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雨上がり


 一夜明けると、昨日の雨は嘘のようにどこかへ消え去っていた。濡れた道路や水を存分に乗せた木々の葉にその足跡を残して。
 まぶたの向こうにまぶしさを感じ、プロイセンは眉根を寄せた。強い光に不快感を覚えると同時に、沈んでいた意識がざわめき出す。まだまどろみに揺られていたい気持ちと、起きろという本能的な指令がしばしせめぎあったが、結局後者が勝利する。少しずつまぶたを持ち上げると、見慣れない天井が視界いっぱいに広がった。
「ここは……」
 呟いた声は完全に枯れていた。自分の声とは思えないほどに。
 彼はぼんやりする頭で状況を把握しきらないまま、とりあえずルーティン的に体を起こしてベッドの縁に座った。胸から落ちたタオルケットが太股の上に落ちる。部屋にある何もかもが自分に馴染みのないものだと思い当たると同時、昨晩の記憶が雪崩のようにフラッシュバックしてきた。
 どうにも居たたまれなくなって家を飛び出し、けれども同胞は頼れず、気づけば彼女の家まで足を伸ばしていた。いつから雨が降っていたのか、記憶にない。いつの間にか日が暮れて、体中雨に浸されていたのだった。衝動のまま訪れてしまったものの、いざ彼女の家を前にするとそれ以上足が動かず、だが一方で去ることもできず、細く頼りない街路樹の下であてもなく立ち尽くしていた。浅ましくも、彼女が自分の存在に気づいてくれることを期待しながら。
 そうして雨粒を頬に受けていると、彼の願いはほどなく叶った。自分を発見した彼女が、リスクを顧みず声を掛けてきた。彼にはそれで十分だった。慰めや励ましは求めていなかったから。ただ同じ側にいる者として、呆れの言葉のひとつもほしかった。だから、彼女が正しく『帰りなさい』と言ってきたことに安堵した。遣る瀬無い寂しさが少しだけ胸に落ちたけれど、彼はそれで満足だった。とはいえ、すぐに立ち去れなかったのはやはり彼女に甘えていたからだろう。
「情けねえ」
 彼は自分の膝に肘を立てると、猫背になって手の平を額に当てた。微熱を感じるが、ここ最近は断続的にこんな調子だったので、気にはならなかった。だるさが抜けないのがうっとうしくはあったが。
 彼は重いため息を吐くと、改めて室内を見回した。はじめて見る彼女の寝室は、小物が少なく存外シンプルだった。一晩、何から何まで厄介になっておきながら、彼はまだ彼女が自分を招きいれてくれたことが信じられない心持ちだった。去ることを決めて歩き出した彼を追いかけてきた彼女は、少し怒っていた。浅慮にも彼がここを訪れたことに対してではなく、雨の夜、ずぶ濡れで街をさまよっていたことに。彼女のそんな怒りが嬉しかった。これ以上煩わせてはいけないと思いながらも、ほかに行くあてはと尋ねてきた彼女に、ないと素直に答えた。彼女の厚意に縋った。
 思い出すほど、彼は恥じ入って頭を抱えた。ああ、なんてざまだ。情けないにもほどがある。
 手の平で頭を押さえて落ち込みモードにはいっていると、寝室の扉が開かれた。ドアの前には、籐の籠を脇に抱えたハンガリー。ロングスカートの上に丈の長いエプロンを着けている。水仕事をしていたのか、エプロンの腹の辺りに水飛沫の痕跡があった。
「あら、起きたの?」
 彼女は部屋に入ると、ベッドに座るプロイセンの前に立った。
「ハンガリー……」
「おはよう、プロイセン。よく眠れた?」
 彼女は、ばつの悪そうな表情で面を上げてきた彼に、気取りのない口調で質問した。それがあまりに自然な調子だったので、彼はかえってどぎまぎした。
「あ、ああ……多分」
「なあに、多分って」
「いや、きっとよく眠れた。と思う」
 いまいち判然としない答えではあったが、彼女は追及はせず、小さく微笑んで流した。
「そう。それはよかった。夜しっかり眠れるのが何よりだもんね」
 彼女はベッドに籠を置いて中に収められていた服を手に取り、彼のほうを向いた。と、彼の顔を真正面にとらえ直したとき、彼女は露骨に眉をひそめた。
「やだ、いつもより三割り増しで人相が悪いことになってるじゃない。洗ってきなさい。洗面所はここ出てすぐ右」
 ゆうべ少しばかりぐずったせいだろうか、プロイセンの顔はまぶたが腫れ、平生より目が細く常に半眼状態だった。ステレオタイプな悪人面だ。指摘されたプロイセンは、そうなった原因を思い起こし、恥ずかしさと気まずさでうつむいた。そして、彼女と顔を合わせないよう視線を床に縫いつけたまま、そそくさと立ち上がろうとした。
「あ、待って。その前に……ほら、服。あんたの。一応アイロン掛けといた。まだ袖とか襟、ちょっと湿ってるけど。でも、替えの服なんてないから我慢して」
 彼を引き止めたハンガリーは、籠から取り出した服を渡した。彼は一瞬きょとんとして疑問符を浮かべ、
「服?……うわ!?」
 自分の体を見下ろした瞬間、まぬけな声を上げた。下着一枚であることをようやく自覚すると、彼は思わず横で皺くちゃになっていたタオルケットを引っ掴み、体を隠した。その行動にハンガリーが呆れた目を向ける。
「なんで男のあんたが体隠すの……。なんか気味悪いんだけど。だいたい、私はゆうべ、ずぶ濡れっていうかむしろ水浸しだったあんたの服を脱がせて体まで拭いたんだから、いまさらどうのこうの思うわけないじゃない」
「う〜〜〜……」
 悠然と構える彼女に対し、自分のこの余裕のなさは何事だろう。羞恥と悔しさをにじませ、彼は額を押さえておかしな声を出した。
「ほら、うなってないで早く服着て顔洗う。いまになって恥ずかしがったって遅いんだから」
 何食わぬ顔で告げるハンガリー。プロイセンはそそくさと衣服を身に着けたあと、寝室の扉の縁に手を添えて肩越しに彼女を振り返った。
「んじゃ、洗面所借りるぜ。できればタオルも」
「ラックの上に積んであるの、使っていいわ」
「どうも」
 軽く手を振って礼を告げると、彼は洗面所に入った。
「うわ、ひでぇ顔……」
 自分の鏡像を前に思わず呟く。充血した目は、できれば葬り去りたい昨晩の記憶を鮮明に呼び起こす。
「くそ、だっせぇ」
 ばしゃばしゃと水を顔に叩きつけて腫れを引かせると、顔を拭きながら自身にぼやきを放つ。タオルを首に掛けて洗面所を出るとすぐにキッチンだった。三角巾をつけたハンガリーが、一人掛けの小さなテーブルの上にマグカップをふたつ並べていた。いくらかましな顔になった彼を見ると、彼女はカップから手を放した。
「さっきよりはまともになったわね。熱はない?」
「ああ、大丈夫だ」
 言い切る彼の顔に、彼女は手を伸ばし、頬や額に指の背を触れさせた。水仕事をしていたために指が冷えていることを差っ引いても、彼の顔は熱いように感じられた。
「嘘。あるじゃない」
「雨のせいじゃねえよ。いつものこった」
「まあ……そうでしょうね」
 ぞんざいな彼の答えの意味を察すると、彼女は腕を引っ込めた。そして、椅子を指差す。
「座ってて。朝ごはんの準備あるから」
「おまえはどうすんだよ。椅子、これだけだろ」
「半病人が何を言うんだか」
 ハンガリーに切り捨てられたプロイセンは、しぶしぶといった様子で椅子に腰を下ろした。棚から半斤ほどの大きさの食パンを取り出す彼女の後ろ姿を眺めながら、彼は小声で呼びかけた。
「なあ」
「うん?」
 包丁を片手に作業しながら、声だけで答えるハンガリー。振り返ってこないことを幸いとし、プロイセンは口早に、けれども途切れがちに言った。
「あの……ゆうべは、その……悪かった。急に来たりして」
 珍しく殊勝な口ぶりの彼が意外で、ハンガリーは手を止めてくるりと体を回した。
「どうしたの、あんたらしくない。そんなふうに詫びるなんて」
「おまえに迷惑を掛けた」
「それは昔からでしょ」
 彼女は、今回に限ったことじゃないと軽くあしらうが、彼のほうはひどく気にしているようで、いつになく神妙な声音だった。
「けど……いまの俺に関わるのはまずい。こないだ、問題起こしたばっかだから……」
 《事件》について語るのが嫌なのか、あるいは語ってはまずいのか、彼はおそるおそるといったトーンで遠回しに言った。
「そうね。そんなタイミングで来るからびっくりしちゃった」
「おまえ、どうして俺を泊めたんだ。おまえだってやばいのはわかってるはずだ」
「あのね、しょげてる濡れねずみを見て、放置しろって言うの?」
「……すまない」
 確かにハンガリーの言うとおりだ。自分はきっと、彼女が手を差し伸べてくれるのを心の底で期待していた。同じ岸辺に立たされた者として、彼女が自分を無視はしないだろうと、どこかで計算していたのかもしれない。
 やや目を伏せると、彼は自嘲気味に苦笑した。ハンガリーはそんな彼の前に進み出ると、相手の頬に両手を寄せた。微熱を帯びた彼の顔を手の平で包んで少し上向かせる。そうして彼と目を合わせたところで、彼女は静かに言った。
「あんたがほんとは分別あるってことはわかってる。何が許容されて何が罰せられるのか、あんたはちゃんと理解している。それでもなお、家を飛び出して私のところに来ちゃったってことは、そうせずにはいられないだけの理由があったんでしょう。あんたがどうしても家にいたくなくなるような理由が」
 プロイセンは一瞬呆けたあと、くっと唇を引き結んで視線を逸らした。
「ごめん、答えられない」
 何が彼に苦渋の表情をさせるのか――その多くは彼女にも想像のつくところだった。そしてそれゆえ、彼女は問いたださない。
「聞いてないし、聞くつもりもないわ」
 彼が弱音をこぼさないであろうことは、雨の中でつかまえたときから予想していたことだった。彼が彼女を一時の逃げ場に選んだのは、世界の構造の同じ側に組み込まれた者同士、ある種の仲間意識があったのかもしれない。けれどきっとそれだけだ。彼が本当の意味で助けを求めている相手は別にいる。だが彼はそれを口にしないだろう。状況的な制約と、彼自身の矜持。二重の束縛が、彼の本心に蓋をしているように思われた。
 不似合いな沈黙を続ける彼に背を向け、彼女は棚から平皿を取り出した。ナイフでスライスした食パンを皿に乗せて振り返ったそのとき、うつむいたままのプロイセンが上目遣いでこちらを見てきた。
「あの……ハンガリー」
「なに?」
 パンに続いてコーヒーを淹れる。食事の支度を流れるように行いながら彼女は会話に応じた。プロイセンは呟くような小声でぽつりと言った。
「礼、言っとく。ちょっとすっきりした」
「そう。それは何よりね」
 ソーサーにスプーンを添えながら彼女は答えた。と、ふいに背後で乾いた音が立った。肩越しに振り返ると、プロイセンが椅子から腰を上げるのが見えた。熱でふらつくのか、テーブルに手を突いて体を支えている。
「じゃあ、もう帰る。邪魔したな」
「帰るって、家に?」
「ほかに帰るとこなんてないだろ」
「そうね……」
 彼女は目を伏せながらも同意した。彼には彼のいるべき場所がある。それが彼にとっての居場所であるのかどうかは、わからないけれど。
 足元が少々覚束ない様子なのが気がかりではあったが、彼女に彼の帰宅を止める意志はない。帰る以外、道はないのだから。
 出て行こうとする彼の背に、昨夜、雨に打たれながら去っていく彼の後ろ姿が重なった。彼女は数瞬の逡巡ののち、彼に声を掛けた。
「ね、朝ご飯くらい食べてったら? たいしたものはないけど、用意しちゃったし」
「いや、いい。腹、減ってないから」
 彼は上腹部に手を当てて断りを入れた。
「ゆうべから何も食べてないじゃない」
 ハンガリーが指摘すると、プロイセンは少し迷ってからぽつりと答えた。
「いい。……食える気が、しないんだ」
「プロイセン……」
 彼の言葉は、本人の想像以上にハンガリーの顔を曇らせた。彼は慌てて訂正した。
「あ、いや、いまは食う気がしないってことさ。いまは」
 その言葉をどう受け取ったのか、しばし沈黙するハンガリー。プロイセンはこのまま帰っていいものかためらい、結局その場に立ち尽くした。
 ハンガリーは椅子を視線で示すと、くるりと体を反転させながら言った。
「コーヒーくらいは飲んでいきなさいよ。せっかく淹れたんだし。喉、渇いてるでしょ」
「ああ、そうだな。もらうぜ」
 プロイセンは再度椅子に腰を下ろすと、ハンガリーからカップを受け取った。昨夜は感じなかったコーヒーの苦味と熱さが、今朝は舌に染み入った。




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