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束の間の休息


 夜の闇の迫る空を仰ぎ、虚空に視線を泳がせていたプロイセンだったが、やがて顎を引くと、ドイツを正面にとらえた。
「あのな、ちょっと前まで実家にいたんだ」
「ケーニヒスベルクに?」
「カリーニングラード、な」
「………………」
 プロイセンが訂正すると、ドイツは一瞬何か言おうと口を開きかけたが、結局声を出さないまま唇を閉じた。プロイセンは渋い顔でかすかに自嘲の笑みを見せたが、すぐにそれを消すと、木箱の上を横に移動した。
「まあ、おまえも座れよ。ほら、ここ。開けてやるから。しかし、これ大分ぼろいけど、大人ふたり乗って大丈夫かぁ?」
 そう言いながらも、プロイセンはドイツに、横に座れと指示するように、木箱をぽんぽんと叩く。ドイツは帽子を取ると、あまり耐久性のなさそうなこの箱にできるだけ体重をかけないよう注意しながら、縁に浅く腰掛けた。
 プロイセンはドイツが隣に座ったのを見ると、満足そうににやりと笑った。両足を交互にぶらつかせているため、踵が箱の側面に当たって振動と音をつくる。楽しみを待ちきれない子供のような仕種だ。
 彼は箱の縁を両手で掴み、腕を突っ張らせて背を伸ばした。そして、話題の続きを口にする。
「うん、実家のほうだけどな、あっちもあっちでゴタゴタしててな、あれこれ奔走しているうちに戻るタイミング失って、出るに出られなくなっちまったんだよ。で、ソ連の連中が仕事寄越してきたんで、仕方なくそれやってた。復興作業っつーかなんていうか……」
 そこまで話したところで、少し詰まる。瞳の揺らぎを隠すように数秒目を閉じてから、彼は仕切り直しというように、へっと品のない笑いを立てた。
「あそこ、居づらい上にすっかり出入りしにくくなっちまっててなあ、俺もこっちに戻ろうと思いつつなかなか機会がなくてよ。ロシアに頼むのも癪だし、ポーランドんち通過するのも気まずいんで、泳いで渡ってやろうかって計画、立ててたんだ」
「泳いで? むちゃくちゃなことを考えるなおまえは……。だいたいおまえ、水に浮きにくい体だろうが。脂肪足りなくて」
「ははは、鍛えるのもほどほどにしておけばよかったと後悔したのははじめてだったぜ」
「おまえが言うと本気に聞こえるんだが」
「おう、本気だったぜ」
 プロイセンの無謀な計画の告白を聞いたドイツは、呆れたように首を振った。ジョークなのかもしれないが、彼ならそういう無茶なことも本気でやりかねない気がする。
 当のプロイセンは、自己申告どおり真面目だったらしく、胸の前でぐっと拳をつくって主張する。
「だってあのままあそこにいたら、俺、完全にロシアにされるじゃん? バルトのやつら見てりゃ、それは全力で拒否したいところだろ。だからまあ、ひっそりこっそり脱出考えてたんだよ。ま、結局、計画を実行に移す前に、顔も知らねえ上司とソ連とこのお偉いさんの命令で、こっちに戻る許可が出たけどな。ははは、せっかく遠泳の訓練計画練ってたってのに、無駄になったぜ」
 俺、ロシア語になまってねえよな? とプロイセンはちょっぴり深刻そうな面持ちで尋ねた。ドイツが大丈夫だと答えてやると、彼はやや演技じみた様子でほっと息をついた。
「いつ戻ったんだ?」
「先週」
 プロイセンの短い返答に、ドイツは目をしばたたかせた。
「つい最近じゃないか」
 まさかそんなに長い間、こちらを留守にしていたとは思わなかった。プロイセンの言った『ちょっと前まで』というのは、まさに言葉のとおりだったらしい。しかしそれならば、彼の姿をずっと、年単位で見かけなかったことも納得できる。
「ああ。俺も国内の詳しい状況わかんなかったから、数日前に聞いて仰天したんだぜ。エライことになってんなー。ザクセンが過労で死にそうになってたし。お上なんざ、知らん顔だらけでびびったぜ。冗談抜きで、おまえ誰だよ状態だった」
 プロイセンの口調は、ないように似合わず軽かった。ドイツは、数年間ひどく焦燥と不安を掻き立ててくれた相手の態度としてはなんだか腹立たしいものを覚えないではなかったが、同時に彼が以前のような調子で眼前にいることに安堵を得た。彼は呆れと嬉しさの混じったため息をついた。
「他人事のように言うな、おまえも当事者だぞ」
「うん、そうだったな。のけ者にされすぎて忘却しそうだけど」
 プロイセンは顎に片手を当て、むう、とうなった。
「なぜそんな、何もかもが事後報告などという状態になったんだ?」
「あん? 上の説明を信じるなら、混乱極まってたせいで、俺の居所がわからなくなっちまったんだとさ。いくらなんでもそれはねえだろと思うんだが、まあ、あっちもこっちも結構いい加減だからなあ……。俺もあっちじゃひそひそしてたから、連絡取りにくかったし」
 彼の説明は的を得ないというか、具体性に欠けるものだった。すでに自分の手から離れた土地で、彼がこの数年間どのように過ごしていたのかこそ気になるところであるのだが、彼はそのあたりには言及しないままだ。言葉の端々に、詳細については触れるな、という無言の圧力をにじませている。
 話せることは話す、とプロイセンは言った。だからこんなふうに話しているということは――つまりはそういうことなのだろう。しゃべりすぎで立場がより悪くなるのは彼のほうだ。だから、ドイツは追及を諦め、相槌を打つに留めた。
「それでいままで本土にいなかったのか」
「そういうこった。ったく、ややこしいのかシンプルなのか、わっかんねえ理由だよな」
 彼はふっと苦笑すると、一拍置いてから続けた。
「おかげでこっち来て事情だのいきさつだの聞いてびびったぜ。ま、おまえが無事だっつーのはすぐ教えてもらえたからよかったけどよ」
「なら、いまは現状を把握しているんだな」
「ああ」
 軽く首を縦に振ったプロイセンを、ドイツは横目で一瞥した。そして、少しためらいがちに言う。
「……現況のまま行けば、俺たちは敵対することになる。いや、もうしているのか」
 プロイセンはうつむいて目を瞑ったあと、ドイツを斜めに見上げた。皮肉っぽい笑みには、自嘲の色が浮かんでいる。
「ああ、そうだな。そんでもって俺はソ連の下っ端だ。……俺もたいがいいろんなやつと喧嘩してきたけど、まさかおまえが相手になる日が来るなんてなあ。……思ってもみなかった」
「俺もそうだ」
 プロイセンは再び顎を上げると、遠い目をして呟いた。
「嫌だなあ、喧嘩なんて。いや、殴り合いは慣れてるし、まあ嫌いじゃねえし、もともと得意なほうなんだけどさ。でも、やり方と相手がなあ……」
 と、彼は木箱から飛び降りて、ドイツの前に立つと、やる気のなさそうな生温い動きでシャドウボクシングを二、三度して見せた。
「おまえ、手加減しろよ? 俺のがガタが来てて不利なんだからよ」
 プロイセンは左腕でドイツの肩口に軽く正拳突きをした。ふざけて小突くようなその手をとらえたドイツが、はっと思い出したように尋ねる。
「おまえ、体は大丈夫なのか。戦いが終わってからも相当めちゃくちゃにされただろう」
「んー、まあどうにか。しっちゃかめっちゃかだけど、なんとか持ち直した。おまえにタックルされても大丈夫なくらいには。ンな顔すんなって、平気だから」
 プロイセンは片手を腰に当て、心配するなと首を振った。
「おまえこそ、調子はどうだ?」
「俺は大丈夫だ」
「そっか。まあ、コンディションの差は理解してるけどさ。こっから先、あんま本気でいじめてくれんなよ?」
「おまえと喧嘩するのは確かに気が引ける。だが――」
 ドイツは、プロイセンの手首を握る力を強めた。プロイセンは不思議そうにまばたきをしている。
「『だが』――?」
「どこにいるのかわからないよりは、近くでにらみ合っているほうがいい。消息が知れないというのは、本当に嫌なものだ」
「あ……」
 見上げてくるドイツの双眸はわずかな淀みさえない、真剣なものだった。腕を引き寄せられたプロイセンは、返す言葉を見つけられずに視線をさまよわせた。相手の真摯な瞳に罪悪感を覚えながらも、ああ、こんなに心配されていたのか、とどこか嬉しい気持ちを胸の奥に感じずにはいられなかった。


秘められた傷跡

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