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いろんな意味で心配する


 オーストリアは腕時計とにらめっこをしつつ困っていた。というのは、会議室までの道順がさっぱりわからないからだ。プロイセンの後について使用頻度の低いレストルームまで来たはいいが、往路の道先案内人が一足先に出て行ってしまったので、帰り道で迷うことになった。かれこれ十五分も、いくつかのフロアを行ったり来たりしている。建物の中というのは、単純であるがゆえに各階に目印となるものが少なく、同じところを何週していてもそのことに気づかないことが往々にしてあるのだ。……彼の親戚はこのことを理解してはくれなかったが。
 行き道を覚えていればそれを引き返すことなど造作もないだろう、との言い分だったが、とんでもない、行きと帰りでは体の向きが違うではないか。それは即ち視界が変わるということであり、端的に言えば、行きに右にあったものが、帰り道では左手にあることになるのだ。見えている景色は別物ではないか。だから来た道を戻るというのは、新たな道を行くのと大差のないことだ。
 オーストリアはこのように考えているわけだが、いまのところ、方向感覚に関する彼の理屈を実感として理解したものはいない。あのハンガリーでさえ、説明上はわかるが感覚としてはどういうことなのか理解しかねる、と首を傾げた。まあ、ハンガリーまで方向音痴ではどこにも出かけられなくなってしまうので、このことについて彼はなんら不満を抱いてはいなかったが。
 この迷路を抜け出すにはどうしたものか、と彼が元いたトイレのそばで(彼自身はそれがプロイセンと会話していた場所だという確信はもてなかったが)逡巡していると、胸ポケットに入れた携帯電話のバイブレーションがうなった。着信表示を見ると、よく知るドイツ語の文字列が並んでいた。
 通話ボタンを押し、オーストリアは顔の横に携帯を当てた。
「ドイツですか」
 機械越しに聞こえてきたのは、特定の周波数をカットされた人声だった。それでも十分、声の主は特定できるが。
『ああ、俺だ。オーストリア、今日はその……不測の事態によりあいつが会議に行くことになったんだが……大丈夫か?』
 ドイツがちょっとナーバスな声音で尋ねてくる。オーストリアは先に台詞を取られてしまった、と苦笑いをした。
「それは私があなたに聞こうと思っていたことなんですが……」
『俺は大丈夫だ、たいしたことはない。今日だって行こうと思えばそっちに行けたんだが、あいつが小うるさかったから休む羽目になった。まったく……力技で負けたからといって泣き落としは卑怯だろう』
 ドイツの文句に、オーストリアは疑問のいくつかが解消されたのがわかった。プロイセンはドイツと取っ組み合った挙句、力で勝てなかったので別の方策を取り、この会場に来る権利を得たらしい。まあ、だいたいそんなところだろうと予想はしてたが……。
「それはそれは……」
 いくつ技をかけられたのだろう、と何とはなしにドイツがよく使う締め技や関節技を思い浮かべた。
 プロイセンを泣かす程度には動けたということなので、そこまで具合が悪いということもなさそうだ。オーストリアは今朝からの心配をようやく晴らせて、ほっと息をついた。
『で、そっちはどうなった。イタリアは大丈夫か?』
「あの子のことなら心配には及びません。ハンガリーがいますしね。会議中、プロイセンの姿を見つけて若干怯えていましたが、特に何も起こっていませんよ。イタリア、あなたがいないことを気にしていたようですが、プロイセンには近寄りたくないのか、午前中の会議が終わってから私のところへ事情を尋ねに来ましたよ」
『そうか、それは賢明な判断だ、あいつにしては』
「お見舞いに行きたいと言ってましたが」
『何? いや、それはちょっと……いまはタイミングがよくないんだが』
 ドイツが言葉を濁す。彼の言いたいことはだいたい予想できた。おそらくプロイセンはこの後ドイツ宅に寄る。せっかくこちらでイタリアを保護したというのに、自宅のほうでプロイセンと鉢合わせることになっては、元も子もないというものだろう。
「事情は察してますよ。一応、治ってからにしたほうがいいと助言はしておきました。イタリアにうつしたらドイツが気にするだろうから、とね」
『ありがたい、オーストリア。はあ……こんなにあれこれ心配しなくてはならないなら、最初から俺が出席すればよかったな。これでは気が休まらない』
「プロイセンなら会議中は優等生でしたよ」
『それについてはあまり心配していない。なんだかんだであいつはそういうのできるからな。最近やってないだけで』
 一応仕事上の信頼はあるらしい。ただ別枠で懸念事項があるだけで。プロイセンのほうは前者に疑念を抱かれていると考えているらしいが。微妙に噛み合ってないが、まあわざわざ解説してやることもないだろう。どのみち、あの男はオーストリアの言葉など信じまい。
「それにしても、あなたが体調崩すなんて珍しいこともあったものですね。愉快でないことに先程プロイセンとも話してたんですが、まあ何と言いますか、意外です」
『そうだな、自分でも意外だ。おかげであいつのやかましい看病を受ける憂き目に遭った……今後は一層気をつけようと思う。じゃあ、手間をかけさせてすまなかったな、オーストリア。あいつが何かしでかしたらすぐに連絡してくれ』
 と、ドイツは電話を切ろうとしたが、オーストリアははっとしてそれをとどめた。
「お待ちなさい、ドイツ」
『なんだ?』
「ええと……私はいまどこにいるのでしょう?」
『なんだそれは、なぞなぞか? いつもの会議場じゃないのか?』
「そうですけど、その中のどのへんにいるのかわからないから聞いてるんですよ」
『おまえ……建物の中でまた迷ってるのか?』
「その通りです。だから、どこにいるのか教えてください」
『いや、無理だろう。俺はその場にいないんだぞ。ハンガリーに頼め』
「女性に迎えに来させろと?」
『彼女なら喜んで迎えに来るだろう。おまえが戻らないほうが心配するんじゃないか? 早く連絡しろ』
 それだけ助言すると、ドイツは通話を切った。

「……はあ、やっぱり自分が行かないと落ち着かんな。もう休まんぞ、俺は」
 自室の椅子に座り、切ったばかりの携帯電話を見つめ、ドイツはため息をついた。


彼とスーツの事情

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