あたたかい場所
そろそろ日付が変わる時刻だ。モスクワは一足先に明日になっている。
使える時計は小窓の壊れた鳩時計だけなので、時報の正確性は怪しいところだが、的はずれということもないだろう。室内の冷え込みは紛れもなく深夜のもので、これからさらに気温は下がるのが予想された。
プロイセンはまだ整理の済んでいない部屋で、荷物の箱を漁りながらロシアに言った。
「ベッドは使っていい。お客を床に寝かせたら大目玉だ」
ベッドメイクは自分でやれ、と配給されたばかりのシーツを投げて渡す。
「きみはどうするの。シーツはともかく、毛布とか布団は一組だけなんでしょう、この部屋の様子からすると」
ロシアが確信をもった様子で尋ねてくる。夕方からここにいたなら、断りもなく荷物を物色していたのかもしれない。もっとも、ほとんど支給品で私物なんてろくに揃ってない状態だ。見られて困るものは特にないので、まあいいか、とプロイセンは追及しなかった。そもそもプライベートが保障されるような環境でないのは、重々承知している。
「俺はそのへんで転がっとくから気にすんな。新聞かぶって寝りゃ結構あったかいしな」
答えつつ、彼は本当に新聞を持ち出した。日付は最近のものだ。こちらに戻った翌日に購入した一紙で、いくつか気になる記事を切り抜いたため、ところどころ穴開きになっている。そんな新聞を床に広げはじめた彼に、さすがのロシアも呆れている。
「いまは冬だよ?」
「雨風凌げりゃ十分だ。ここはシベリアじゃねえんだし」
と、コートを着たまま床に横になろうとした彼の腕を、立ち上がったロシアが掴んだ。
「おい?」
疲れてるんだから寝かせろ、と文句を言おうとしたプロイセンの脇に腕を指し込み、ロシアが上体を持ち上げた。怪訝な表情で見上げてくるプロイセンに、ロシアは視線でベッドを示した。
「一緒に寝ればいいじゃない。そのほうが暖かいよ。ここ暖房ないんだし」
「おまえなあ……俺が上司に叱られるのをそんなに見たいのかよ」
「言ったりしないよ。寒いのはつらいでしょう。僕はあったかいほうが好きだな」
ロシアは一方的に決定すると、プロイセンの体をずるずると引きずって、ベッドまで移動した。プロイセンは自力で歩こうとはしなかったが、気合を入れて床に張り付くこともなく、されるがまま、荷物のように運ばれていった。
*****
結局ベッドメイクはプロイセンがやることになった。そしてロシアの主張どおり、狭くて質の悪いシングルベッドに図体のでかい大人がふたり、窮屈に収まる羽目になった。
なんで自分のうちに帰ってまでこんな落ち着けない状態になってるんだ。
プロイセンはベッドの端、落ちるか落ちないかぎりぎりのところで側臥位になりながら、まるで安らかでない心持ちだった。それはそうだろう。真横というか真後ろにというか、とにかくすぐ隣にロシアがいる。かなり遠慮して端に寄っているので密着はしていないが、相手とは十センチと離れていない。
なんとか距離を取ろうとするあまり、曲げた膝がベッドから飛び出ている。もういっそ、落っこちたほうが楽かもしれない。
ロシアが寝付いたらそうしてやろうと計画していると、ふいにブランケットの中がもぞもぞと動いた。と、次の瞬間、
「ひぃっ!?」
突然腹から胸にかけてひやりとした感覚が生じ、彼はびくりと肩を上げた。やや遅れて、鳥肌が立ったのがわかった。
事態を理解したのは、鳥肌が絶頂に達したときだった。恐怖ではなく単純に寒冷によるものだが、それゆえ長引きそうだ。プロイセンは、上半身に回されたロシアの腕を軽く叩いた。
「ちょ、冷てーんだけど……」
ただ腕を回すだけならまだしも、服の下に手を突っ込んで直接肌に触れてくる。体幹に比べて末端は体温が低い。そして、熱は高いほうから低いほうへと移っていく。
当然のこととして、プロイセンはロシアの手に体温を奪われるかっこうになる。
振り返って文句をつけたいところだが、狭い上に後ろから抱き込まれるような体勢のため、それもままならない。
「僕はあったかいよ」
ロシアは呑気にそう言うと、プロイセンの体を器用にころんと回して、自分のほうを向かせる。そして、今度は背中に腕を差し込む。せっかく治まりかけたと思った鳥肌が再燃し、プロイセンはまたしてもびくっと固まった。
「だから、冷たいっての」
「うん、あったかいね」
だめだ、会話が成立しない。
プロイセンは寒気に加えて頭が痛くなってきた。まるで風邪の前駆症状だ。
「あのなあ……」
「そのうち慣れるよ」
「それ、さっきも聞いた」
「僕のうちが出した偉大なる作家はこう言ったよ――『人間はどんなことにも慣れる』――って」
朗々と語るロシアの声を聞きながら、プロイセンはその作家の名前を心の内で呟いた。話に乗ってやるつもりはないので口にはしないけれど。
「彼はあくまで人間について言ってるけど……僕たちみたいな存在についても当てはまるって思わない?」
プロイセンは肯定も否定もしないまま、体を丸めブランケットに頭のてっぺんまで潜ってしまう。
暗い部屋とはいえ、近距離であれば相手の表情がわかる程度には、夜目が利く。寝る前に眺めていたい顔ではない。彼がだんまりを決め込んでいると、ロシアは背中に回した腕に力を込めた。
「きみがここでこうしているのが証拠だと思うんだけどなあ」
「……っん」
しばらく外気にさらされていたために冷たくなった肩をぎゅっと抱き込むと、毛布の下でプロイセンの低いうめき声が小さく響いた。続いて、ゆっくりと漏れる吐息の気配。ロシアはそれを聞き届けてから、ぱっと腕を緩めてやった。
「ああ、冷えると体痛むんだっけ? 大丈夫? ごめんね、きみって普段無駄に元気そうだからつい忘れちゃって。まだ体、治ってないのに」
しれっとした声でロシアが尋ねてくる。プロイセンは毛布に顔が隠れているのをいいことに半眼になった。
「……わかってるならやめろ。まあ、このくらいなんてこたぁないけどよ」
「ならいいでしょ。ほら、脚のほうも、もうちょっとこっち来ないと落ちるよ」
プロイセンはロシアに脚を絡め取られるようにして引き寄せられた。腕は相変わらず胴に回ったまま。身動きが取れないとはこのことだ。
「床で寝たほうが大分楽な気がする……」
「うん、いい感じ。じゃあ、おやすみ」
どちらにとっても安息にはほど遠い体勢だろうに、ロシアはまったく気にした様子もなく、改めて枕にぽふんと頭を乗せた。プロイセンはもはや諦めるしかなかった。
「ああ……もうとっとと寝ろ」
「おやすみ」
「……おやすみ」
プロイセンはくぐもった声で挨拶を返した。
それきり音ひとつ立てず、互いに横向きで対面するように、前屈姿勢でこぢんまりと寝ていたが。
二十分ほどしたところで、毛布が引っ張られるような動きを感じた。毛布の中で目を閉じて微動だにしていなかったプロイセンだったが、突然の冷たい外気に顔をくすぐられ、ぱちりとまぶたを持ち上げた。眼球の動きだけで空気の入ってきたほうを見れば、真上にロシアの顔があった。輪郭すら覚束ないが、口元がわずかに微笑んでいるような気がする。瞳の色も定かでない暗闇の中だったが、不思議と視線が合うのがわかった。プロイセンが、なんだよ、と目で訴える。
「眠れない?」
ロシアが、答えのわかりきった質問をしてくる。プロイセンは面倒くさそうに言った。
「当たり前だ」
「きみはいつもそうだよね」
「最たる原因が何を言ってんだか。おまえこそ、さっさと寝たらどうだ」
「きみのうちで、きみを差し置いて眠っちゃうのは悪い気がして」
「殊勝なお言葉どうも」
眠ってくれたほうがありがたいんだが、とプロイセンは胸中で付け加えると、再びまぶたを下ろした。
「じっとしてるの、暇じゃない? きみってもともと落ち着きないしさ」
「別に。疲れてんだ、ほっといてくれ」
「なのに眠れないんだ?」
と、ロシアは彼の頬に手をやると、くいと上を向かせた。
「……なんだよ」
「やっぱり、僕ひとり寝ちゃうのは悪いなあと思って」
「……おまえんち、サービス業苦手だろーが」
プロイセンはあからさまにため息をついたあと、上方へ首を伸ばして相手との距離を詰めた。ブランケットから頭が出て、首筋が外の冷気に触れる。けれどもそのとき感じていたのは、寒さではなく、熱だった。
→耐えてこそ
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