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冷戦期の話です。
普+洪ですが、うっすら露普要素があります。





ブダペストの休日



 川岸に林立する歴史の色濃い建造物、邸宅、そして川に架かる橋。それらがつくり出す美しい景観を内包するのは、ドナウの真珠、ブダペスト。
 日曜日の正午過ぎ。鎖橋の横を通り過ぎ、大通りから角をいくつか曲がり、ハンガリーはお目当ての雑貨店へと続く小道を歩いた。地元民しか入らないようなこぢんまりした店で、彼女はちょくちょく訪れては贔屓にしていた。抑圧いっぱいの日常は休日とて変わらなかったが、せめて仕事から解放されるひとときくらい、小さな癒しを望んでもいいだろう。
 髪飾りを品定めする自分を思い浮かべ、少しばかり楽しい気分で道を行く。あの新聞店の角を曲がれば目的地だ、というところで、ハンガリーは呼び止められた。
「お、ハンガリーじゃん。奇遇だな」
「え?」
「まあ、ここおまえんちだし、どっかうろついてるとは思ってたけどよ」
 馴れ馴れしい男の声。無視するにはあまりに知りすぎている。
「プロイセン?」
「おう」
 ハンガリーが足を止め声の方向を向くと、広げていた新聞の端からプロイセンが顔を覗かせた。これから重役会議でもあるかのようなスーツ姿。首元まできっちりタイを締めている。そんな服装で、彼は街角の雑誌販売店の横にあるベンチに腰掛け、ドイツ語の新聞に目を通していたらしい。改めて眺めると、ものすごく浮いている。
「なんであんたがここに……? 出張? 聞いてないけど」
「いや、ただの旅行。ちっとばかし休暇もらったんでな」
目をぱちくりさせながら尋ねてくるハンガリー。プロイセンは、別に俺が来たっていいだろう、と肩をすくめて見せた。バカンスというよりどう見てもビジネスな格好で。
 彼は新聞を折りたたむと、ベンチの端に寄った。座れということらしい。というか、このまなざしは明らかに自分にそれを期待していると、ハンガリーは読み取った。彼女は数秒よどみを見せたが、結局相手の期待通り、隣に座ってやった。ただし、成人男子ひとり分のスペースをきっちり空けて。
「それで私のうちに来てるの」
「なんだよ、観光客相手に嫌な顔すんなよ」
 なんだか迷惑そうなハンガリーの声。プロイセンは頬を膨らませる。まるで子供だ。というか、ガキだ。
 彼女はこの先にある雑貨店を遠目で見やりながらぼそりとこぼした。
「私のお気に入りスポットが汚された気分だわ……」
 ハンガリーがあからさまにがっくり肩を落とすと、プロイセンがむっとしながら言った。
「失礼なやつだ。俺だって行けるもんならイタリア行きてーよ。でも許可なんか下りるわきゃない。だから仕方なくこうしておまえんちの観光産業に貢献してやってんのさ。ははははは、俺っていいやつだろ」
「……何かよからぬこと考えてるわけじゃないでしょうね?」
 こんな中途半端な時期に休暇で小旅行なんて、ただのバカンスとは思えない。
「まさか。俺は善良な旅行者だぜ」
 疑わしい目を向けてくるハンガリーの横で、プロイセンはメモを胸ポケットにしまった。新聞の影で見えなかったが、どうやら手の中に持っていたらしい。
「それ何? 何やってたの?」
 目敏くメモを見つけたハンガリーが問いただしてくる。怪しい行動は見逃せない。誰が自分たちを見ているのか、わかったものではない。
 気色ばむハンガリーだったが、一方のプロイセンは呑気なものだった。
「ん? これか? 別にまずいもんじゃねえよ。記事の下書きだって。新聞の」
 言いながら、再びメモを引っ張り出すと、人差し指と中指に挟んだそれを彼女の前でひらつかせて見せた。
 彼女は慌てて彼の手ごとメモを掴んで人目から隠した。あからさまに彼らを観察する者はいなかったが、どこかに潜んでいる可能性は存分にある。彼女はひそひそ声で彼の軽はずみな行動を叱責した。
「あんた……まーた西側の新聞社に匿名投稿する気ね。風の噂によるとフランスとかイギリスにも送りつけてるんですって? 危ないことするわね、ほんとに。まあ、したいならそれでもいいけど、そういうことは自分の家でやって。私のうちで不穏なことしないでちょうだい」
 ハンガリーに握られている手を見下ろしながら、プロイセンは落ち着いた声音であっさりと答えた。
「ちげーよ。うちの党の機関紙だ」
「『ノイエス・ドイチュラント』?」
「そ。編集部が俺に依頼してきたんだよ。俺は文才あるからな、引っ張りだこで困っちまうぜ」
 空いているほうの手でさらりと横髪を撫でるプロイセン。残念ながら長さが足りないので、まったくさまにならない。まあ、髪型に関わらず、逆立ちしたって彼には似合わない種類の仕種ではあったが。
 彼の話を聞いたハンガリーは、意外そうな顔で尋ねた。
「バカンスに仕事持ち込むの? あんた、休みの日は徹底的に休みたいタイプでしょ」
「まあ実質休暇なんだけど、一応取材旅行って名目で来てんだ。だからちょっとはこう、執筆活動しているとこも見せないと?」
 少々含みのある表現。ハンガリーははっとした。そしてさらに声を低くする。
「見せないとって……変なのうちに連れてきてないでしょうね?」
 彼女は首は動かさず、眼球だけであたりを見回した。当然ながら見える範囲に監視者はいないが。
「さあ、それはわからん」
「やだもう……発言に気をつけなきゃ」
「いつもどおりにしてりゃいいだろ」
 プロイセンの口調は緩かった。言葉をそのまま受け取っただけではいい加減きわまりない発言に響くが、その実、彼のアドバイスは正鵠を射ていると言ってもいいかもしれない。発言者のバックグラウンドを知っているのなら。
 彼が口にした『いつもどおり』の意味を理解できないハンガリーではなかった。彼の家は相当シビアな状況だ。そして、そんな彼の言うところのいつもどおりを実践していれば、とりあえず危険はないはずだ。
 彼女はメモと彼の手を離すと、
「で、何書いてるの? 党紙ならやばい内容じゃないと思うけど……」
 それでも少しはらはらした調子で質問した。彼女とは好対照に、プロイセンは落ち着いた様子でにやりと口角をつり上げた。幼い頃から知っている表情に、彼女は安堵と同時に嫌な予感も覚えた。いったい何の仕事をしていたというのだ。
「心配すんな。原稿忘れたり盗まれたところで超安全な、むしろ褒め称えられるような記事だからよ。見ろ、この実に模範的な内容を」
 プロイセンは堂々と原稿の下書きというか走り書き同然のメモを渡してきた。ハンガリーは胡散臭そうに彼の顔を窺いつつも、メモのほうに視線を落とした。
 そこに羅列された文字が表すのは。
「ええと……『西側資本主義社会がいかにファシストどもで満ち溢れているか、同志諸君に告げよう』?……どうしよう、別の意味でやばいことが書いてある」
 露骨に眉をしかめるハンガリー。実に頭の痛い見出しだ。何がいちばん嫌かといえば、お隣さんの党紙ということは、彼女もまた彼の書いたこの記事に目を通さねばならないだろうということだ。どうしよう、いまから頭痛がしてきた。
 他方、プロイセンは自分の記事が極上のものだと思い込んでいるのか、背もたれに体重を預け、余裕たっぷりだ。
「マルクス風味がしてよくねえ?」
「ねえ、最近モスクワに行ってきた?」
 疑問というよりは確認といった調子で尋ねると、プロイセンはおおいにうなずいた。
「おう。一昨日やっとベルリンに戻ってきたとこだ」
「やっぱり……。それでおかしく……もといアカくなってるのね。染められちゃってかわいそうに……。またこってり絞られたんでしょー」
 ハンガリーは呆れと同情を交えながら自分の額を押さえた。
「んー? まあ、いつものとおり」
 再び、いつものとおり。ということは、またろくでもない目に遭って帰ってきたに違いない。まあ、彼が本当の意味で洗脳されることはないと信じてはいるが。この記事だって、彼なりの皮肉と一時的な保身のために違いない。
 ハンガリーは慰めるというよりは窘めるように彼の頭を撫でた。
「も〜……今度はどんなおイタしたの? 西側の女スパイとデートでもしたとか? ハニートラップに引っかかったとか言わないでよ? 情けなくて涙が出そうだから」
「いやあ、んな色っぽい話なんかねえよ、残念なことに。いまの仕事、出会いなんてなかなかなくてよー。せいぜい野郎誘って飲みに行くだけさ。まあ、外の連中の話聞くのおもしろいけどな」
「……そうやって自ら接触もって折檻受けてりゃ世話ないわね」
 やはり自業自得だったらしい。大方、西欧から来た特派員と勝手に接触したのだろう。ハンガリーは無意識のうちに彼のこめかみの横で拳をつくっていた。しかし彼は気にも留めず話を続ける。
「あいつもこっちに顔見せりゃ、うまい店のひとつやふたつ、引っ張ってってやんのになー」
「それは無理でしょ」
 ドイツだって迷惑するでしょ、と言外に忠告する。
「俺が向こう行くより現実的だろ。あいつは手続きさえ踏めば入れるんだし。今度誘ってみっかな」
 百パーセント盗聴される電話機で誘う気だろうか。ただの挑発行為、あるいは自滅行為ではないか。
 彼女はため息をひとつ落とした。そして片手を腰に当てると、もう一方の手で彼の額を小突いた。いたずらっ子を叱る母親のように。
「やめときなさい。彼も困るし、あんただってまた目ぇつけられるじゃない。まったく、何回モスクワで再教育されれば気が済むの、あんたってひとは。そのうちシベリアボランティアツアーにご招待されても知らないわよ。反骨精神旺盛なの? それとも学習能力ゼロなの?」
 呆れ返るハンガリー。しかしプロイセンはへっと鼻で笑う。
「どーせ何もしなくたって半年に一回は呼び出されるんだから、多少弾けておかねえと絞られ損じゃねえか」
「あんた、そんなにイワン先生の個人レッスン好きなんだ?」
「ははははは、最近は教育的指導専用の個室ってか密室までつくってくれてよぉ――しかも鍵が外側にしかないやつ――もう至れり尽くせりって感じ。いやあ最高。俺まじ感動」
 本気なのか皮肉なのか判断できない口調で賞賛するプロイセンに、ハンガリーはデコピンをひとつお見舞いした。目を覚ませとばかりに。
「もー、ほどほどにしておきなさいよ? そのうち脳みそ取り出された挙句赤ペンキで塗りたくられても知らないんだから」
 そう言うと、ハンガリーは立ち上がって腰を伸ばした。彼の相手はこれくらいにして、そろそろ自分の目的に移ってもいい頃合だ。彼女は、それじゃあね、とだけ挨拶を残して立ち去ろうとした。目的の雑貨屋を彼に知られるのが癪なので、ちょっと遠回りしてやろうと別方向に足を向けて。
 と、プロイセンが遅れてベンチから腰を上げ、彼女の斜め後ろについてきた。
「な、なあ、昼飯食ったか?」
「いいえ、まだだけど」
「ならどっか食いに行こうぜ。俺もまだなんだ」
 プロイセンは許可も得ずハンガリーと横並びになって街路を歩く。彼女はじと目で彼を見た。
「私を案内役にする気でしょ」
「だって俺、こっちの店わかんねえもん。ハンガリー語あんま読めねえし」
 ハンガリーはやれやれと息を吐いた。
「仕方ないなあ。何が食べたいの?」
 意外とあっさり承諾が下りたことに拍子抜けしたプロイセンは、少々反応が遅れた。
「うん? そ、そーだな……うまいハンガリー料理。あ、家庭の味で」
 ハンガリー料理の名称がとっさに浮かばなかったので、漠然とした注文をつける。ハンガリーは困ったように眉根を寄せると、人差し指で下顎を押さえながらぶつぶつと独り言を言った。
「んー……材料あったかなあ……」
「へ?」
 目をしばたたかせるプロイセン。
「うちの家庭料理食べたいんでしょ? 来なさい、つくってあげるから」
 ハンガリーはいともたやすく答えた。それがいちばん手っ取り早いから、と。
 プロイセンは思わずその場に立ち止まった。
「おまえんちに?」
「ええ」
 彼より三歩進んだところで、ハンガリーもまた足を止める。
「い、いいのか?」
「だって他人のうちに押しかけて台所貸してくれなんて、いい迷惑でしょ」
 ぼさっと突っ立ってないで早くしなさい。ハンガリーは手招きもせず、目線だけでそう示すと、再び歩きはじめた。次の角で曲がれば、自宅へはそれほど遠回りにはならないだろう。
 彼女の背が遠のきつつあることにはっとしたプロイセンは、慌てて小走りで追いかけた。
「ハンガリー……その、おまえ、頭大丈夫か?」
「失礼なやつね。っていうかその台詞、そっくりそのままあんたに返したいけど。ま、いいわ、来るつもりがあるならどうぞ。ただし、台所とトイレ以外には移動しないこと」
「おう」
 ハンガリーの言いつけに、プロイセンがうなずく。足取りがどこか軽いのは、浮かれているせいだろう。まるで大型犬ね、とハンガリーは斜め後ろの彼を肩越しに見やった。本当にジャーマン・シェパードだったらかわいいのに、もったいない。
 プロイセンはばちりとウインクをすると、
「感謝するぜ、親愛なる我が同志」
 うきうきとそう言ってきた。
「はいはい、どういたしまして、同志。はあ……やっぱあんたやばいわ……」
 ハンガリーは適当に受け答えると、ぼそぼそと付け加えた。
 こんな男に少しばかり同情して手料理を振る舞う気になった自分がいちばんイカれていると思わないではなかったが、この際無視することにした。




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