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秘められた傷跡


 ドイツは何分か、じっとプロイセンを見つめた。プロイセンにはそれが何時間にも感じられた。眉間に皺を寄せたドイツのしかめっ面はいまにはじまったことではないが、今日はそれに加えて、平生では見られないような、深い感情の揺らぎが瞳の青の中にざわついている。そのことに、プロイセンのほうが落ち着かない気分になり、つい目を逸らしてしまう。しかし、手首をつかまれたままなので、半歩と下がることはできない。
 少し経つと、ドイツは何度かすばやくまばたきをしたあと、徐々に視線を足元へ下ろしていった。完全にうつむいてしまった彼の頭のてっぺんを見下ろして、プロイセンは上擦った声を上げた。彼がどんな表情をしているのか、見えない。
「なんつーか、その、ごめんな? 心配かけた」
「まったくだ」
 かすかに震える声が返ってきたかと思うと、手に生温い水気を感じて、プロイセンはぎょっとした。
「え、ちょ……おま、なに泣いてんだよ!? うわ、超びっくりしたんだけど!」
 驚いたことに、水源はドイツの目だった。
 涙腺から流れた温かい水は、顔の表面を伝って鼻の頭に到達し、何本かの水の軌跡が合流したところで水滴として塊をつくり、やがて重力に引き寄せられて落ちていく。
 二滴、三滴と続くそれは、プロイセンの手の甲で弾け、皮膚を湿らせていく。彼は信じられないといった面持ちで口をぱくぱくと開閉させ、
「ははははは……なんだよ、俺が帰ってきたのがそんなに嬉しいのかよ。泣かしちまうなんて、俺も罪な男だよなー、ははははは」
 なんとか場を取り繕おうと早口になった。しかし、相手には通用しなかった。
「うるさい、放っておけ。デリカシーのないやつだ」
 ドイツはプロイセンの手を両手で掴むと、その甲を自分の額に押し付けた。プロイセンはあたふたと喚く。
「んなこと言われたって、これじゃまるで俺が泣かしたみたいじゃん!」
「そのとおりだろうが」
「俺のせい!?」
 プロイセンは叫んだが、ドイツは押し黙ってしまい、それ以上何も答えようとしなかった。彼は空いている手をドイツの頬に伸ばすと、ほんの少しだけ面を上げさせ、涙の粒が溜まったまつげに親指を触れさせた。泣き顔をさらさせるのは忍びなかったので、無理にこちらを向かせることはしない。プロイセンはうつむいたままのドイツの顔を指の腹で触りながら、
「あー、もう、涙に鼻水まで出してさあ……せっかくの男前が台無しじゃん」
 そう言って苦笑すると、彼の金髪に指を絡め、オールバックを崩して前髪を下ろさせる。額と、少しだけだが目元も隠れた。
 ドイツは嗚咽さえ漏らさず、ただ静かに涙を流していた。落ちる水滴に気がつかなければ、誰も彼が泣いているとはわからないだろう。
 プロイセンはドイツの手から自分の左手をゆっくり外そうとした。ドイツが逃がすまいと力を込めてくるが、プロイセンは逃げないからと約束して拘束を解かせた。そして、左手をドイツの後頭部に、右手を背に回して、相手の体をそっと自分のほうへ傾かせた。前髪の降りた彼の額を、自分の胸元に押し付ける。
「……うん、そうだな、俺のせいだよな。……ごめん。ほんと、ごめん」
 プロイセンはドイツをぎゅっと抱き締めると、目の前にある崩れた頭髪に鼻先を埋めた。
「ごめんな……」
 掛けてやりたい言葉はいくつもあるはずなのに、結局出てきたのは短い謝罪だけだった。だから、その一言にあらゆる想いを込めた。伝わったかはわからない。けれども、彼がいまできるのはそれだけだった。話したいこと、聞きたいことは山ほどある。でも、いまは無理だ。環境が許さないのもある。が、それ以上に、どうしても言えなかった。言語に託すには、彼の辿った軌跡はあまりに長く、多くのことがありすぎた。ドイツにしても同じだろう。彼我の間には、語れないことがいくつもいくつも降り積もっている。その山は、これから先も高くなっていくに違いない。
 言葉にできない代わりに、彼はますます腕の力を強めた。ドイツもまた、彼の背に腕を回して抱き返してくる。プロイセンがドイツの背を撫でてやると、しばらくして、胸に振動が伝わってきた。ようやく漏れてきた嗚咽に、プロイセンはいくらかほっとした。
 こいつも我慢してたんだな――失ったものは多いけれど、それでも戻って来られてよかったと、彼は思った。
 ドイツの頭に顎を預け、狭い路地裏からいつの間にか暗くなった空を見る。薄暗いグラデーションには、ぽつぽつとまばらな星影がきらめいていた。
 再び静寂が戻ってからも、プロイセンはドイツの背をさすっていた。放っておいたら、いつまでもそうしていそうだった。彼らとしては、そうしていたかったかもしれない。この時間の続かんことを――。
 プロイセンが刻々と闇を増す夜空を眺めていると、ふいにドイツが小さく動くのを感じた。彼は腕を緩めると、ドイツの横髪に指を滑らせながら見下ろした。
「ん? なんだ?」
 ドイツは少しばかり顔を上げたが、すぐに視線を落とした。前髪の下でまぶたが腫れているのがうかがえた。何か言いたげな様子だったので、プロイセンはそのままの体勢で待つことにした。
 一分もすると、ドイツはプロイセンの服の胸元を握り軽く引っ張った。プロイセンがやや前屈になると、ドイツはその肩口に額を押し付けた。そして、背と肩の動きがわかるくらい長い息を吐いたあと、彼はくぐもったかすれ声で言った。
「無事でよかった」
「うん……ありがとな」
「心配したんだ、本当に」
「うん、俺も気がかりだった」
「よかった。また会えて、本当に、よかった」
「ああ。俺はここにいる」
 プロイセンはドイツの頬に手を添て上向かせると、互いの顔が視界に入る前に焦点が合わないほど距離を詰めて、こつりと額をつけた。まばたきをするとまつげの先がかすめる。
「いまは泣いとけ。なんなら殴ってもいいぞ」
 突然不穏な提案をするプロイセンに、ドイツがきょとんとする。
「何を言うんだ」
「俺がおまえの立場だったら、『心配させやがってこの野郎、意外と元気そうじゃねえか!』って一発くれぇ殴りたくなると思うんだけどな」
 殴りたかったら一発くらいいいぞ、と示すように、プロイセンは自分の頬から顎に掛けて、拳を当てて見せた。ドイツは気が抜けて、ふっと息をついた。
「おまえは……相変わらずだな」
「ああ、そうだ。ちったぁ安心したか?」
「そうだな」
 まだ声はかすれているが、しっかりとした返事にとりあえず安心して、プロイセンは長らく触れ合っていた体を離そうとした。しかし、ドイツが上腕を引っ張って留めてくる。
「なんだよ?」
「もう少し」
「うん?」
「もう少し、このままで」
 と、ドイツはプロイセンの肩に頭を預けた。さすがに恥ずかしいことを言っているという自覚があるのか、さっと下を向いたきり、無言になる。プロイセンは彼の珍しい行動に呆気に取られていたが、
「おまえにもまだ少しはかわいげが残ってたんだな」
 腕を背中に回すと、ぽんぽんとあやすように叩いてやった。
 甘えられるのは、悪い気はしなかった。ともすれば、彼がこんなふうに接してくるのははじめてのことかもしれない。
 ――かわいいところもあるじゃないか。
 プロイセンはこっそりとドイツの髪にキスを落とした。


会える日を信じて

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