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道のりは遠く、冷たく、そして寒く 2


 コーヒーの香りを含んだ湯気が鼻腔を湿らせる。ドイツが片手でマグカップを傾けている正面で、プロイセンは円柱のカップを両手で握ったまま底面をテーブルから離そうとしない。まだ冷えの残る指先に少しでも熱を移そうというのだろうか。黒い水面に視線を落としたままじっとしている彼の、なんとなくらしくない様子に、ドイツのほうから会話を切り出した。
「……おまえ、現状がわからないほど馬鹿じゃなかったはずだが」
「もちろん。おまえの身内に馬鹿はいないだろ」
 プロイセンは肩をすくめた。
「なら、この行動は何のつもりだ。ひとりでこっちに来るなんて」
「ひとりじゃなかったら来れないだろうが。仕事だったらともかく」
 言いながら、彼は苦笑するように少しだけ眉を下げると、隅に片してあった雑誌を一冊手に取り、表紙が見えるような向きにしてとんとんとテーブルを軽く叩いた。情勢くらいわかってらぁ、と言外に告げている。しかし、そうだと言うならなおのこと、彼のしていることは不可解だ。
「軽はずみな行動は控えろ。緊張状態が続いていることはおまえだってわかっているはずだ。それをこんな、単身敵陣営に忍び込むような真似をして……」
 つい説教口調で言うと、プロイセンがすっと顔を上げて正面を見据えてきた。
「俺は敵なのか、おまえの?」
 おまえは敵なのか、俺の?
 プロイセンは顔から表情を消していた。しかしそれは、ポーカーフェイスというよりは、どんな顔をすべきなのかわからないために結果的にどんな表情もつくれなかった、といった印象だった。敵対者としての眼光を向けられたなら、いっそ互いに楽だったかもしれない。
 ドイツはソーサーにマグカップを戻すと、険しくなりそうな視線をごまかすように逸らしながら、
「……嫌な問いだ」
 と独り言めいた呟きをこぼした。難しい、ではなく、嫌な、と形容したのは、いささか感情的だったかもしれない。
 プロイセンは、幾分ぬるくなったコーヒーを一口ふくんだ。それを飲み下すと、
「あー……悪ぃ。俺も、聞くんじゃなかったって思ったとこ。ってわけで、いまの取り消し」
 がしがしと頭を掻いてから、片腕を大仰に振って質問の撤回を伝えた。ドイツは一度うなずくと、別の質問をした。これこそ、もっとも聞いておかなければならない点だ。
「で、どうしてここへ来た。というか、それ以前にどうやって来た? まさか壁を越えてきたわけではあるまい」
 ドイツが尋ねると、マグカップの取っ手を持つプロイセンの指がぴくりと動いた。まさか、とドイツが思っていると、プロイセンはおもむろににやりと不敵な笑いを浮かべた。そのつり上がった口角に、ドイツはいままででいちばん強烈な懐かしさを覚えた。そしてようやく、彼が目の前にいるのだという事実を実感した。
 思わず言葉を途切れさせたドイツに、プロイセンは内緒話でもするように少し身を乗り出した。つられてドイツが上体を傾けると、彼は声のトーンを落とした。しかし、どんな秘密を打ち明けるかと思えば――
「ニンジャって知ってるか? あいつら、壁を透過する特殊技術を開発してるんだぜ。すげえよな、さすが日本。神秘的だ」
 とことんふざけた内容を告げてきた。ああ、これははぐらかしだな、とドイツは思った。詳細は話せない、だから質問はやめろ、とプロイセンは言っているのだ。
 ドイツは怒る気にはなれなかったが(お互い、話せないことが山ほどあるのは承知の上だ)、呆れたような表情をつくって見せた。
「……。もういい。で、目的は?」
「別に謀略的意図はないから安心しろ。スパイ行為働きに来たわけじゃねえよ。今日はほんとにプライベートだ」
 その言葉をどこまで信じていいのかはわからない。身内の言だ、信じたい気持ちはある。しかし立場的には、疑ってかかるべきだ。ドイツが反応に迷っていると、プロイセンが話を続けた。
「おまえのしかめっ面が妙に懐かしくて、なんか見たくなった。それだけさ。相変わらず無愛想なのな」
「そんなことのために?」
 今度もはぐらかされているような気がしたが、嘘であるとも断定できなかった。否、したくなかったのかもしれない。
 探るようなドイツのまっすぐな視線を見つめ返し、プロイセンは目を細めた。
「逃げてきた、とでも言わせたいのか?」
「それはやめろ。言うべきでない」
 ドイツは即答した。プロイセンも、それは予測していたようで、ふっと息を吐いて、冗談だと言うように小さく笑った。
「安心しろ。思わねえよ、そんなこと。俺は国であって市民じゃねえんだから」
「では、本当に私用でここへ来たのか」
「ああ」
「軽率だ」
「そーだな。ばれたら怖ぇ。だからおまえも黙っとけよ。巻き添えでお咎めは嫌だろ」
「俺はこっち側だから平気だが、おまえのとこはその、厳しいだろうが。大丈夫なのか」
「んー、ばれなければ、まあ」
 間延びした返事をして、プロイセンはコーヒーをすすった。
「気をつけろよ。そっち側の事情に関しては、取り計らってやれんぞ」
「大丈夫だって、あれで意外と抜けてるとこあるんだ、俺らの側は……っと、漏洩はまずいな、いまのは忘れろ。おまえも、ロシアの耳にだけは入らないように気をつけてくれよ。あいつ怖ぇんだから。こないだもさぁ――あ、いや、やめとく」
「何かあったのか」
「あり放題だ」
 一瞬気色ばんだドイツを制するように、プロイセンはにやっと笑った。慌てる素振りを見せないあたりが、かえって意味深長に感じられたが、詮索しても答えは返ってこないだろうことは容易に推測が立った。代わりに、率直な感想を述べてやった。
「なんかおまえ、おとなしくなってないか?」
「そうか?」
 あのうっとうしい笑い声はどこへ行った? よっぽどそんな質問をぶつけてやろうかとも思ったが――
「正直気味が悪いぞ。おまえはもっとこう、やかましいキャラだろうが。それが今日は静か過ぎて、かなり不気味だ」
「なんだそれ。失礼なやつ。別に普通に元気だぜ? もっとアップアップなとこはいくらでもあるしな」
 プロイセンは、空になったカップをソーサーに置いた。
「……愚痴があったらここへ置いていったらどうだ。言論の自由は認められている」
「そういやそうだったな。忘れるとこだった」
 プロイセンは皮肉っぽくそう言うと、ぽりぽりと頬を掻いた。


道のりは遠く、冷たく、そして寒く 3

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