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その年のクリスマス 昼


 部屋を簡単に掃除したドイツは、常備薬を保管したプラスチックケースを片手に立ち上がり、長細い簡易クローゼットへと向かった。毛布に包まりソファで転がっていたプロイセンだったが、ドイツがクローゼットから衣服を取り出すのを見て、跳ねるように起き上がった。
「ど、どこ行くんだよ?」
 コートを漁っているとでも思ったのか、途端に不安そうな声音でプロイセンが尋ねてきた。家にひとり置き去りにされると感じたのだろうか。ドイツは振り返ると、ハンガーから取り外したエプロンを掲げて見せた。
「外に出たりはしない。心配しなくても約束は守る。キッチンに行くだけだ。菓子でもつくろうと思ってな。時間も材料もあるし。食べるだろう?」
「お、おう」
 プロイセンはあからさまにほっとし、緊張にやや強張っていた肩の力を抜いた。
「シュトレンか?」
「いや、それはもうつくってある。微妙に各種材料が中途半端に余っていてな、適当に焼き菓子でもつくろうかと」
 ドイツはエプロンの肩紐に腕を通してセットすると、キッチンへ続く扉へ向かった。が、プロイセンの座るソファの横を通過しようとしたとき、
「む?」
 軽く後ろへ引っ張られる感覚を覚え、ドイツははたと足を止めて振り向いた。見やれば、先ほど結んだばかりのエプロンの紐がほどけていた。そして、その端をプロイセンの指が摘まんでいる。どうやら彼が引っ張って解いてしまったようだ。
「……なんのつもりだ」
「いやぁ、いかついおまえの背中にちょこんとリボン結びがあるのが逆に妙にかわいらしくてだな」
「そうか」
 特に意味はないがドイツを構いたかったらしい。やれやれ、とドイツはため息をひとつついた。彼が意味もなく構ってくるのはいまにはじまったことではない。うっとうしさを感じたときもあったが(ドイツにだって難しい年頃というのはあったのだ)、複雑な時代を経たいまとなっては、気兼ねなく接触できることが嬉しかった。
 プロイセンは自分が解いたエプロンの紐を結び直すと、ぽんとドイツの背中を叩いて台所へ送り出した。うまくつくれよ、と言って。先ほど見せた、迷子の子供のような不安そうな表情はすでに鳴りを潜めていた。
 ドイツがひとりキッチンで粉ふるいをかけていると、背後から戸の軋む音がした。ふるい器を手にしたまま肩越しに振り返ると、戸口にプロイセンが突っ立っていた。柱にもたれかかるようにして。
「どうした?」
「手伝う。ひとりで寝転がってても暇でしょうがねえ」
 プロイセンは少々不安定な足取りでカウンターの中に入ってくると、ドイツの隣に並び、菓子づくりの進行具合を確かめた。が、一分もしないうちに、プロイセンはくしゃみを連発した。あたりに漂う小麦粉に鼻粘膜を刺激されたようだ。
「風邪引きは休むのが仕事だ」
「いまのは風邪関係ねえ。ここ、粉っぽいんだよ。鼻がむずむずして仕方ねんだよ」
「その割には鼻水がすごいが。いいからおとなしくしていろ」
 ドイツは手近にあったティッシュボックスから二枚取ると、プロイセンの鼻に軽く押し付けた。プロイセンは相手からティッシュを受け取りながら、相変わらずのくぐもった鼻声で、不満そうに言った。
「あぁ? 何言ってんだ。こちとらすでに年単位で風邪引いてるっての。やたらめったら忙しかったこの一年だって、ずーっと鼻ずびずびのがびがびで仕事してきたんだぜ。いまは熱もねえことだし、こんくらいで寝込んだりしないっての」
 自信ありげにそう断言すると、親父くさい仕種で盛大に音を立てて鼻をかむ。ドイツは足元のダストボックスのペダルを踏んで蓋を開け、そこに捨てるよう示してから、
「体調不良の状態がデフォルトになっているのか。よくないぞそれは。せっかく休みをもらったんだ、少しでも体を休めておけ。おまえが不調だと、俺も心配だしな」
 ドイツのてらいない言葉に感じるところがあったのか、プロイセンは数秒の沈黙のあと、口をへの字に曲げつつカウンターから出て行った。しかし、キッチンを退出する気はないらしく、ダイニングのテーブルに頬杖をついて座った。そして、テーブルに突っ伏して文句を垂れる。
「くそー。クリスマスに寝込むとかまじ最悪だ」
「元気だったらだったで、出かけるの面倒くさいとか言ってどっちみち家でごろ寝してたんじゃないか? ひとりがいちばんとか言って」
「意図的にごろごろすんのと、やむを得ず伏せるのは違うだろうが」
「まあそれはそうだろうが……。しかしどのみちゆっくり過ごすつもりだったから、俺は別に構わないぞ。今年はおまえと一緒がいいと思っていたし」
 ボウルで鶏卵の黄身を掻き混ぜながら世間話のような口調でドイツが話す。プロイセンはしばしの沈黙のあと、組んだ腕に顔を伏せたままぼそりと言った。
「……なら俺に感謝しろよ」
 先刻よりも鼻声が顕著だ。ずず、と鼻がすすられる音を聞いたドイツが大丈夫かと心配そうに尋ねてきたが、プロイセンは小さくうなずくだけで、顔を上げようとはしなかった。
 ――くそ、ちょっとジンときちまったじゃねえか。あれっぽっちのことで。
 突然の来訪に加えて病人の世話という事態をもたらしても、ドイツが自分を疎んじたりしないとは信じていた。けれどもやはり、それを言葉にして表されると嬉しかった。しかし、彼に対してそんなふうに感じていることが癪で――というより気恥ずかしくて――プロイセンは胸中で悪態をついた。といってもその本質は、立派に成長した彼を誇る気持ちなのだが。
 ああ、俺はいい弟分に恵まれたもんだ。いや、俺がそうしたんだけどよ。でも、あいつは昔からできたやつだったな。はは、まあこの俺と血を分けてるんだからそれも当然か。……………………。
 過去の時間と、その結果としての現在が入り乱れる中で感慨に耽っていると、いつしか睡魔が脳裏に忍び寄ってきた。
 次に目が覚めたのは、肩が揺らされているのを遠く感知したときだった。
「ん……」
「起きろ。冷えるぞ」
 まぶたとともに首をわずかに持ち上げると、視界が翳っているのがわかった。テーブルに片手をついたドイツが斜め上から覗き込むようにして肩を軽く叩いたらしい。
「熱は上がっていないようだな」
 ドイツはプロイセンの頬に指の背を当てて確認した。水仕事で冷えた手から伝わる感覚が気持ちよかった。プロイセンは数秒目を閉じてその冷感を味わった。
「焼けたんだが、食べるか? 結局簡単にクッキーにしておいた。シュトレンもあるぞ」
 ドイツは空いたほうの手でテーブルの右端を指した。シュトレンの一片とできたてのクッキーが数枚皿に盛られていた。
「おー……」
 相変わらずうまくつくるなおまえ。
 プロイセンはテーブルにへばりついたまま低い視線で皿の上の菓子を眺めた。きっとあたりには菓子の甘い香りが漂っているのだろうが、残念ながら詰まりに詰まった鼻では、香料は意味を成さなかった。それでもプロイセンは少しでも香りを楽しみたいのか、赤く充血した鼻の頭を近づけた。結局何の嗅覚も生まれなかったけれど。
「なんか甘さ足りなくね? これがこっちの最近の流行なのか?」
 何口か食べたあと、プロイセンは不可解そうに眉を寄せた。
「そうか? 昔と特に変わりないと思うんだが。風邪で鼻がきかないのと、味覚が鈍っているせいではないか?」
「そっかー? ううむ、なんか損してる気分だ……」
 プロイセンは小難しげに眉根を寄せると、皿の中央に鎮座する主役、シュトレンの欠片とにらめっこした。
 プロイセンが珍しくゆっくりとしたペースで食べ進めていると、先に皿を空にしたドイツがおもむろに立ち上がり、カウンターのそばまで歩いていった。備え付けの棚に置かれたティッシュボックスに手を伸ばし、軽く鼻をかむ。食事中の相手の前では悪いと思ったのか背を向けて動作が見えないようにしているドイツだったが、姿勢と音からそれを悟ったプロイセンは、かちゃん、と小さな音を立ててフォークを皿に置いた。そして、不似合いなしおらしい声音でぽつんと言う。 
「あー……なんかその、悪かったな」
「何がだ?」
 目をぱちくりさせながらドイツが顔を向けると、プロイセンは気まずそうに視線を逸らしつつ、姿勢を正した。
「風邪、うつしちまった。おまえもこれから具合悪くなるかも」
「気にするな。そういうこともある」
 ドイツは手早くティッシュを丸めて捨てると、手を洗ってから替わりのコーヒーを持って再び席についた。
 それから、ふたりで何をするでもなく、ただテーブルを挟んで対面し、くつろいだ時間を過ごした。会話は弾みはしないが、気詰まりでもない。
「こうしてゆっくりすんの久々だな」
「そうだな。例の事件から一年以上経つが、慌しいわ仕事が増えるわでてんやわんやだったからな。調印以降も、スケジュールいっぱいだったことだし」
 本当に忙しい一年だった。
 ドイツは息を吐くと、大仰に肩をすくめた。
 プロイセンは飲み差しのコーヒーカップの取っ手に指を引っ掛けながら答えた。
「休日、合わなかったもんなあ。俺はいろいろ後始末に回ってたし。あの日も、記念だなんだっておまえんとこの上司連中から花贈られたけど、結局全然面倒見れないってか家に帰る余裕がなくて、すぐに枯らしちまった。いい花だったのに、もったいねえ」
「もともと、おまえは花の面倒を見るようなタイプではないだろう。サボテンあたりにしておくよう、上司に進言しておけばよかった」
「だいたい、一人暮らしの男の家に花とかなあ……。あっても悪くはねえけど、どちらかっつーとイモのが助かったぜ。家計的にも。保存利くし」
 彼なりのユーモアなのか、それとも本気なのかわからなかったが、所帯じみた彼の呟きがおかしくて、ドイツは小さく笑った。




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