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一応1990年代のつもりです。





風邪っぴき



 長らく続いた冷たい緊迫の時代が幕を下ろした。呆気ないといえばその通りだったが、変換期は短期間であるのが常だ――でなければ同時代の人間はそれが変化であると察知できない。だから、歴史の長い時間と道のりを振り返れば、あの激動はまさしく点であるに違いない。だが、真に激しいのはむしろ変わったあとの時期だろう。変化への対応は、変化そのものより複雑で時間を要するものなのだから。

 ドイツは、近隣諸国との経済フォーラムで用いた資料を分野ごとに色分けしたファイルに挟むと、それらをまとめてアタッシェケースにしまい、蓋を閉じた。隣を見ると、オーストリアが先刻までドイツがしていたのと同じような作業をしているが、まだ半分も終わっていない。いつものことなのでいまさら気にはならないが、じっと見ているとつい手を出したくなる。なので、ドイツはすぐに視線をずらすと、早々に立ち上がった。
「相変わらず仕事が早いですね。もう帰るのですか?」
 書類の端をとんとんと机にあてて揃えながら、オーストリアが見上げてきた。ピアノが趣味の彼は、指先を保護するためなのか、内職のおばさんのようなゴム製でオレンジ色をした指サックを両手の五指につけている。だから作業が遅いんだ、とドイツは呆れるのを通り越してむしろそのプロ意識にも似た彼の心構えに賞賛を送りたくなった。
「ああ。家に病人がいるんでな、あまり放っておけない」
 暗に、最近以前にも増して業務後の付き合いが悪くなっているのではないか、と指摘されているような気がしたので、ドイツは自発的に事情を話した。すると、オーストリアは作業の手をはたと止めた。余計遅くなるから手は動かせ、とドイツは思った。ああ、手伝いたくてうずうずする。しかし、中身は同じとはいえ他国が所有する資料なので、自制する。そんなドイツの心情などどこ吹く風、オーストリアはマイペースだ。
「病人が家に? あなた、いまは一人暮らしのはずでしたよね?」
「一時的な居候だ。一ヶ月ほど前、どうにも最近体調が悪いからしばらく泊めてくれと言って上がり込んで以来、ずっと滞在しているんだ。実際本当に具合が悪いらしく、頻繁に熱発を起こすから追い出すわけにもいかなくてな、仕方ないから家に置いている。第一、あれでは移動できないだろうからな」
「もしかして、彼ですか」
 代名詞で示される第三者が誰であるのか、ふたりの間では明白だった。
「そうだ。あいつ、家の経済がよくない上、実家は火の車ときているだろう。そのせいで高熱続きでな……寝込みっぱなしだ」
「そんなに悪いんですか?」
 不調は予想していましたが、とオーストリアが付け加えた。ドイツはうなずきながら答える。
「悪いな。おとといはトイレに行ったはいいが、帰り道で力尽きて廊下で倒れていた。五メートルもないような距離だぞ? 買い物から帰って廊下でぶっ倒れているあいつを発見したときは、死体かと疑うような反応のなさだった。熱のせいで体はむしろ熱かったが。それでも意識は多少あったようで、運ぼうとしたら嫌がられた。まったく……。まあ、結局担いで部屋まで連れて行ったんだが」
 困ったものだ、とドイツは指先を眉間に当てて眉根をしかめた。ドイツの口ぶりから、一回や二回の出来事ではないのだろうな、と推測がつく。オーストリアは納得するように何度か緩く首を縦に振った。
「プライドに触ったんでしょうね」
「気持ちはわからないでもないが、這って移動しようとする始末なんだぞ。体力を消耗するからやめろと言っているのに」
 嘆息のあと、少し間をおいてから、ドイツは続けた。
「それに、何も言わなくてな……少々気味が悪い」
「何も言わない?」
 オーストリアが繰り返した。説明を求めているのだろう。ドイツは、ああ、と一度顎を下げてから、
「あいつは、たいしたことのない怪我や病気なら必要以上にぎゃーぎゃーと死ぬかもだのなんだのと喚くが、本当に具合が悪いときは強がるかだんまりを決め込むか、だからな。何も言わないということは、それだけ不調なのだろう」
 顔をしかめたまま目を閉じた。オーストリアが彼の横顔を観察すると、いくらか疲労の足跡が残っていた。仕事でも家でも、彼はよく働いているようだった。

*****

 業務後、帰宅したドイツは、スーツのまま二階にある客用の寝室に向かい、扉を二度ノックした。返事はない。が、彼は構わずドアを押すと中に入った。
 部屋の左奥の角に置かれたベッドには、ひと一人分の丘がこんもりとできている。ナイトテーブルには、マラソンランナーが使うようなストロー付きの水筒が置かれている。中身はナトリウムとビタミンを溶かした水だ。ドイツはベッドの手前に立つと、水筒を持ち上げてちゃぷんと一回振る。水音はほとんど立たず、用意したときと重量に変化がない。ということは、この病人は高熱にもかかわらず数時間、水分を補給していないことになる。ドイツは水筒を持ったまま、身動きひとつせずマットレスと一体化している山に声を掛けた。
「生きているか?」
 身も蓋もない、しかもあまりシャレにならない質問をすると、数秒後に肯定の返事が返ってきた。いや、仮に否定の返事が返ってきたところでそれは結局肯定と同義なのだが。
「……当たり前だ……」
 布団の下からくぐもった弱々しいかすれ声が聞こえる。声量が小さい上、掛け布団を鼻の高さまで引き上げているので、声がこもって余計に聞き取りづらい。布団から出ているのは顔の上部だけだが、それも濡れタオルで目全体が覆われているので、顔はほとんど見えない。わずかに覗く頬が、ひどく紅潮しているのだけがわかった。ドイツは布団の下のブランケットごと少しめくって、
「オーストリアが見舞いに来たぞ」
 と、ここしばらくベッドの住人となっている彼にとって青天の霹靂であろう事柄を伝えた。目の上の布がかすかに動いた。眉をしかめたか、目を見開いたかしたのだろう。プロイセンはブランケットの下で肘を突くと、肩をわずかに浮かせた。思ったより機敏な動作ができたことに、本人もドイツも驚いた。
「は……なんだって? オーストリアのやつが、見舞いに? 笑いに、の間違いじゃないのか?」
 プロイセンはずれそうになるタオルを片手で押さえながら、肩甲帯を枕に乗せようと体をずり上げた。ドイツは手を貸しかけたが、下手に手伝うと機嫌を損ねるので、やめておいた。中途半端に伸ばした腕をゆっくりと引きながら、ドイツは水筒のストローを伸ばした。
「そう言うな。犬猿の仲なのは承知してるが、あいつも心配しているんだ。……起き上がれそうか。だったらまず水を飲め。すでに脱水気味だろう。いい加減点滴を入れるぞ」
「それはやめろ。病人くさくて嫌だ」
 しかも、この状況では抹消ではなく中心静脈点滴にされかねない。いかにも重症なイメージがするので、それは御免被りたかった。寝転んでいるも同然の姿勢で、彼は思った。
「なら、せめて水分はちゃんと補給しろ」
 呑口をかさついた下口唇に当ててやると、相手は反射的に口を開いた。それを見計らってストローをくわえさせる。一度口腔が潤うのを覚えれば、渇いた体が求めるままに彼は水を飲んだ。
 やはり相当水分が不足していたらしい。あっという間に水筒の中身は八割方なくなった。プロイセンはストローを口から外すと、濡れた唇を舌で舐めた。
「……やつが心配しているのはおまえだろ。厄介な荷物が増えて、割を食うのはおまえだからな」
 ちょっと不機嫌そうな声で彼は言ったが、生憎目元が隠れたままなので表情はよくわからない。ドイツは呆れたため息をついた。
「あのな……自分に皮肉を言うのはやめろ。問題は俺たちのものだろうが。俺はそう思っているから、おまえをここに置いているんだ。放り出すことはできないし、そのつもりもない。オーストリアもわかっているし、そうするべきだと考えているだろう」
「は……余裕じゃねえか。おまえも、あの坊ちゃんもよ」
「まあ、いまのおまえよりは余裕だ」
「この野郎……」
 プロイセンはもう一口水を飲んだ。が、姿勢が悪いためか喉頭侵入をきたし、むせ返った。と、その拍子に水筒をひっくり返し、胸元まで盛大にぬらす。
「気をつけろ」
「悪ぃ」
 げほ、と断続的に続く咳の合間にプロイセンが短く言った。こぼした水で濡れたシャツの襟を引っ張りながら。実はほとんど身ひとつで転がり込んだので、服はもっぱらドイツのものを借りているのだった。部屋着なら大きくて困るということはない。どうせずっと寝ているのだ。
「いや、服のことじゃなくてだな。……着替えるか? それでオーストリアに会うのは嫌だろう」
 ドイツが尋ねると、プロイセンは緩慢な動作で体を壁のほうへ向けて、不貞腐れたように答えた。
「見舞いに来る来ないはやつの自由だし、来ちまったもんはまあ仕方ないが――俺は会わないぞ」
「どうしても、か?」
「どうしても、だ」
 それきりプロイセンは口を閉ざした。頑として譲らない……というより、もうそれ以上しゃべっている元気がないといったほうが正確かもしれないが。訪ねてきたときよりも息が上がっている。
 ドイツは、この調子ではどのみちたいして話せないだろうし、話させないほうがいいだろうな、と判断し、彼の主張を受け入れた。
「わかった。そう伝えてくる。……ああ、タオルが温くなっているんじゃないか? 氷と一緒に替えを持って来る。少し待っていろ」
「ああ……」
 もぞ、と彼がブランケットに潜り込んだのを見届けてから、ドイツは寝室をあとにした。


対症療法

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