モーニング・パニック
基底膜を小さく揺らす物音がパルスとなって意識をくすぐり、ドイツはなんとはなしにゆっくりとまぶたを持ち上げた。不思議と警戒心は湧かなかった。もっとも、このときはそれを不思議と感じることさえなかったが。
開けた視界の先は、暗闇だった。まだ夜のようだ。しかし、真っ暗というわけではない。ぼんやりとにごった闇の中で、何かが動いているのが感知された。
「うん……?」
夢現のまま、寝起きの渇いた喉がかすれ声を出す。すると、横で動いていた物体が一瞬ぴたりと止まった。そして、小さなささやきが夜闇をわずかに震わせた。
「あ、ごめん、起こしちゃった?」
「イタリア……? おまえまた俺の家に勝手に上がりこんで……」
声で相手を同定すると、ドイツはこしこしと目をこすりながらぼやいた。イタリアの夜間侵入は特定の親戚ひとりと並んで珍しいことではないので、いまさらくどくどと説教する気にもなれないが。
別にいいか、と寝返りを打って再び目を閉じかけたドイツに、イタリアがくすりと笑う。
「寝ぼけちゃってドイツかわいー。ここ、オーストリアさんのおうちじゃん、忘れちゃった?」
ドイツはそのまま再度眠りにつこうとしたが、イタリアの言葉にふと引っかかりを覚えてもう一度目を開いた。
「オーストリアの?」
「疲れたみたいで、ソファで寝ちゃったんだよ。起きるの待ってたら暗くなっちゃったから、今日は泊まってっていいって、オーストリアさんが」
イタリアの説明を聞いたドイツは、しばらく黙って暗闇の先にあるであろう天井を見つめた。段々事態が思い出されてきた。そうだ、朝起きたら体が縮んでいて、オーストリアに相談に行って、そのあとなぜか人数が増えて……。
ドイツは額に手の甲を当て、ふうっと息を吐いた。
「そうか……あいつには迷惑を掛けたな。礼を言わねば」
と、起き上がろうとするドイツを、イタリアが制した。
「そんな眠そうな顔でふらふら歩いたら、オーストリアさん渋い顔するよ。まだ小さいんだし。今日はこのまま寝ちゃえ。俺も一緒に寝るからさ」
「ん……そうか」
イタリアが布団を引き上げて寝かしつけようとすると、ドイツはおとなしくベッドに背をつけた。どうやら相当眠いらしい。イタリアはめったに見られそうにないドイツの様子に感嘆する。
「うわあ、ドイツが素直だ。不気味! でもかわいい!」
「こら、突付くな、くすぐったい……」
「ほっぺぷにぷに〜」
「だから、やめろと、言っている……」
むにゃむにゃと抗議するドイツだったが、まもなく睡魔の誘惑のままに身を任せた。
イタリアは自分の片腕を枕にして横向きに寝転がると、
「なんか、すっごく懐かしい感じがする……ドイツ……」
やはり眠たげな不明瞭な発音でそう呟いて、すぐに眠りの世界へ入っていった。
*****
次に目を覚ましたときには、すでに日が昇っていた。厚手のカーテン越しでも、外に陽光が溢れているのが見て取れた。
ドイツは上半身を起こすと、まだ少し眠気の残る目をこすりながら自分の体を見下ろした。そこには、よく知る裸の上半身があった。
前日の出来事を思い出しながら、よかった、日本の言ったとおり元に戻れて、と安堵の息をつきながらベッドから降りようとブランケットを下げたとき。
「……なんで全裸なんだ?」
なぜか何も身に着けていない自分を発見し、彼ははたりと止まった。と同時に、横で見慣れた光景が広がっていることにも気づく。同じ毛布の下で、同じく素っ裸のイタリアが転がっている。イタリアがベッドで裸なのは大気中に窒素があるのと同じくらい自然なことなので、驚くには値しないが。
しかし、なぜ自分まで裸なんだ――目覚めてそうそうドイツが頭を悩ませていると、
「あ、おはよードイツ。……元に戻ってる! よかったよかった」
ふあぁ、とあくびをしてむくりと起き上がったイタリアだったが、ドイツの姿をしっかりと見とめると、寝起きにしてはすばやい動作でがばりと相手に抱きついた。ドイツはそんな彼をとりあえず受け止めつつ、人差し指で自分のこめかみを押さえた。
「状況がいまいち掴めないんだが……」
「昨日ドイツ、疲れて寝ちゃったじゃん、リビングで。覚えてる?」
「ああ……なんかゆうべそんな話を聞いたような気がするような、しないような」
正直なところ、自分が眠ってしまったときの状況は覚えていないが(当たり前と言えば当たり前のことなのだが)、言われてみれば、同じような説明を受けた記憶がぼんやりとだが残っているような気がした。
「あまりにもぐっすりだったから、俺とオーストリアさんで客室に運んだんだよ。俺がドイツ抱っこして歩ける日が来るなんて思わなかった」
「……ということは、あいつはオーストリアに運ばれたのか」
ドイツは、イギリス製の怪奇現象に見舞われたのがもうひとりいたことに思い当たった。ちゃんと面倒を見てくれたオーストリアは大人だと感心しつつ、プロイセンがそれを知ったらさぞうるさいことになるに違いないとあまりにも容易に想像される。
「どしたの?」
「いや……いまの話はやつには内緒にしておいてくれ。あとでいろいろうるさそうだ。宥めるのはどうせ俺の仕事になるからな、面倒は少ないほうがいい」
仕切りなおすように嘆息すると、ドイツは最初の質問に戻った。
「で、どういった理由で裸なんだ? 寝ている間に元に戻ったということは、もしかしなくても服が破れて、それで裸なのか?」
「ううん、それは大丈夫だよ。そうならないように俺があらかじめ脱がしておいたから!」
言いながら、イタリアはベッドヘッドに掛かる布を指差した。確かに、昨日ドイツが着用していた旧時代極まりないというか、いっそ史学的価値のありそうなデザインの衣服があった。
「この服、年代ものでしょ? 大事にとってあったやつみたいだし、破れたらもったいないかなって」
「そうか」
一応気を回してくれたらしい。結果として小さい服に締め付けられずにすんだので、不本意ながら脱がしてくれてありがとう、な状況である。
「それに、寝るときは何も身に着けないのがいちばんだし!」
「……結局帰結するのはそこか」
「よく寝れたでしょ?」
「まあ、今朝のこの状態からすればいい判断だったと言えるが……」
しかし、いったいどの時点で脱がされていたんだ、とドイツがよみがえらない記憶を辿ろうとしていると。
「ちっさいドイツもかわいかったけど、ドイツはやっぱりムキムキのほうがいいな。こっちのがドイツって感じがする。えいっ」
「おわっ!? おい、いきなり脇腹を突付くな!」
イタリアが五指を揃えてドイツの鍛えられた腹筋を突く。
「この硬さこそドイツだ〜」
「何をわけのわからんことを……」
なんだか嬉しそうなイタリアに、ドイツはわけがわからないとばかりに首を振った。
しばらく、イタリアに懐かれるがままになっていたが、やがて――
「おまえらなにひとの目の前でうらやましいことやってんだぁぁぁ!!」
突如として上がった高い声に、ふたりの緩いやり取りは遮られた。
声の主はイタリアの陰になっていたようで、いまのいままで、この部屋に三人目がいることに気づかなかった。
ああ、うるさいのが増えた、とドイツは苦い顔でイタリアの背後を見やった。と――
「え」
彼は固まった。しかし、相手は止まらない。
プロイセンは、わなわなと震えるながら人差し指を全裸で抱き合っている(まさしく語弊のない表現である)ふたりへと向けた。
「っつーか、おまえら何やってたんだよその格好で!?」
朝っぱらからハイテンション、いや、高血圧なプロイセンとは対照的に、ドイツはちょっと呆けた表情で目をぱちくりさせた。
「こいつも一緒に寝てたのか……気がつかなかった」
「ベッドの数は足りたんだけど、ふたりともお互いに服の裾掴み合っちゃって離さなかったんだよ。だから一緒に寝かせたの。起こしちゃいそうだったし、小さい子引き離すのかわいそうだったし。運ぶの大変だったんだぞー」
「ふむ……」
そんな覚えはないのだが、とドイツは首を傾げ、自分の手を見下ろしながら開閉させた。
「い、い、一緒に寝たって、ややや、やっぱそういうことなのか! 俺の隣で何やってたんだよ! なんで俺も混ぜないんだ!? ずるいぞおまえらだけぇ!」
何気に問題発言をかますプロイセンだったが、ドイツは手の平を彼に向けて制止する。
「落ち着け。叫ぶべき点はほかにあるぞ」
そして、そのままプロイセンの腕を取って自分のほうへ引き寄せた。あまりに簡単に引きずられたことにプロイセンは驚いて、何が起きたのかわからないというようにまばたきをする。
「へ?」
ドイツは彼の脇に両手を差し込み、そのまま自分の顔のあたりまで持ち上げる。
「状況がわかったか?」
着ているシャツの襟がずるりと落ちて、プロイセンの肩が露になった。
ドイツを見下ろすかっこうになったプロイセンは、ようやく自身の現状に考えが至ったらしく、自分の体を見下ろして口をぱくぱくさせた。
「な、なな、なんでおまえだけ元に戻ってるんだよ! ってか、おまえは元に戻ったのに、どうして俺はこんなちんちくりんのままなんだよ!?」
昨日の姿からほとんど変化していない、つまりいまだ小学生の姿をしたプロイセンが、ひどく焦った調子で騒ぎ立てる。ドイツは、暴れるな、と忠告してからすとんと彼を自分の膝元に下ろした。
「多分、もともとの代謝能力の差ではないか? 日本が言っていただろう、原因の成分が代謝されれば元に戻ると。おまえのが年食ってる分、新陳代謝が悪いのだろう。この分だとイギリスや日本もしばらく効果が続きそうだが……まあ、日本のほうはほとんど見た目変わってないから問題ないか」
「ひとを年寄りみたいに言うなっ」
「いまはずいぶん若いと思うが」
ドイツは手を伸ばしてプロイセンの頭を撫でた。大人が小さな子供にするような手つきで。
「やめろ。子供じゃないんだ」
身じろぐプロイセンに、ドイツははたと手を止めた。
「ああ、すまん。俺も昨日は同じことを思っていたはずなんだが……いざ目の前にこういうのがいると、つい。昨日のイタリアの気持ちがちょっとわかった気がする」
「でしょ〜」
「だから、撫でるなって」
自分の意思ならざるところで体が動くらしく、ドイツは相手の不興を買ってもなお頭を触ってくる。
「あー、もうっ、だったら俺もおまえを撫でてやる! それでおあいこだ!」
プロイセンは立ち上がると、ドイツの膝に乗って頭に掴みかかり、わしゃわしゃと金髪を掻き混ぜた。
と、そのとき。
がちゃり、と客室の扉が開かれた。顔を覗かせたのは、すでに身なりを整えたオーストリアだった。髪はまだセットしていないらしく、前髪が下りているが。
彼は扉の前で数秒凍結したあと、
「あ、あ、あなたたち、何をしているんですかっ!? お下品な!」
顔を紅潮させてぶるぶると震え出した。
「落ち着けオーストリア、その反応はさっきのこいつとまったく同じだぞ!? 同類でいいのか!?」
プロイセンに絡まれたまま、裸のドイツが弁明しようとするが、相手は聞く耳を持ちそうにない。
「わ、私はこんなお下品な事態を招くためにあなたたちを泊めたのではありませんよ!? 破廉恥ですふしだらです! 恥を知りなさい恥を!」
本人なりに精一杯の罵声を浴びせると、オーストリアは扉の前から走り去ろうとした。
「オーストリア!? ちょっと待て、出て行く前に服を貸してくれ!」
目下最大の問題を解決させられるのはおまえしかいないんだ、とドイツは必死で彼を引き止めた。
プロイセンはもうこの状態に適応したのか、ドイツの首に腕を回してぶら下がっていた。
→帰路
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