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対症療法


 リビングで待たせてあったオーストリアは、やはりフォーラムのときのスーツのままだ。彼はドイツが二階から降りてくるのを見とめると、目を通していた資料を封筒に戻した。
「どうです、プロイセンは?」
「おまえには会いたくないそうだ。……言うと思ったんだ」
 悪いな、とドイツがため息をつくと、オーストリアは気にしたふうもなく、むしろ予想通りの展開に満足したといった雰囲気さえたたえながら言った。
「でしょうね。私もそう言うと思っていました」
「わかってて来たのか」
「私が出向いたと知れば、たとえ顔を合わせなくても、彼は皮肉か文句のひとつも言うでしょう?」
 オーストリアがいたずらっぽく首をすくめると、ドイツは先刻のやりとりを思い出しながら、ああ、とうなずいた。
「そういえば、ここ最近のぐったりぶりに比べると、さっきは口数が多かったな」
「どうせ私の悪口でも言ったんでしょう」
「いや……そこまでの元気はないようだったが」
 オーストリアの名前を聞いたプロイセンは、あからさまに不服そうな物言いをしていたが、それほど攻撃的でもなかった。これ自体は褒められるべき事柄なのかもしれないが、日頃の彼の態度を知っている者からすれば、ちょっとした異常現象である。オーストリアは腕を組んで姿勢を正すと、深刻そうにトーンを落とした。
「それは……相当ひどい状態なんじゃないですか?」
「かもしれない。まったく……ロシアも何をしてくれたんだか」
 壁が壊され、それに続いて対立構造は一応の消滅を見たものの、問題は山積だ。加えて、いまとなっては彼の故郷には手の出しようがない。情報さえろくに入ってこない。あの街は、むしろ現在のほうが状態が悪いようだが。
 頭痛の種だらけだ。ドイツはこめかみを押さえた。
「あの州は完全に混乱していますからね。長いこと閉鎖されていたので私も現状を直接見たことはありませんが、伝え聞くところによれば、もう秩序も何もあったものではないようです」
「俺もあちらにはタッチできないからな。内政干渉になりかねない。いまは国内の問題に対応していくのが関の山だ。当面は対症療法になるだろうが……それも簡単ではなさそうだ」
 はあ、とため息の絶えないドイツに、オーストリアが苦笑まじりに、彼にしては珍しい軽口を言った。
「まあ、なんだかんだでしぶとそうですから、死にはしないでしょう。そう考えます」
「だな。俺もそう思っておこう」
 口先だけでも楽観的に振る舞い、ドイツは肩をすくめた。仕事が増えるのは、それほど苦にはならない性分なのだし、と付け加えながら。
 と、オーストリアはわざとらしく手首を持ち上げ、ワイシャツの袖を引いて腕時計をあらわにした。そこに目を落としてから、彼は書類を鞄に入れた。
「では、私はこれで」
「ほんとに来ただけじゃないか。コーヒーくらい出すぞ」
 ドイツがキッチンへ向かおうとする。オーストリアはその足を止めようとはしなかったが、自分は自分でとっとと帰り支度をすませて、玄関へ歩いていった。
「おい……」
「病人の世話が先でしょう?」
 オーストリアが肩越しに言ってくる。ドイツはやれやれと息をついた。
「悪いな」
「いえ、私が勝手に来ただけですので。あなたのためにも、彼の回復を祈ってますよ。……ハンガリーも、殴る相手が殴れない状態ではストレスが溜まるでしょうから。それでは」
 見送りはけっこうです、とだけ言って、オーストリアはリビングを出て行った。ドイツは思い出したようにスーツの上着を脱ぐと、改めて台所へと足を向けた。

*****

 再び、二階に上がって寝室のドアをノックする。やはり返事はない。勝手に入ると、プロイセンが先程ここに来たときと同じように仰向けで布団に潜ってタオルを目に当てているのが見えた。
 ドイツは、氷の入った洗面器をナイトテーブルの上に置き、プロイセンを見下ろした。
「言われたとおり、オーストリアは帰してしまったが、本当によかったのか?」
「話すことなんてねえよ」
 少し苦しそうだが、反応は鈍くない。起きていたようだ。
「まあ、あまり話さないほうがいいだろうな。ちょっとしゃべっただけで息が乱れるようでは」
「うるさい」
 ぷい、と顔を横に向けるプロイセンだったが、仰臥位のままなのであまり意味はない。
 ドイツは新しいタオルを洗面器の上できつく絞ると、空いているほうの手をプロイセンの頭に伸ばした。額のタオルを取ろうとしたのだが、ふいにプロイセンがブランケットの下から手を引き出し、タオルの上に置いた。不可解な動作を怪訝に思いつつ、ドイツはタオルを掴む。
「やはり温くなっているな。いや、乾いているというべきか。こんなに水分を蒸発させるとは……。新しいタオル持って来たから、替えるぞ」
「ん……」
 冷却効果などとうに失ったタオルを交換しようと引っ張るが、プロイセンの手がわずかな抵抗を見せた。力らしい力はほとんど入らないようで、そのまま取ってしまうのは造作もないことだったが、彼の意図が気になったので、一旦引っ張るのをやめる。
「どうした?」
「いい」
「しかし」
「いい。このままで」
「どうして。冷たいほうが気持ちいいだろう」
 弱っているときの顔をあまりさらしたくないのだろうか。しかし、もう一ヶ月もこんな調子で、ときどき家の中で行き倒れているのを発見されたり、担がれて運ばれたりしているのだから、いまさらではないか。ドイツがそんなことを思っていると、プロイセンがおもむろに彼の手を掴んできた。指先までかなり熱い。
「おい?」
 戸惑いながらも、ドイツは相手の好きにさせてやった。すると、プロイセンは彼の手を広げ、手の平を自分の額に触れさせた。
「冷たい。手、冷たいな……」
「あ、ああ……さっき氷水触ったからな」
 ぺたりと手の平全体で触った彼の額がひどく熱かったので、ドイツは改めて心配になった。だが、続いて発せられた彼の声は意外に穏やかなものだった。
「こっちがいい」
「おい……」
「冷たい……気持ちいい……」
 朦朧としているのか、プロイセンは冷気を求めてドイツの手を持ったまま、寝息を立てはじめた。相変わらず呼吸はやや浅いが、喘鳴はない。
 ドイツは彼が完全に眠ってしまうまでそうしていた。
 頃合を見計らって脱力した彼の手から自分の手を引き抜くと、改めてタオルを洗面器に入れてよく冷やす。そして、彼の前髪を撫でるように避けると、額から両目にかけてタオルを置いてやった。


正しい熱の測り方

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