text


正しい熱の測り方


 静謐な水面に落ちた水滴が波紋を広げるような、透明で静かで冷たい感覚が脳髄をくすぐった。冬の朝のキンと張り詰めた空気を連想する。ああ、こんな気分は久しぶりだ。
 覚醒に向かっていくのが自分でもわかった。水底に沈んでいたからだが徐々に浮上するような、そんな錯覚。眼球にまぶたが張り付いているかのような渇きに耐え、粘ついた感触を覚えながら目を開くと、視界には茶色っぽいテクスチャーが広がっていた。焦点が合わない。指で目をこすると、驚くほどべっとりと目やにが指についた。いったいどれだけ寝ていたというのか。と、そこまで考えたところで。
「ここは……」
 身を横たえているベッドが、自分のものでないことに気づく。真上に広がる天井――そうだ、あの茶色は天井の木目だったのだ――も、自分の家のものではない。
「あいつんちか……。そうだ、俺、どうにも熱が下がらなくて、それであいつを訪ねて……」
 それで、どうした?
 もしかして、いや、もしかしなくても、ずっとドイツの家で寝ていたのだろうか。……いったい何日? ここまで意識が清明になったのはかなり久々な気がする。ということは、意識が混濁していた間ずっと、彼の世話になっていたということだろうか。なにかいろいろやらかした気がする。具体的な出来事を細かく思い出せるほど頭は冷めていないが、それでも断片的にぼんやりとした記憶がよみがえってくる。なにかこう、健康な状態だったら絶対やらないようなことをしていたような……。
「あー……何がどうなったんだっけ……? とにかくしんどかったが……」
 プロイセンは上体を起こそうとして、腹筋の力が利かないのに愕然とした。
「嘘だろ……」
 使用されない筋肉はあっという間に衰えるというが、事実のようだ。彼は肘をついて支点をつくると、どうにかして体を起き上がらせるのに成功した。鉛でも仕込んでいるかのような重さだ。いったいどれだけ寝ていればこんなふうになるんだ、と彼はベッドの上で胡坐をかき、まだぼんやりとする頭を抱えた。
 自分で体を支えるのすら億劫だったが、ずっと臥位だったためか背中や腰が鈍く痛み、これ以上寝転がっているのは苦痛だった。彼は壁に背をついてなんとか座位を保った。しばらくそのままぼうっとしていると、やがてドアがノックされた。
「あ、いるぞ」
 プロイセンは乾燥のためにかすれた声で返事をした。すると、扉の外からちょっと意外そうな声音がした。返事が返ってくるとは思っていなかったらしい。
「起きているのか?」
 ドイツの声だ。蝸牛をくすぐるその音は、久しぶりのような、しかし同時にひどく近しいような、相反する感覚を与えた。
 寝室に入ったドイツは、ベッドの上に座っているプロイセンを見て驚いたが、すぐにほっと安堵の息をついた。
「少しはマシになったようだな。顔色がよくなった」
 そう言ったドイツの顔がなんだか嬉しそうに見え、プロイセンはなぜだかどきりと狼狽した。そして次に、どうやら自分は相当彼を心配させていたようだと思いあたり、いくらか申し訳ない気分になった。そんな殊勝な気持ちになっている自分が我ながらおかしかったけれど。
「あ、ああ……心配かけた……みたいだな」
「まったくだ」
 ちらちらとこちらの様子をうかがいながら言ってくるプロイセンに、ドイツは苦笑のようなため息をつきながら、ベッドサイドの椅子に腰を下ろした。
「どうだ、調子は?」
 言いながら、水銀の体温計を酒精綿で消毒し、さらに先端をガーゼで拭ってから渡してくる。プロイセンは腕を伸ばそうとして、シャツの袖が妙に余っていることに気づいた。そうだ、着替えを持って来なかったからこいつに服を借りたんだ、と思い出し、
「お、おう、大分楽だぜ? 頭もすっきりしてる。あー、熱がないってのがこんなにすばらしいことだったとは。ははははははは」
 彼は妙にぎくしゃくとしながら早口で答えてから、体温計をくわえた。
「おまえのそのやかましい笑いも、久しぶりに聞くとなんというか、感無量だな」
「なに大げさ抜かしてんだ」
「しゃべるな。正確に測れない」
 忠告してから、ドイツは持って来た水差しでコップに水を注いでやった。まだ嗄声が残っている。
 そろそろいいか、とドイツは突然、明後日のほうを向いているプロイセンの顎を軽く押さえ、口から体温計を抜いた。
「むっ!?」
 体を跳ねさせるプロイセンにはお構いなしに、くわえさせていた体温計を抜くと、目盛りを読む。と、ドイツは眉をひそめた。
「三十八度……五分か六分というところか」
 ここしばらくの半死半生ぶりに比べて格段に元気そうなプロイセンだが、発熱は完全に治まってはいないようだった。それでも長らく高熱の領域だった体温がずっと下がったために、相当楽になったと感じられるのだろう。彼はもう感覚が狂っているのか、数字を聞いてもなお平然と、それどころか嬉々としてはしゃいだ。
「三十八!? よっしゃ、すっげ下がったじゃん! ははははは、もう平熱も同然だな!」
「興奮するとまた上がるぞ。それから、まだ平熱には遠い」
 ドイツは、放っておいたらベッドから飛び出しそうなプロイセンを咎めた。萎えた足ではすぐに転倒しかねない。だが、本人は不満そうに口を尖らせた。
「えー、こんなもんだろー。うん、俺元から平熱高かったんだ、きっと」
「無茶するな」
 ドイツの呆れた声が聞こえたと思うと、プロイセンは視界が急に陰るのを感じた。そして、いましがたまで見ていたものの輪郭がぼやける。
「おい?」
 相手が急接近してきたためだ、と認識したのと、額に触覚とかすかな冷覚を感じたのはほぼ同時だった。
 それが何を意味するのか、理解するのに数秒を要した。そして数秒後には、言葉を失っていた。
「な、な、な……」
「やっぱりな」
 間近で響くドイツの声。息遣いまでわかる距離で話される。
 プロイセンの額に、ドイツのそれが当てられている。ちょうど、小さな子供の体温を親が確かめるときにするように。
 プロイセンが酸素を求める金魚のように口をぱくぱくさせていると、ドイツが平静に、ちょっと説教じみた調子で言った。
「俺よりおまえのデコのが熱いだろうが。つまり、それだけおまえの体温が高いということだ。む……? いま急激に上がったような? やはり油断はできな――」
「お、お、おまえのせいだろうが、この大馬鹿野郎!」
 戦慄く唇のままそう叫ぶと、プロイセンはせっかく起き上がれたというのに、布団を頭からかぶってもう一度ベッドの住人に戻ってしまった。
「おい、大丈夫か? またぶり返したか?」
 丸まって動かなくなったプロイセンに、ドイツは少し焦って声を掛けた。が、プロイセンはしばらく布団に潜ったまま顔を出そうとしなかった。否、出せなかった。


寝ている間の出来事

top