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現代と言えば現代ですが、ちょっと昔、つめたい戦争をやっていた頃の話です。





道のりは遠く、冷たく、そして寒く 1



 窓の外では静かに雪が舞っていた。部屋には暖房器具が暖めた空気を送る機械の駆動音と、紙のこすれる乾いた音が時折短く響くだけ。ドイツはひとり、ダイニングの椅子に座って雑誌に目を落としていた。テーブルの隅にはジャーナルが何冊か、ずれひとつなく積み重ねられている。
 ページを繰ると、別のトピックに切り替わった。そこから数ページに渡る記事は、インドシナ半島の分断国家が依然血を流し続けていることを伝えていた。報道者たちが戦地で撮影した写真を背景に並ぶ、細かいアルファベットの列を黙々と目で追っていると、来客を告げるベルの音がふいに彼の耳に届いた。彼は読み止しの雑誌に栞代わりにペンを挟んでから雑誌の山のいちばん上に置くと、立ち上がって玄関へ向かった。
「誰だ?」
 鍵を開ける前、扉の前で一応尋ねてみると。
「俺だ。開けてくれ」
 思わぬ声が返ってきて、ドイツは心臓を跳ねさせた。この声は、まさか。
 硬直する彼とは対照的に、厚めの板一枚を挟んで向こう側にいる来訪者は、どんどんとドアを叩いて開錠を催促した。
「ちょっと、外まじで寒ぃよ、早く開けてくれ。凍えさせるつもりかー? 雪降ってるんだぞ雪」
 文句をたらたらと述べるこの声を忘れることも聞き違えることもあるとは思えなかったが、それでも相手を同定するのに迷いが生じたのは、この情勢下でその人物が現れる可能性がいかに低いかを知っているからだった。ましてこんな、近所に住む友人宅へ転がり込むときのような、フランクすぎる訪問の仕方など。しかし。
「なあ、聞こえてる? さっさと開けろって。寒いんだよ」
 外から届く声は、ドイツのさまざまな否定的仮説を破るかのような響きをもっていた。一瞬胸に去来する、懐かしさにも似た何か。彼は警戒するよりも先に、その声に引かれるように鍵を解く。ドアを開いた先にあったのは。
「よっ、久しぶりぃ」
 短い金髪頭と両肩の上に薄く雪を積もらせたプロイセンの姿だった。彼は呆気にとられているドイツの前で、手袋に包まれた右手を軽く上げた。コートや前髪には雪の粉が付着しており、衣類は幾分しめっている。頬や耳はかなり赤い。雪降る道をある程度の時間、歩いてきたようだった。玄関へと続く道には、まだ新しい足跡が残っている。
 ドアの敷居を挟んで近距離で対峙し、来訪者の姿を目の当たりにしてなお――いや、直に目撃したからこそ、ドイツは彼がここにいることが信じられないというように、驚愕に目を見開いた。
「え、ちょ、おま、なんっ……!?」
「なんだよ、久々に顔見たってのに挨拶もないのか?」
 混乱しているドイツを目線だけでちょっと見上げ、プロイセンはおもむろに小さく両腕を開いた。それを見たドイツは、なかば反射的に自分も腕を開き、
「あ、ああ……久しぶりだ」
「おう」
 軽く抱き合って再会の挨拶をした。いまだ現実感がないままではあったけれど。……しかし幻と思うには、感じる相手の熱も重みもにおいも、あまりに生々しかった。
「何呆けてるんだよ、せっかく来てやったってのに」
 プロイセンはドイツの頬に手を添えたかと思うと、次の瞬間には情緒もへったくれもなく指で頬をむにっと摘んだ。予期せぬ痛みに驚いたドイツが珍しく見せた、ちょっと間の抜けた顔に満足したのか、プロイセンはいたずらの成功を喜ぶ子供のように笑いながら一歩後退した。体についた雪を手で払い、改めて敷居を跨ぐと、ドアを後ろ手に閉めながら不躾に中を見回した。
「おー、暮らしぶりよさそうじゃん、さっすがー。邪魔するぜ」
 邪魔する、と断っておきながら、彼はまるで自宅に帰ったかのように無遠慮に靴箱の上のブラシを取り、解けた雪で汚れたブーツの泥を落とすと、すたすたと廊下を歩いていった。暖かさを求めて勘が働いたのか、この家に訪れるのははじめてのはずにも関わらず、彼は一発でダイニングを探し当てて、勝手に中に入っていった。
「お、おい……」
 ドイツはまだ放心気味だったが、とりあえず来客の対応をしようと、彼を追って足早にダイニングに戻っていった。

*****

 防寒具を外したプロイセンが、室内の暖かさに喜びの声を上げていると、ドイツが椅子を一脚持ってダイニングに入ってきた。普段使っている椅子と対面する位置に置くと、そこへプロイセンを座らせて自分は台所へ向かい、コーヒーを淹れる準備をした。生憎ふたり分の湯がなさそうだったので、まずは沸かすところからはじめなければならない。
 プロイセンはテーブルの上に積まれた雑誌を無断で崩すと、興味深そうにぱらぱらとめくっていた。まだ手がかじかんでいるようで、どことなく動きがぎこちなかった。血の気のない指先とは対照的に、頬の赤みはまだ消えない。
「何を考えている」
 向かいに座ったドイツが尋ねると、プロイセンは火の気のあるキッチンを覗き込むようにちょっと背を伸ばしながら答えた。
「んー? いつになったら湯が沸くかと気になってる。外寒かったから、あったかいもん飲みたいんだよ。あー、イタリアが恋しいぜ。イタリアいいよな、イタリア。あのあったかい日差し、たまらねえよ。あー、懐かしい」
「そういうことじゃなくてでな……」
 何もいまこのとき思っていることを述べろとは言っていない。もっとも、おそらくはそれを理解した上でこのような回答を寄越しているのだろうが。彼がここにいるという事実は、テーブルの上にある雑誌を読むまでもなく、異常な状況だ。ただの身内訪問では片付けられない意味をはらむ。久しぶりにその姿を見られたことには安堵と懐かしさと歓喜を禁じえない。けれどもそれ以上に、この情勢下でのあり得べからざる再会に対する戸惑いのほうが大きい。素直に喜んでいい事態ではない。
 ドイツがぐるぐると際限のない思考の袋小路に陥っていると、ふいに手先の体温が奪われていくのを知覚した。プロイセンが、テーブルの上で組まれたドイツの手を勝手に外させると、自分の両手をかぶせてぎゅっと握り込んだ。
「あ、これあったかくていいな」
 暖がほしかったらしい。彼は手の平、手の甲、指とあますことなく、ぺたぺたとドイツの手を触っていった。
「おまえはずいぶん冷えているな」
「道中長かったからな。……寒かった」
 プロイセンは目を閉じると、静かな声でそう言った。熱の移動はまだ続いている。ドイツは無言のまま、しばらく彼の好きに自分の手を預けておいた。


道のりは遠く、冷たく、そして寒く 2

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