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冷戦初期(1950年前後)の話です。
デリケートな時代なので、苦手な方はご注意ください。





思いがけない再会



 ベルリンの空気はいつものように張り詰めていた。それは、本格的に到来した冬がもたらしたものではない。
 もう何年も前からこの街の至るところに見えない緊張の糸が張り巡らされている。それらが解消される日は依然として濃い霧の中。それどころか、今後その状態はさらに苛烈になるであろうことが予想される。
 早い夕暮れに終われるように長い影を引きずって歩く人々の間に紛れ、ドイツは東ベルリンを歩いていた。日が落ちたら西に戻ろうと考えながら。
 街のどちら側でもひとの生活が営まれていることには変わりない。当たり前のことに安堵しながらも、彼は懸念と憂鬱の晴れない面持ちだった。もっとも、彼のしかつめらしい表情は普段からお馴染みではあるのだが。
 目深にかぶった帽子のつばの下で、きょろきょろと眼球を動かして周囲を見回す。人気はまだ減っていない。ドイツは、対向して来る通行人を避けながら、タイルの外れた歩道を歩いた。と、二ブロック先の角に警察官の姿を見とめる。制服はきっちり着ているのに、制帽を斜めにかぶっているその警官は、まだ若そうだ。
 ドイツは、声をかけられたら厄介かと思ったが、さりとてここでいきなり踵を返すのは逆に怪しまれるに違いない。彼は歩調を保ったまま直進した。
 曲がり角まで差し掛かり警官の前を通過する。すれ違う瞬間、警官は首をうつむけると、ふいに両手を上に上げた。ドイツは少し警戒して、つばの下でそろりと彼を見やった。が、警官の手が伸びた先は、自身の制帽。斜めに乗せた帽子を正そうとしただけのようだった。
 く、と帽子を三十度ほど回す。手に隠れて顔は見えないが、布の端から短い金髪がのぞいている。それきり、警官は手をゆっくりと下ろした。ドイツはそのまま進んだ。
 が。
 完全に横切る直前、視界の端に一瞬だけ映った映像に心臓と脳が同時にざわついた。なぜなのかはわからない。が、ドイツは衝動のまま振り返った。目立つ行動は控えるべきだ、との自己抑制を外して。
 警官は驚いたのか、反射的にドイツを見た。彼と同じように目深にかぶられた制帽の下にある双眸、そして、鼻のライン。
 ああ、知っている。
 ドイツはくるりと体を反転させると、大股で数歩来た道を戻り、警官の前に立った。威圧感を放つ彼に圧されたのか、若い警官は半歩下がった。が、ドイツはそれ以上は許さず、警官の肩を掴み、もう片方の手で制帽を取り払った。
「あ」
 帽子の下から現れた青年は、一瞬ぽかんと口を開いていたが、すぐに右腕を持ち上げ、顔を覆い隠そうとした。が、その前にドイツが彼の手首を掴んだ。
「おまえ……」
「げっ――」
 見間違えるはずもない。警察官の制服を着たその青年は、プロイセンだった。ドイツは彼の手を引き寄せて詰め寄った。怒っているわけではないが、空気が険しくなる。
「なんでこんなところに――」
「えーと……」
 彼はぐっと眉間に皺を寄せたかと思うと、掴まれた手首を振り払ってドイツの目に手の平を当てて相手の視界を塞ぎ、取られた制帽を奪い返した。そして、つま先を九十度横へ向けると、一目散に駆け出した。
「おい、待て!」
 十歩ほど遅れて、ドイツも走り出した。プロイセンがダッシュして行ったのと同じ方向へ。
 帽子を握り締め、大きく腕を振って全力疾走するプロイセンの背を目標に、ドイツは激しく追い上げる。
「待て! なぜ逃げる?」
「おまえが追っかけてくるからだぁぁぁ! っつーか、なんで追いかけてくるんだよ!?」
「おまえが逃げるからだ。嫌なら止まれ。そうしたら追いかけない」
「止まったら捕まえる気だろ!? なんだよそのハンターの目は!! 猛禽類じゃねえかっ! っつーか、警官が一般人に追っかけられてる図っておかしくねぇ!? どっからどう見ても怪しいし目立つだろ!?」
 互いに叫び声で会話をしながら、かなりのスピードで街路を駆け抜けていく。道行く人は誰しも振り返るが、誰も関わろうとはしなかった。
「おまえが逃げなければ捕まえない。俺は話がしたいだけだ」
「あほか! 間違いなく監視されてるんだぞ!?」
「おまえと接触するなとの命令は特に出ていない」
「それって泳がされてるだけじゃねえ!?」
「構わん。それはそれでいいだろう」
「おまえ、やけっぱちになってねえか!? だめだぞ、こういうときこそ踏ん張らねえと!」
 じりじりと距離を詰められているプロイセンは、狭い十字路を左に直角に曲がった。突然の進行方向の変換で相手のロスを誘おうと考えたのだが、ドイツは体格に似合わない敏捷性を発揮し、少しも速度を落としていない。
「ああ、わかっている。だからいま全力でおまえを追いかけている」
「がんばりどころが違う!」
「違わない。だから、なんとしてでもおまえと話す。いま、ここで!」
「いぃぃぃぃぃっ!? スピード上がったぁ!?」
 ドイツは最後の言葉を溜めにしたのか、爆発的に加速すると、プロイセンとの距離をあと二歩というところまで一気に縮めた。ここまで近づけば、残りは上肢のリーチで十分だ。プロイセンが路地の横に差し掛かったのを見計らい、ドイツは前方に飛び掛った。腕がプロイセンの体を捕らえた瞬間、ドイツは進行方向と垂直になるように地面を蹴り、相手を路地裏に押し込んだ。
「うあっ!?」
 地面に倒されたプロイセンは、反射的に立ち上がろうとする。が、ドイツの体が上にあるため、それは適わない。彼は数秒、何が起きたのか理解できず、混乱のままばたばたと暴れた。つい拳が出たが、ドイツは彼の手をパシッと受け止めると、その腕を地面に押し付け、起き上がれないように体重をかける。
「は、放せっ……」
 プロイセンは右半身を下に倒れている状態だったが、それでもなお相手から逃れようと、両手を地面についてずり上がろうともがく。しかし、圧倒的に不利な体勢のため、脱出は不可能だ。そう判断したとき、ひどく息が苦しいことに気づく。
「はっ、はあ、はあ、んっ……はっ、はあ……あー、もうどうにでもなれ……」
 酸素を求めてあえぎながら、彼はぼそりと呟いた。胸の圧迫を解消しようと、仰向けになって浅い呼吸を繰り返す。短距離走を数百メートル続けたようなものなので、脚の筋肉の疲労はピークに達している。ふくらはぎに鉛が入っているようだ。彼は両腕を投げ出し、しばらくの間荒い呼吸で胸を上下させていたが、やがて体の上のドイツの顔をとらえると、苦々しく唇の端をつり上げ、へっと笑った。
「はあ、はあ、はあ……くそっ、振り切れないなんて、やっぱ体力落ちてんなー……」
 その様子があまりに懐かしかったので、ドイツはしばし陶然として、プロイセンの皮肉げな笑みを見下ろしていた。


路地裏の会話

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