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寝ている間の出来事


 ようやく平熱に落ち着いたプロイセンは、久方ぶりに一階まで降りてダイニングの椅子に座った。運動不足のあまり足元が覚束なくて階段でこけそうになったり、段を降りきった瞬間、膝の力ががくんと抜けてその場にへたりこんではドイツに手を貸されたりと、格好のつかない道中を経てのことではあったが。
 ダイニングのテーブルで、彼はドイツが用意したあまり実のないスープを、味気がないだの固形物が食べたいだのじゃがいもがいいだのと文句をこぼしながらも、けっこうなペースで口に運んでいる。対面に座るドイツは、汗でよれよれになったサイズの合わないTシャツを着ている彼を眺め、ためらいがちに口を開いた。
「少々言いづらいんだが……」
 と、彼はそこで言葉を切った。プロイセンは手を止めるとスプーンを持ったまま顔を上げた。
「なんだよ。気になるじゃねえか、そこまで言いかけたんならいっそ言っちまえ」
 プロイセンが促すと、ドイツは妙にかしこまった表情をつくり、真正面を向いた。そして一言。
「おまえ、ものすごく汗臭いぞ」
 指摘されたプロイセンは、二、三度まばたきをしたあと、スプーンを皿の脇に置いた。そして、首もとが大きく空いたTシャツ(ドイツからの借り物だ)の襟を両手で掴んで引っ張り上げると、その内側に顔を突っ込むようにしてすんすんと臭いをかいだ。直後、彼は襟をぱっと放し、ちょっと青ざめた顔をドイツに向けた。
「……うわ、ほんとだ、俺ものすっご汗臭っ! 鼻が慣れすぎて自分じゃ気づかなかったが、改めて嗅ぐと強烈だ……。自分だからまだ耐えられるが、これは相当きついぜ……」
「寝汗が多かったせいだろう」
 自分でびっくりしているプロイセンに、ドイツは苦笑した。
「調子が悪くないなら風呂に入ったらどうだ。ずっと入ってないだろう」
「そういや結局何日寝込んでたんだ? なんかもう日付の感覚も時間の感覚もなくてよー、ときどき熱下がって若干楽になったときもあったけど、ほとんど伸びてたからな。昼も夜もわからなかったし」
 一度自覚すると気になるらしく、プロイセンは肩を交互に持ち上げてしきりに自分の体の臭いを嗅いでいた。嗅ぐたびに眉をしかめている。
「うちへ来てかれこれ六週間、ほぼ毎日毎晩熱に浮かされていたからな、まあ仕方ないことだろう」
「は!? え、なに、ろく、六週……!?」
「ああ、六週間だ」
 のんびりうなずくドイツ。プロイセンはここを訪ねてきた日の日付を思い出しながら、じゃあ今日は何月何日なんだ!? とちょっとしたタイムスリップを味わった気分になった。
「ちょ、え……い、いつの間にそんなに経ってたんだ? 俺、そんなに寝てたのか……」
 長期間寝込んでいたという自覚はあったものの、せいぜい二週間くらいだと考えていた。それが三倍の期間であったとは、なかなかの長患いであったようだ。階下へ降りるとき、ドイツが足元に気をつけろとうるさく注意してきた理由がいまになった理解できた。六週間も寝込んでいた人間が急に運動したら、体が追いつかないに決まっている。どうりで足が萎えていたわけだ。
「高熱続きで、いい加減熱で頭がやられてしまうのではないかと危惧していたんだぞ。まあ、大丈夫なようだが……多分」
 真面目腐った顔つきでドイツはそんなことを言う。もしかしたら彼なりの冗談だったのかもしれないが、この堅物にユーモアがあるとも思えなかった。プロイセンはスプーンを手に取ると、その先をピッと相手に向けた。
「多分ってなんだよ、多分って。大丈夫に決まってるだろ」
「そのように願っている」
「願わなくていい!」
 そう声を荒げたプロイセンは、元通りのやかましさだった。
 スープの皿を空にしたプロイセンは、行儀悪くテーブルに頬杖をついて、いまだ自分が伏せっていた期間の長さが信じられないというようにぶつくさと呟いていた。
「……にしても、一か月半も寝っぱなしなんてなあ……あ、てことは、その間まったく風呂なしだったんだよな。戦場に立ってるとき並じゃん? そりゃ臭いもひどくなるわな」
 六週間分の垢とか考えたくねえ、とひとりごちていると、ドイツが肩をすくめた。
「清拭はしていたからそこまで悲惨ではないと思うが。血や硝煙にまみれていたわけでもないしな」
「そりゃそうだ。……ん?」
 うなずきかけたプロイセンだったが、相手の発言に引っかかる点を覚え、眉根を寄せた。その様子にドイツが疑問符を浮かべる。
「どうした?」
「清拭って……体拭くってことだよな」
「ああ」
「誰がやってたんだ?」
「俺だが」
 あっさりと答えられる。プロイセンは一瞬固まったのち、
「え……おまえが拭いてたのか、俺の体?」
「ああ。ほかにいないだろう」
「俺、あっさり任せてたのか?」
 ドイツに確認する。なにしろ、自分では覚えていないのだ。それはもう、きれいさっぱりと。
「起き上がるのも辛そうだったし、意識も朦朧としていたせいか、声を掛けても『あーもー好きにしろ』と言ってはすぐに眠ってしまってたがな。なのでまあ、勝手にやった」
「え、え、えぇぇぇぇぇぇえええ……」
 プロイセンは途切れがちに奇声を発した。いくら熱で体がつらかったとはいえ、投げやりすぎないか、自分。
 こめかみを手の平で押さえつけて苦悶するプロイセンを、ドイツは不思議そうに眺めた。
「何をうろたえているんだ? 別に恥ずかしいようなことじゃないだろう。着替えだって俺がさせてたんだ。第一、ひとりじゃ満足にトイレだって行けないような、けっこうなレベルの重病人だったんだぞ、おまえは」
「うっそ、トイレも付き添いだったのかよ!?」
「たまにな」
「うわぁ……俺、かっこ悪ぃ……」
 ほんとに何やってたんだ発熱中の自分!? とプロイセンは文字通り頭を抱えてテーブルに突っ伏した。しかし、ドイツは気にした様子もなくあっさりと言ってくる。
「だから、病人だったんだ、仕方がないだろう」
「それにしてもよぉ……うあああぁぁぁぁぁ……」
「で、結局風呂はどうする? さすがにベッドサイドで髪は洗えなかったから、かなりベタベタしていると思うが。多分最初は泡立たないだろうな、これは」
 ドイツが、脂で固まった頭髪の一房を摘んできた。プロイセンは彼の手をぺっとはたき落とし、
「……入る。なんつーかもう、いろいろと洗い流して来てぇよ、汚れと一緒に」
 のろのろと立ち上がると、ふらつく足取りでバスルームへと爪先を向けた。
 案の定、足元に気をつけろとドイツが注意を喚起した。


バスルームの闘い

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