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ギャグですが、ちょっとグロいというか気持ち悪いというか、人によっては生理的に受け付けないようなネタを扱っているので、お気をつけください。





ちょっとしたミス



 時計の長針と短針が重なり合うまでいくらもない刻限。
 プロイセンは風呂上がり、口内に歯ブラシを突っ込んだまま廊下を歩いた。と、リビングのドアからオレンジ色の光が漏れている。音と気配を消してそっと中に入り込むと、ソファに座りなにやら見開いた雑誌に熱い視線を注いでいるドイツの姿があった。
 なんだ、お好みのエロ本でも見つかったのか? えらく没頭している様子の彼に、プロイセンはにやりと口角を持ち上げると、忍び足でソファまで近づいていった。
 彼はドイツの斜め後ろに立つと、前触れもなく上体を倒して横から覗き込んだ。
「よお。ずいぶん熱心じゃねえか。って、なんだ、クロスワードかよ。つまんねえやつ」
 おもしろみのない方面に予想が外れ、プロイセンはつまらなそうに唇を尖らせ、歯ブラシの柄を揺らした。ドイツは突然背後から出現したプロイセンに驚いたようで、雑誌とシャープペンを持ったまま何秒か固まっていた。
「いつの間に上がり込んでいたんだ……」
「一時間くらい前。あ、風呂借りたから」
「まあ……見ればわかるが」
 Tシャツにハーフパンツといういかにもなくつろぎスタイルで、水分を含んだ頭髪は房をつくってまとまっている。どこからどう見ても湯上りで、そしてこれから泊まっていく気満々な格好だ。
 と、クロスワードのモノクロの紙面に、ぽたりと染みができて色が濃くなった。
「おい、しっかり拭いていないだろう、髪。水滴が落ちてくるぞ」
「気にすんな。うりゃ!」
 ドイツに注意されると、プロイセンはわざと自分の髪に指を差し込んでわしゃわしゃと見出し、水分を払った。ドイツに向けて。
「指摘されてなおさら水を飛ばしてくるなんて、小学生のすることだぞ。……タオルはどうした」
「洗面所に置いてきた」
「まったく……」
 あからさまに構ってほしそうなオーラを散布してくる彼に、ドイツは仕方なく雑誌置いて腰を上げた。スルーしたら余計まとわりつかれるのは目に見えている。ドイツが洗面所に向かうと、彼もあとをついて来た。
 ドイツがタオルを漁っている間、プロイセンは鏡の前でしゃこしゃこと歯磨きを続けていた。一分ほどすると磨き終えたらしく、研磨剤まじりの唾液をペッと吐き出し、流水で歯ブラシをゆすぐ。普段なら、指先で水分を撥ねて、立て掛け用のプラスチックカップに挿して終わり……のはずなのだが。
「どうした?」
 歯ブラシの毛をいじり続けている相手に、ドイツが怪訝な面持ちをする。プロイセンはブラシの根元に指先を何度もこすりつけながら、眉をしかめている。
「いや、なんか変なもんがくっついてて、取れねえんだよ。なんだこりゃ? パセリ……? それにしちゃ色が悪いな。晩飯のスープになんかに入ってたっけ? あのコーンのやつ」
 毛の根元に濃緑色の物体がこびりついてる。プロイセンは、ほら、と歯ブラシを示すが、ドイツは彼の発言のほうに注目した。確かに今日の夕食のメニューにコーンポタージュはあったのだが――
「夕飯を振る舞った覚えはないんだが」
「ああ、うん、気にすんな。勝手に食ったから」
「ほんとに勝手だな……」
 ぼやくドイツを気にも留めず、プロイセンは歯ブラシを格闘を続けていた。
「くそ、まだ取れねえ」
「どれだ?」
 いくら歯ブラシの毛が密生しているとはいえ、パセリの欠片がそんなにしつこく絡むとは思えない。ドイツが不可解そうに覗くと、プロイセンが目の前に歯ブラシを突き出してきた。
「これこれ」
 ドイツは提示された歯ブラシの先をじっとり観察した。濃緑色のどろどろした印象の物体は、毛先ではなく根元のほうにまとわりついている。しかも中にまで入り込んでいるようだ。
 ドイツはプロイセンの手から歯ブラシを受け取ると、ためらいがちにその緑色の何かに指先を触れさせた。指の腹に少しだけついたそれを見つめつつ、彼は言った。
「これは……もしかしてカビなんじゃないか?」
 ドイツの思わぬ推測に、プロイセンがきょとんとした。
「…………カ…………? え、なに?」
 なにかこう、とてつもなく嫌な単語を耳にした気がする。聞き間違いだろうか。プロイセンは目をぱちくりさせつつ尋ね返した。すると、ドイツがちゃっかり自分の指を水道水で洗い流しながら説明を続けてきた。
「だから、カビ。毛の根元にこれだけしつこく張り付いているんだ、野菜の葉とは思えない。これは引っ付いているんじゃなくて、生えているんだろう、ブラシ自体に」
 あまりにも冷静なトーン。
 プロイセンはしばらくその場で固まったあと、頓狂な声音でその単語を繰り返した。
「か、かびぃ……!?」
「そう言っているだろうが」
 ドイツは駄目押しするが、プロイセンはぶるぶると勢いよく首を横に振る。力いっぱい。
「ちょ、え……いやいやいやいや、そんなわけねえじゃん! なんだよカビって! 歯ブラシにンなもん生えるなんて聞いたことねえぞ、ってか、生えるわけないじゃん!!」
「しかし……これはカビに見える。連日暑かったし、この洗面所風通し悪くて蒸すし、何よりここ数日使用されてなかったからな、菌やらカビやらなんやらが繁殖しやすい条件が整っていたのだと思う。俺のは日に二回は使っているから大丈夫だと思うが(と、彼はコップに立てかけられた自分の歯ブラシを一瞥した)、おまえのは間欠的にしか使われないからな、リスクが高い。なんならシャーレで培養してみるか? 白黒はっきりさせたほうが気持ちいいだろうし」
 必死に可能性の否定を試みるプロイセンに、ドイツは推測の根拠についてつらつらと列挙し、挙句の果てにわけのわからない提案までしてきた。
 プロイセンは全部聞き終わってから、しばしその場で石化していたが。
 やがてサァーッと血の気を引かせると、洗面台に両手を突いて体を屈めた。
「う、うぇぇぇぇぇぇ!! き、気持ち悪っ……!」
 口に残っているものを可能な限り排出しようと、何度も何度も唾を吐き出す。しかし、それだけでは足りないと、人差し指を突っ込んで歯茎や口腔前庭の残渣を取り除こうとする。と、意図せず関節が口蓋の柔らかい部分に触れ、
「う……っ!?」
 うっかり咽頭反射を引き起こしてしまった。
 特に胃の具合が悪いわけでもないのに、強制的な嘔吐感に見舞われる。
 洗面台に沈みそうな勢いでげーげー言っているプロイセンを前に、ドイツはさすがに慌てた。
「お、おい、大丈夫か!?」
「けほっ、ぇほっ……う……はー、はー、はー……」
 幸い吐瀉物を撒き散らすには至らなかったが、口内の唾液がぼたぼたと流れ出た。彼は荒い息をつき、手の甲で口元を拭いながら身を起こした。
「落ち着いたか? いきなり吐くなんて驚いたぞ。どうしたんだ」
 ドイツは、本来は髪を拭くために用意したタオルをプロイセンに渡した。彼は受け取りながら、八つ当たりのように叫んだ。
「どうしたんだ、じゃねえよ! 吐くに決まってるだろ!! 歯ブラシに、カッ、カ……カビとか言われたら!! カビ、カビ……う、うあぁぁぁぁぁぁ!!」
 思い出したら、今度は心理的な嘔吐感が込み上げてきた。彼は再び水場に向けて顔を下げた。
「お、おい、大丈夫か本当に!?」
 ドイツは驚きつつ、プロイセンの背をとんとんと軽く叩いてやった。
 やはり今度も本当の意味での催吐ではなかったようだが、プロイセンはカエルが潰されるような声で何度もうめいた。しばらくして顔を上げると、彼はドイツをキッとにらみつけた。
「さ、最悪だ……お、思い切り普通に歯ぁ磨いたあとでこれはねえだろ……なんてこと言うんだよおまえぇ!」
「や、俺のせいではないと思うが」
 至極当然の主張をするドイツ。しかしプロイセンは聞く耳を持たない。
「おまえがちゃんと俺の歯ブラシの面倒見てねえからだろ! カビなんて生えさせるなよ!」
「他人の歯ブラシの世話まで見てられるか」
「他人じゃねえだろ!」
「自分ではないという点では他人だ。自分以外のやつの歯ブラシまで管理しようと思うはずないだろうが。思うほうがどうかしている」
 ドイツの言い分はやはりもっともなものだったが、プロイセンは腹の虫が収まらないらしく、おもむろにプラスチックカップに手を延ばすと、そこに挿されていたもう一本の歯ブラシ――言うまでもなくドイツのものだ――を握った。
「くそ、おまえなんかこうしてやる!」
 プロイセンは手に取った歯ブラシの毛先にたっぷりと歯磨き粉をつけると、自分の口の中に突っ込んだ。
「ちょっ……何をするんだ!」
 ぞわ、と背筋を駆け上がる悪寒に両肩をすくめながら、ドイツが悲鳴を上げる。
「うぅへえ! くひのはかひもひわういはあみあいなおふんらよ!(うるせえ! 口の中気持ち悪いから磨き直すんだよ!)」
 プロイセンは凄まじい勢いで歯ブラシを上下左右に動かしながら答えた。口角からの流涎を気にも留めずに。不明瞭極まりない発話だったが、ドイツはあっさり聴解すると。
「俺の歯ブラシでか!? やめろ気持ち悪い!」
 青ざめて制止しようとする。もちろん、素直に聞くような相手ではないが。
「ほんはんおへはっへいっひょら!(そんなん俺だって一緒だ!)」
「だったらなおさらやめろ! 新しい歯ブラシくらい下ろしてやるから!」
 言っても聞かないので、ドイツは相手の手首をがしっと掴んで強引にやめさせた。プロイセンは溜まった唾液をぷっと吐き出してから、妙なハイテンションで胸を張った。
「へん! カビの気持ち悪さに比べればこんくらいなんでもねえよ。だいたい、ちょくちょく間違えて使ってるしな。いまさらだ、いまさら」
 ははははは、とやかましい笑いを立てる。
 対照的に、ドイツはこの世の終わりのような顔をすると、洗面台の縁に片手をつき、がっくりとうなだれた。
「き、聞きたくないことを聞いてしまった……」
 力のない声で呟く彼に、プロイセンがむっとして文句を並べ立てる。
「あ、ちょっとおまえへこみすぎだろ! なんでそんなに嫌がるんだよ! なんか傷つくじゃねえか!」
「嫌に決まっているだろう、普通」
「なんだよ、おまえだって間違えたことあるくせに! あんとき俺別にそんな気にしなかったし、あっさり許してやったじゃん!」
 過去の失敗談を持ち出すと、ドイツは一瞬詰まった。
「う……あ、あれは悪かった。不幸な事故だった。し、しかし、そっちも同時に間違えてたんだ、おあいこだろう。お互い気づかなかったわけだし、あのあとちゃんと新しいのに換えたし」
 以前の件に関しては自分にも非がないわけではないので、ちょっと気まずそうにもごもごと言い訳をする。
 プロイセンはそんなドイツに呆れた視線を送りつつ、
「なんでそんな潔癖なんだよ。気にするほどのことじゃねえだろ」
 歯磨きを再開した。まったく気にしている様子がないのが、逆に怖いかもしれない。
「や……気にするだろう……。というか、磨き続けるのやめてくれないか……」
 ドイツは心底そう願ったが、無理矢理やめさせる気力も失せてしまったので、その場で額を押さえて頭痛に耐えるしかなかった。
 換えの歯ブラシ、二本あっただろうか、と心配しながら。




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