ではないが、おまえのような拒否反応は出ないから大丈夫だ。俺が出れば別に問題ないわけだし……って、なぜ離さない? 出るに出られないだろう、これでは」
 おまえはどこかで休んでいろ、と告げてドイツは単身部屋から出て行こうとしたが、プロイセンがそれをさせなかった。彼はドイツのスーツのジャケットを握りこみ、頑なに引っ張っている。
「俺はもう嫌だからな」
「わかったから、会議には俺がでるから、おまえは出なくていいから、とりあえず離せ。これでは今度こそ遅刻してしまうだろう」
「だから嫌だっつってんだろ!」
 駄々っ子のように叫ぶと、プロイセンはドイツの服どころか体にしがみついてきた。ほとんど縋るようなかっこうだ。
「それはわかったと言ってるだろうが!……おい、巻きついてくるな、重いし苦しい」
「俺はもう離れるの嫌だぞ。離れてたまるか!」
「お、おい……」
「嫌だっつってるじゃねえか!」
 同じ言葉を繰り返す彼に、何退行を起こしているんだと言いたくなったが、この状態ではまともに言葉は通じまい。ドイツは、首に腕を回して容赦なく抱きついてくる彼の肩に手を添え、仕方がないとため息をついた。
「手に負えんな……」
 とんとんと背中を叩いてやり、そちらに気を逸らさせると、空いたほうの手でズボンのポケットから携帯電話を取り出し、アドレスを呼び出す。よく連絡を取る相手のひとりを選び出し発信すると、三コール目の第一拍で相手が出た。
『もしもし?』
「あー、ドイツだ。すまんが遅刻しそうだ。またで悪いが、途中まで記録頼む。それから、あとでハンガリーを呼んでくれないか。フライパンを持参してくれるとなおいい」
 ドイツが早口にそう頼むと、オーストリアは電話の向こうで戸惑った声音で尋ねてきた。それはそうだろう、彼はこの状況を知らないのだから。しかしドイツとしても、この状態に至る事情と経緯を細かく説明してやる余裕はない。
『どうしたんです?』
「いや……どうしたというわけでもないんだが、たとえ無意味であれ、ハンガリーに一発殴られれば元気出そうなやつがいてな」
『状況はわかりませんが、何を言わんとしているのかはだいたい理解しました。了解です』
「恩に着る」
 ほとんど説明になってない説明でも、オーストリアは大意を察してくれたようだ。やはりあいつは頼りになるな、と思いながら、一方で、さてどうやったらこのへばりついてくる重石をどけられるだろうと、ドイツは頭を悩ませはじめた。




top