ものを食む
彼の脱走の件は、長患いによる譫妄状態が引き起こしたということになり(実際にその可能性はある)、結局不問とされた。それが原因なのか、あるいは彼自身が望んだのか、数ヵ月後にロシアが訪れたとき、彼は窓のない病室に移されていた。
監獄というには壁の白さが際立つ空間に立ち入ると、言いようのない圧迫感を覚えた。しかし彼はそんな部屋の内側で、安らかな顔をして眠っていた。体の傷は完治し、いくらか瘢痕が残るのみとなっているが、依然として彼の体調は上向かずにいた。最近は前ほど苦痛を訴えることがなくなったが、その分活動性が落ち、日々の生活をする上での最低限の行動をする以外は、こうして日がな一日静かにベッドに横たわっているらしい。静寂の支配があまりにも強いため、ともすればここに生命が存在するとは信じられなくなりそうだった。ロシアはベッドの片側に立つと、彼の胸まで引き上げられているブランケットの端を摘み、ゆっくりと引き下げた。彼の腹は小さく、けれども規則的なリズムで上下していた。呼吸はちゃんとしているようだ。
ロシアはブランケットを元の位置まで戻したあと、彼の頬を指の背で撫でた。唐突に、まつげが皮膚をかすめる感触を覚える。手を引っ込めると、彼とばちりと目が合った。と、持ち上げられたまぶたから覗く瞳にロシアは小さく息を呑んだ。予想していたのとは異なる色がそこにあったから。不躾な来訪者を映し出す彼の双眸は、紫色の虹彩に彩られていた。
黙り込んでいるロシアに、プロイセンは静かな声音で尋ねた。
「どうした、ロシア。何か用か」
乾燥のためにやや嗄声だったが、口調は存外しっかりとしていた。眠っていたのではなく、ただ目を閉じていただけだったのかもしれない。ロシアは棚から水呑を取り出すと、水差しから水を注いだ。取り替えられてからまだそれほど時間が経っていないのか、水差しは取っ手まで冷たく、陶器の外側には水滴がついていた。
「具合はどう?」
「別に。変わらん」
ぶっきらぼうに答えるプロイセンだったが、ロシアが濡れた指先で唇に触れてくるのが心地よいらしく、ふっと息を吐いた。
「水、いる?」
「くれ」
水呑の口をくわえさせてやると、ロシアは慎重に容器を傾けた。嗄れた声が示すとおり喉が渇いていたようで、プロイセンは強く水を求めた。
「起き上がれそうにない?」
「できなくはない。けど、動きたくない。めんどくさい」
ロシアは彼のおざなりな態度にため息をつくと、ベッドの下のリクライニング用のレバーを回し、マットごと傾斜をつくって無理矢理彼の上体を起こさせた。急に座位にされたことで体のすわりの悪さを覚えたのか、彼はわずかに身をよじって体勢と重心を整えた。ようやく自力で動こうとする彼を見たロシアは、ひとまず安堵の息をついた。
「少しは動かないと体に悪いよ? 傷はもう癒えてるんだし」
「だるいんだ」
嘘ではないのだろう、彼はひどく気だるげな表情で言った。付き纏う頭重を払うように二、三度首をわずかに左右に振ったものの、すぐに諦めて動きを止め、傾斜のついたマットレスに後頭部を預けた。ロシアは少し仰け反った彼の首に指を触れさせた。やせた首に山をつくる喉仏の存在感がアンバランスでちょっと気味が悪かった。
「食事は?」
「さっき食った」
プロイセンは目を閉じたままぞんざいに答えた。
「さっきって、いつ?」
「さっき」
ロシアが追及すると、彼はうっとうしそうな声音でもう一度繰り返した。ロシアはほんの少し非難がましく指摘した。
「きみが最後に食事をとったのは、一昨日だって聞いてるよ」
「そんなに経つっけ?」
うっすらと目を開いて尋ね返すプロイセンだったが、口調やまなざしは無関心に支配されていた。
「お腹空かないの?」
「言われてみれば」
「何か用意しようか」
ロシアが提案すると、プロイセンはこの日ようやく表情らしい表情を見せた。彼はうっすらと自嘲を浮かべながら言った。
「ただ飯食らいじゃ申し訳ない。まあ、いまにはじまったことじゃないが」
「あとで働いて返してくれればいいよ。そのためには早く起き上がれるようになってもらわないと」
ロシアは彼の意志を聞かないまま、内線で食事を用意するよう依頼した。職員が訪れるのを待つ間、沈黙がふたりを包んだ。彼は短い会話ですら疲れてしまったのか、ぐったりと脱力してマットレスに体重を預け目を閉じていた。ロシアは勝手に食事用の台をベッドに取り付けて準備をした。
運ばれてきた食事はいかにも病人食といった趣で、トレイには汁物と柔らかそうな煮込み料理が一皿ずつ置かれているだけだった。ロシアは、うとうととしはじめている彼の肩を叩いて起こすと、目の前に置いた食事を指差した。
「食べて」
「いらない」
「お腹、空いてるんでしょう?」
反応を示さないプロイセンに焦れたロシアは、仕方なくスプーンを取って先端をスープの皿に沈めると、控えめにひとすくいした。
「ほら」
唇のすぐ前までスプーンを近づけるが、プロイセンは口を開こうとしなかった。といっても、確たる意志をもって拒否しているわけではなく、ほんの少し開口するさえ億劫ということなのだろう。実際には彼はうっすらと上下の唇の間に隙間を開けているのだが、それは睡眠時に口が閉まりきらないのと同じようなものだった。自ら口を開き、食べ物を取り込み、咀嚼し、嚥下する。そのあたりまえのプロセスを忘れてしまったかのように、彼は食べることに無関心だった。そのさまは、生物としての生存本能を失っているともとれた。
ロシアはわずかな焦りを覚えつつスプーンの先を無理矢理唇に挟ませたが、彼はやはり何の動きを見せなかった。口の中に取り込まれなかった水分が、口角からたらりとこぼれ、おとがいへと伝った。
「仕方ないね」
諦めてスプーンを引っ込めたロシアは、もう一度皿からスープをすくうと、今度は自分の口へと運んだ。しかし飲み下すことはせず、口内にスープを保持したまま上体を屈め、プロイセンへと顔を近づけた。スープのしたたる彼の下顎をとらえたロシアは、手で強引に口を開かせると、自分の唇を上からかぶせた。そうしてから、唾液の混じるスープを少しずつ彼の口の中に送ってやる。突然の感触に驚いたのか、彼は一瞬ひくりと体を強張らせた。が、流れてきた液体で反射的に嚥下が起こる。ロシアは片手を彼の喉元に下ろすと、軟骨を軽く摘むように押さえた。喉の内側が一度持ち上がり、そしてまた下がるのが触覚を通じて感じ取れた。身体的な摂食能力は損なわれていないようだ。ロシアは一旦唇を離すと、再度スープを口に含み、同じ要領で彼に飲ませた。食べるという行為を思い出したのか、彼はロシアの唇が自分のそれに触れると、今度は自発的に薄く口を開いた。いい徴候かもしれない。ロシアは目を細めると、次にじゃがいもの煮込みをひとかけらスプーンに乗せ、やはり自分の口に入れると、柔らかいそれを数回咀嚼してすり潰したあと、舌を使って彼の口内に押し入れてみた。彼はつぶれて緩くまとまったじゃがいもの塊を受け取ると、ゆっくりと飲み込んだ。
「ん……」
二日ぶりの食事にやや呼吸を乱された彼は、くぐもった音を鼻から漏らした。ロシアは彼の唇を解放してやると、ほんの少し嫌味っぽく言った。
「なんだ。やっぱり食べれるじゃない」
せっかくだからもう少し食べさせたほうがいいかと、ロシアはもう一度スプーンを手に取ろうとした。と、そのそき、ふいに視界に淡い色をした何かが迫ってきた。
「え……?」
身構える暇もなく、ロシアは再び唇に生温かいぬめりを感じた。数瞬、事態がつかめずに目をぱちくりさせていると、ちゅ、と湿った音が響くのが振動とともに聞こえた。唇を、食まれている。他人の唇で。
プロイセンがロシアの唇に柔らかく噛み付いてきたのだった。おそらく、食物を求めての本能的な行動なのだろう。ロシアの舌が彼の唇に触れると、彼はそれを食べ物と勘違いしたのか、やや強い力で吸ってきた。その生々しい感触にロシアはまばたきさえ忘れた。
まるで動物の赤ん坊だ。だがロシアは彼がいましている行為そのものより、彼が自発的に食事のための行動をとったことのほうに驚いた。そして安心する。彼はまだ生きるのをやめていないようだ、と。
「ちょっと待って」
ロシアは少し強引に彼から顔を離すと、改めて料理をスプーンで一口分すくいとり、自ら咀嚼して潰してから、先ほどと同じように口移しで彼に与えた。お互い食べこぼしとふたり分の唾液で口の周りがべたべたになったが、構いもせずに最後の一口まで続けた。彼にとっては久しぶりの食事らしい食事だった。
つづく
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