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路地裏の会話


 酸欠からは脱したものの、まだ呼吸はひゅうひゅうと鳴り、体中が重く、鼓動は耳に届いてきそうなほど激しかった。
 苦しい。
 指一本動かすのも億劫で、プロイセンは身を投げ出したまま、建物の間から細くのぞいた夕焼けの空を仰いだ。燃えるようなオレンジ色が無性にまぶしくて、彼は目を閉じた。まぶたの裏側ではまだ赤が広がっている。
 緩慢な動作で右手を心臓の上にやると、速い拍動が伝わってきた。とっとと治まれと思いながら、彼は深呼吸を繰り返して息を整えた。
 ようやく息苦しさと全身の倦怠感が引き始めたところで改めて自分の上に乗っかっている人物を見やる。プロイセンほどではないが、ドイツもやはり疲労した様子で、珍しく肩で息をしていた。もっとも、すでに平常に戻りつつあったが。彼はプロイセンの顔にじっと見入ったまま、動こうとしなかった。プロイセンはあからさまな凝視の視線に居心地の悪さを覚えて、まだだるさの残る体を身じろがせた。
「おい、重いぞ」
「あ、ああ……悪い。大丈夫か?」
 そう思うんなら早くどけ、とプロイセンが言いかけたところで、ドイツが彼の頬に手を伸ばしてきた。
「おい?」
「本当に、おまえ、なのか……?」
 神妙な面持ちでそんなことを聞いてくるドイツに、プロイセンはきょとんとした。ちょっと毒気を抜かれた調子で彼は答えた。
「え、ああ、うん。このとおり、見てわかんねえ? っつーか、誰なのか確信ないのに追いかけてたのかよおまえ……しかもタックルかました挙句押し倒すとはどういう了見だ。かなりやばいぞその行動は。ついでに言うとこの状態もやべぇよ。おまえどこの犯罪者だ」
「本物、だな?」
 ドイツは体重をかけるのはやめてくれたが、なおもプロイセンの胴をまたいだままの膝立ちの姿勢で、大きな背中を丸めて屈みこみ、彼の顔を両手でぺたぺたと触った。頭部のみならず、肩や腕にも触れてくる。手の平全体を使って。
「ど、どうしたんだよ、そんな深刻そうに。ってか、いい加減どいてくれ。逃げねえからさ。どうせ膝笑ってるだろうし」
 プロイセンが肘を地面について自力で上体を起こし、反対側の腕を前方に伸ばした。ドイツは気づいたように彼の手を取って引き起こす。
 プロイセンはようやく起き上がったものの、案の定、足の疲労に耐えかねてふらりとバランスを崩しかけた。ドイツは彼の腕を掴んで支えると、手近にあった木箱の上に彼を座らせた。いつから置かれているのか、雨ざらしのそれはいくぶん風化していた。
 ドイツは、箱の上に腰掛けたプロイセンに対面するかたちで立つと、再び両手を伸ばして彼の頬を挟んだ。そして、鼻と鼻が触れ合うくらい顔を近づける。
「ちょ……さっきからなんなんだよ?」
 プロイセンはドイツのらしからぬ行動に驚いてちょっと身を後ろに引こうとした。が、頭を固定されているのでほとんど動けない。
 ドイツはプロイセンの頬から片手を外すと、そこへ自分の頬を当てた。相手の体温が伝わってくる。
「本当に、生きているんだな」
 そう言うと、彼は今度は額と額をこつんとぶつけ合わせ、長い長い安堵のため息をついた。
 プロイセンはまだ自分の頬に触れているドイツの手の甲の上に自分の手を重ねると、苦笑した。
「おいおい、勝手に殺してくれるなよ。そりゃ、正直けっこうやばかったけど……。だいたいおまえ、幽霊の類は信じねえ性質じゃなかったっけ? ってか、信じたくないタイプか」
 茶化すように言うプロイセンだったが、対照的にドイツはどこまでも生真面目な目つきだった。怒らせたかと思ったが、その割には瞳に力がない。しかしそれはかえってプロイセンを沈黙させるに十分なものだった。
「どれだけ心配したと思っている。何年も音信不通で……しかも、大戦の混乱の中で行方不明だ。おまえのうちは解体宣言が出るし、その上、新国家が宣言されたときも……おまえは見当たらなかった。どこにも。ずっと姿がないから、もしかしたら……もしかしたら、おまえがいなくなってしまったのかと、最悪の予想までしていたんだ」
 ドイツは途切れがちに言葉を紡いだ。考えを言語化するという作業にいくらかの苦痛を感じているのだろうか。
 プロイセンは首をわずかに回して目線を逸らすと、気まずさをごまかしたいのか、頭の後ろを掻いた。
「あ、ああ……そのことな。悪ぃ、連絡取りたかったんだけど、にっちもさっちも行かない状況でさ。一応手紙書いたけど、やっぱ届いてないよなー、うん……」
 ぶつぶつと独り言のように呟く彼に、ドイツが端的に、しかし範囲の広すぎる問いを投げかける。
「何があった?」
 プロイセンは腕を広げて首をすくめた。どう答えろって言うんだ、と示すように。
「いろいろ。盛りだくさん過ぎて、とてもじゃないけど話しきれねえよ。何もかもぶちまけるわけにもいかねえし。おまえだって似たようなもんだろ? まあ、でも、話せることは話すぜ」
 話せないことのが多いけどな、と胸中で付け足す。
 プロイセンが軽い調子で言うと、ドイツはちょっと傷ついたような、寂しそうな、けれども諦め納得しているといった、複雑な表情を見せた。開きかけた彼の口元を見たプロイセンは、いったい何を言われるのだろう、と少し身構える。
「さっきはなぜ逃げたんだ。あそこにいたのは偶然ではないのだろう?」
 ああ、そのことか、とプロイセンはうなずいた。最初の質問がそれなんて、ひょっとして、彼は目の前で自分に逃げ出されたことがショックだったのだろうか。プロイセンは不謹慎ながら笑いたくなった。馬鹿にする意味ではなく。
「言っとくが、逃げたくて逃げたわけじゃねえからな。俺だって、その、おまえのことが気にならなかったわけじゃないんだぜ。積もる話もあるしさ。でも、いまは状況が状況じゃん? とりあえず、無事な姿見られればそれでいいかと思ってな。それが、まさか追いかけっこやってタックル食らう羽目になるとはな。おまえ、必死すぎるだろ。こっちで目立つのはまずいだろうに。気をつけろよ?」
「すまなかった。しかし、無事な姿を見たかったのは俺も同じだ。おまえはまだいい、俺の無事を知らされていたんだろうが。しかし、俺はおまえの行方も生死すらも、わからなかったんだぞ。……必死にもなる」
「悪かったって。許せ、ほんとどうにもなんなかったんだから。ようやくこっち戻れたと思ったらさっそく仕事三昧だぜ? たまったもんじゃねえよ。監視厳しくて窮屈だし」
 ぽつりと小声でこぼされたプロイセンの言葉に、ドイツははっと思い出した。
「俺と話して大丈夫なのか?」
「あん? いまさら気にしたって遅いって。もう話しちまってるんだ、このままちょっとばかり会話を続けたって一緒だって。しゃべりすぎには注意すっけど」
 あんな目立つ追いかけっこしておいて、いまになってそんなことに留意するなんて順番がおかしい、とプロイセンは一蹴した。彼はこのまま久方ぶりの再会を満喫する気らしい。
 ドイツはちょっと逡巡したが、相手の意向に甘えることにした。
 しかし、改めて顔をつき合わせて会話をしようと思うと、何から切り出したらいいのかわからない。彼の声を聞くこと自体年単位でなかったことを意識すると、いくらか緊張を覚えた。
 結局彼は無難な点から会話に入った。
「その格好は?」
 ドイツはプロイセンの着ている警察の制服を頭のてっぺんからつま先まで眺めた。よくよく見ると、微妙にサイズが合っていないような気がする。物資が不足しているのだろうか、と考えをめぐらしていると、プロイセンが腕を広げて制服を見せてきた。袖が親指の付け根の辺りまでを隠している。
「これ? 新しい仕事。似合うか?」
「まあ……普通だろう」
「おもしろくない回答だな」
「俺にその手のユーモアを求めるな」
「ん、最初から期待してないから別にいい」
 プロイセンは呆れることもなく、まあ予想の範囲内だ、というように手をパタパタと振った。
「新しい仕事ということは、以前は別の職に従事していたのか。いや、答えられないならいい。事情があったんだろう」
「んー、まあ……」
 指摘され、プロイセンはちょっと言いよどんだ。彼が先刻言っていた「話せること」の対象外の内容なのだろうか。
 彼は少し顎を上げて虚空を眺めた。次に口にすべき言葉を探しあぐねているようだった。どうも、言葉選びを慎重にしたいらしい。けれども、そうして悩んでいるところを見ると、その話はナシ、と打ち切るつもりはないようだった。


束の間の休息

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