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ちびっこ(=子供化)話なので、苦手な方はご注意ください。





こういうときに頼るのは



 オーストリアはその日、ダイニングのテーブルにノートパソコンを広げ、農産物の個人輸入のホームページを熱心に読んでいた。次なる菓子づくりに使用する材料を品定めするためだ。現在開いているページには、ひたすらカカオの写真と説明が並んでいる。彼は週末にチョコレート菓子の製作を予定していた。当然、チョコレート菓子をつくるにはチョコレートが必要で、そのチョコレートを生成するためには原材料としてまずはカカオが必要である。そんなわけで、彼はカカオの実に見入っていた。
 没頭するあまり時間の経過を忘れていたが、ふと聞きなれない音が鼓膜を揺らすのに気づき、顔を上げた。タン、タン、と乾いた音を立てているのは窓だった。風がガラスを叩いているわけでも、雨がぶつかっているわけでもない。何かこう、固体が軽く接触するような。オーストリアは立ち上がると、警戒しながら窓辺に寄った。外部には変わった様子はない。が、音は断続的に聞こえるし、ガラスも揺れている。音源は下のほうにあるようで、窓の下部から振動が全体に広がっていくのが見てとれた。
 窓枠の真下――部屋の中からは死角になるその位置に、原因があるようだった。彼は壁に背をぴたりとつけたまま、首をひねってそっと下をのぞいた。すると。
「オーストリア、いるなら開けてくれ、緊急事態だ」
 意外にも、聞こえてきたのは子供の声だった。男の子だろう。少し身を乗り出せば、金髪頭のてっぺんが視界に映った。
「どなたですか?」
「オーストリア、いたのか……。ドアベル百回くらい鳴らしても出てこないから留守かと思ったが……回ってみてよかった」
 小さな訪問者はほっとした様子で呟いたあと、自身の背丈よりも高い位置にある窓を見上げた。手が届かないために、木の棒で窓枠を叩いていたらしい。音源はそれだったのだ。オーストリアは侵入者に対する警戒は少し緩めたものの、自分を訪ねてきたらしい子供を訝しく思いながら窓を開けた。こんな小さな知り合いはいないはずだが……。
 首を傾げつつ見下ろした先にあった顔に、オーストリアははたと止まった。そして、何度かまばたきしてこれが見間違い出ないことを確認してから、
「もしかして、ドイツですか?」
 と尋ねた。口調は半信半疑であったが、内心には直感的な確信が湧き上がっていた。だって、この姿は。
 驚いたのは相手も同じだったようで、窓の外の子供は目を見開きながら感心した声を上げた。
「よく一目でわかったな」
「そりゃまあ……しかし、どうしたんです、その姿は?」
 その姿――というのは、幼稚園の年長組くらいの年頃と思しき金髪の男の子だ。短い髪は硬質な印象で、ちょっとやぶにらみ気味の眼の中にある瞳は青い。頬のラインは子供らしく柔らかいが、鼻筋や額の局面、口の形、パーツの配置などはそのまま――つまり、ドイツと同じだった。
 子供の姿をしたドイツは、窓の桟をなんとか握ろうと爪先立ちになって手を伸ばしながら答えた。
「わからない。朝起きたらこうなっていた」
「朝起きたらって、またいい加減な……」
 オーストリアはドイツの意図を察して前屈姿勢になると、伸ばしてくる腕を掴んで引き上げてやった。ドイツはタイミングよく弾みをつけて地面、それから壁を蹴ると、窓枠の中に飛び込むことに成功した。足場が悪いためバランスを崩し、前方によろめいたところをオーストリアがキャッチする。
「窓から侵入なんてお行儀が悪いですよ。どこかの誰かさんじゃないんですから」
 抱きとめた子供をダイニングの床に降ろしながら、オーストリアが嘆く。
「おまえがなかなか玄関に出てこないからだ。それに、家主のおまえが手を貸したのだから侵入とは言わないだろう」
 ドイツは冷静に指摘したが、彼がこのような強硬な入り方をしたということは、かなり焦っている証拠だろう。ほかのものに見つかりたくないということに加え、一刻も早く相談して解決策を見出したいと考えたのかもしれない。
 オーストリアは、改めて小さいドイツを見下ろした。いまの彼の顔は、オーストリアの腰辺りだ。
「それにしても……その小ささもさることながら、その服装は何事ですか。二世紀前ならともかく、現代だとコスプレ以外の何ものでもありませんよ」
 オーストリアは眉をひそめた。というのも、ドイツが着ているのは、前時代と表現するのもばかられる、それはもう旧時代の遺物と言っていいような服だったからだ。現代の言葉で言うなら、いわゆる民族衣装である。似合うか似合わないかで言えば似合っているが、時代に合うか合わないかでいえば、確実に不適応である。
 ドイツも自分の服装の場違い(というか時代違い)ぶりは自覚しているようで、ため息をつきながら軽く腕を広げた。
「仕方ないだろう、ほかに着られる服がなかったんだ。なにしろこのサイズだからな。寝るときに着ていたシャツは、一緒に縮んでくれなかった」
 と、彼は今朝起きたときの様子を語りはじめた――





 目覚めにそのものに違和感はなかった。時計のタイマーが朝の静寂を破るきっかり一分前に目を開いたドイツは、むくりと上半身を起こした。最初の引っかかりは微々たるものだった。視界の下方に映るシーツが、いつもより近い気がした。
「……?」
 ドイツはまだ眠気の残る頭に疑問符を浮かべつつ、首をうつむけた。と、シーツの上に小さな手が乗っているのが見えた。静脈が浮き出ていない手の甲に、節くれのない短い指。女性のものよりもさらに小ぢんまりとしている。そう、これは子供の手だ。しかし、なんでこんなところに子供の手が? 彼は疑問に思いながら頭を掻いた――と、そこで気づく。自分の頭を掻いたのは、いましがた見たばかりの子供の手だ。彼はこの子供の手を随意的に動かすことができるらしい。……ということは。
「え……?」
 ドイツは顔の高さにある小さな手を見やった。その先には手首があり、前腕があり、上腕があって――肩に続いている。自分の肩に。
 そこまで確認してはじめて、ドイツは嫌な予感を覚えた。彼はもう片方の手を持ち上げ、目の前に差し出した。やはり小さい。両手を掲げ、手の平と手の甲を交互にひらひらと向けたり、指をくいくいと動かしたり、手掌を握り締めたり開いたりする。完全に自分の思い通りに動かせる。
 彼は弾かれたようにベッドから降りようとした。が、いつもの調子で脚をベッドサイドに出すと、膝から先がぶらぶらと揺れた。足の裏が床に届いていない。驚いて見下ろすと、そこにはさっき見たばかりの、そしていまも見ている子供の手に見合った大きさの、小さな足があった。
「……!!」
 彼は言葉を失い、数秒間、ベッドの端に腰掛けたまま固まった。が、いくらか保たれている理性が、とにかく異変を確かめるべきだと告げたので、彼は何かに誘導されるようにベッドから飛び降り(そう、飛び降りたのだ)、洋服箪笥と一体になった姿見へ走った。彼は動きにくさを覚えながらも、懸命に足を進めた。数歩の距離のはずが、このときは十数歩必要だった。バランスを崩しそうになりながら、トタトタと姿見の前まで着た彼は――
「え……? え……?」
 サァーッと血の気が引く音を聞いた。
 鏡の中には、青ざめた顔をした五歳くらいの幼児が立っていた――自分と同じ目線の高さに。しかも、服装といったらタンクトップがかろうじて腕に引っかかっているだけの有様で、足は丸出しだった。彼はここに来てようやく、下着も脱げていることに気がついた。はっとベッドを振り返れば、着ていたはずの服が大方、ベッドの上で皺くちゃになっていた。
「な、なんだこれは……」
 わなわなと震え、混乱しながら、彼はもう一度鏡を見た。悪い夢なら覚めてほしかったが、鏡像は彼の願いを聞き入れてはくれなかった。
「嘘だろ……なんでこんな……う、嘘だと言ってくれ……!」
 誰にともなく、彼は叫んだ。その声は、他人のものかと感じるほど高かった。





 ドイツは、自分がいかに困惑し驚愕し、そして途方にくれたかを話した。オーストリアは、そんな状況下でよくぞ服装にまで気が回ったものだと感心しつつ、優先順位がおかしいような気がしないでもなかった。
「それにしても、そんな大昔の服、よくとってありましたね」
「着られるものはないかと家捜ししたら物置から出てきてな、裸よりマシだと思い着用した」
「……裸で家捜ししてたんですか?」
 呆れながらもオーストリアはドイツを椅子に座らせてやった(子供の体では座りにくい高さだった)。ドイツは少し袖の余る上衣を見ながら呟いた。
「こんなもの、後生大事に保管しておいた覚えはないのだがな……」
「まあ、その件についてはだいたい察しがつきますが」
「どういうことだ?」
「いえ、気にするほどのことじゃありませんよ。それより、ここまでどうやって来たんですか? 幼児がひとりで公共交通機関を使ったら、補導というか、保護されるでしょう?」
 オーストリアが、気になる点を尋ねると、ドイツは腕組みをし、難しい顔をしながら答えた。
「混んでいる時間を狙ってうまく紛れ込んできたんだ。しかし、やむを得ないとはいえ無賃乗車してしまった……料金はあとでこっそり支払っておこうと思っているんだが、この場合、子供料金でいいのだろうか? それとも大人料金か? 乗ったときの体重で考えるべきか、それとも精神年齢のほうで考えるべきか……」
 生真面目にそんなことを悩み出したドイツに、オーストリアは嘆息しながら助言してやった。いまはそんなことを悩んでいる場合じゃないでしょうにと思いつつ。
「……子供料金でいいんじゃないですか。まったく、電話すれば私のほうが行きましたのに」
「この声で電話したって俺だと信じないだろうが」
「確かに、にわかには信じないかもしれませんが……多分あなただとわかったと思いますよ」
「なぜだ。この高さ、完全に子供の声だぞ。自分でも相当違和感があるというのに」
「付き合いの長さというものですよ」
 と、オーストリアは知らないうちに自分の手がドイツの頭のほうへ伸びているのに気づいてはっとした。いまの彼の姿に、思わず小さい子供への対応をしそうになったようだ。ドイツは不思議そうに見上げている。オーストリアはごまかすようにこほんと咳払いをすると、話を元に戻した。
「……しかし、なぜそのような姿に? 心当たりは?」
「特に思い当たる節はない」
「悪いものでも食べましたか?」
「悪いもの……特にないな。変わったものなら食べたかもしれないが。昨日プロイセンがうちで料理していったのでな」
「食べたんですか!? そんな得体の知れないものを!?」
 突然声を荒げたオーストリアに、ドイツはちょっと驚いた。
「ああ、まあ……確かに得体は知れなかったな。まずくはなかったが、見た目も味も未知のものだった。なにしろ、つくった本人も自分がつくったものが何なのかよくわかっていない始末だったからな。しかし、やつも食べていたぞ。同じ鍋のものを」
「彼も?……ということは、まさか、いまごろ……」
「考えたくないが、可能性はあるな」
 ふたりはちょっぴり沈鬱な面差しになって、互いに目線を逸らしつつうつむいた。
 嫌な予想で重くなった空気の中、ドイツがそろそろと目線を上げ、上目遣いでオーストリアを見た。
「あー……あと、オーストリア、非常に頼みにくいんだが」
「どうしたんです?」
 オーストリアは低い位置にいるドイツに合わせて膝を軽く曲げ、背を丸めた。ドイツは普段の彼ならまずやらないような、もじもじとした意気地のない様子で言いにくそうに口を開いた。
「その……」
「?」
「し、下着を……」
「下着?」
「あ、ああ……。それをだな、用意してくれないか、この体に合いそうなものを」
「ドイツ、あなた下……」
 オーストリアが言いかけたところで、ドイツが先回りして弁明した。
「し、仕方がなかったんだ! さすがに下着までは見つからなかったんだ!」
 ズボンを見下ろしてくるオーストリアの視線が痛くて、ドイツはいたたまれない気持ちになった。
「途中でお店に寄ろうと思わなかったんですか?」
「あ……」
「まあ、幼児がひとりで店に立ち寄り下着を購買するというのも怪しまれそうなので、行かなくて正解だったかもしれませんが」
 オーストリアは、気まずそうに赤面しているドイツをフォローすると、はあ……と大きく一度ため息をついた。


拡大するカオス

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