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彼とスーツの事情


 会議が無事終了し、ハンガリーは身支度を整えているオーストリアのもとへ駆け寄った。今日はこれから食事の約束があるので、浮かれたい気分はやまやまだったが、その前に確認しておかなければならないことがある。これを済ませなければ、せっかくのオーストリアとの食事を満喫できないというものだ。
「オーストリアさーん! あのっ、プロイセンの姿がないんですが、あいつ、どこに行っちゃったんでしょう? 姿が見えれば見えるで不快ですけど、見えないなら見えないで不安なんですよね。イタちゃんにちょっかい出したり、オーストリアさんによからぬこと考えてるんじゃないかって……」
 フライパンを両手で握り、早くも臨戦態勢の彼女に、オーストリアはあっさりと告げた。
「ああ、彼ならもう帰ったと思いますよ」
「えー! 何の挨拶もなしにですか? オーストリアさんがドイツの分の記録取ってたのに」
 ハンガリーが非難めいた声を上げるが、オーストリアは気にしたふうもなく、無言でフライパンを下ろすよう示した。
「それについてはすでに話しましたので問題ありません。感謝はされませんでしたけど」
「久々に顔見せたと思ったら、やっぱりそういう態度なんですね……」
「まあ、今日は仕方ないですよ」
「え?」
 事情を知らないハンガリーがきょとんとすると。
「ドイツのことが心配で、早く帰りたかったんでしょう。まあ、大目に見てやってください。……さ、私たちもそろそろ帰りましょうか」
 オーストリアはそう言って、ハンガリーの背を抱いて会議場をあとにした。

*****

 プロイセンは、会議の帰りに寄ったドイツの家で少々機嫌を損ねていた。せっかく食材を買ってきたのに、ドイツは勝手に自分で料理をして食事を済ませていた。プロイセンが戻るのを見越してか、彼の分もつくってある。病人なんだからおとなしくしてろよ、とプロイセンはなんとなく悔しくなったので、理由をつけてもう一泊して、明日の朝食をつくってやる、と再戦(?)を誓った。なので、夕食の件についてはさほど腹立たしくはないのだが――
「なんでこのスーツこんなでかいんだよ。肩が緩くて落ち着かねえ」
 リビングで会議の報告と説明をしながら、プロイセンは着用中のスーツに文句をつけた。フランスにセクハラされたことについては、思い出すのもむかつくので言っていないが、トイレのときにウエストを直すのが面倒なのだと、不満を述べる。ドイツは、もう熱の引いた顔で真面目に会議の資料に目を落としながらも、律儀に答えた。
「俺のだからだ。オーダーメイドなんだからほかのやつが着たら合わないに決まっている。おまえと俺では体格もウエイトも違うのだから、緩いのは当たり前だ。文句言うなら早く脱いだらいいだろう。なぜずっとその格好でいるんだ? 帰ってから三時間は経っているぞ」
 昨晩特に意味もなくドイツ宅に泊まったプロイセンは、スーツなど持参していようはずもなく、今朝ちょっとした攻防の末に会議への出席が決まってから、ドイツに借りたのだった。もちろんサイズが合わなかったので、ベルトやら安全ピンやらで丈を調整し、肩にはパッド代わりにタオルハンカチを内側から安全ピンで留めて補正した始末である。もっとも、ハンカチはフランスともみ合った(というより一方的に脱がされかけてまさぐられたのだが、彼の中ではあれはもみ合ったのだということになっている)際に形が崩れてしまったので、その後外してある。
 プロイセンは、けっして着心地などよくないだろう大きすぎるスーツをどういうわけかまだ着用したままである。朝に袖を通してから、かれこれ半日以上経過し、すっかり着崩れているというのに。夕食も、汚されたくないから着替えろと忠告したにもかかわらず、この格好のまま摂った(ドイツにつくられたことに文句を唱えながらも結局食べた)。
 ドイツがそのことを指摘すると、彼は頭の後ろに手を置いて愉快そうに笑った。
「ははははは。いやあ、久しぶりにこういうフォーマルな格好もいいなと思ってな。それに、スーツ着てたほうが会議の雰囲気出て、報告にも集中できる気するんだよ。な、普段着より男前に見えねえ?」
「いや、特に」
 ドイツの即答に、しかしプロイセンは気を悪くした様子もない。
「そうか、そりゃそうだよな。俺は普段から男前だからな。はははははは」
「……たまにほんとにおまえと血がつながっているのか疑問に思うぞ俺は」
 ドイツは、はあ、と大きくため息をついた。微妙に頭痛を覚えるのは、別に熱が再発したわけでも、体調が悪いせいでもない気がするが。
「しかし、裾が余るのが気に食わない。俺のが脚短いってのかよ」
「単に身長が違うからだろう」
 背丈に差があればその分脚の長さに差が出るのは当然のことである。人間の背の高さは脚の長さによるところが大きいのだから。しかし、プロイセンは納得がいかないらしい。
「えー、そんなに背ぇ変わらねえじゃん。だろー?」
 ドイツは肯定も否定もしなかった。一通り目を通した書類を封筒にしまいながら、
「気が済んだら脱いで安全ピンを外しておいてくれ。跡がつく」
 と指示すると、プロイセンが口を尖らせた。
「その余裕がむかつくんだよっ」
「……何の話をしているんだいったい?」
 疑問符を浮かべた顔を上げると、胸の辺りに何かが当たった。服の上からではなんら衝撃は感じなかったが、光る何かがこちらをめがけて飛んでくるのが見えた。膝の上に落ちたそれを拾い上げる。銀色の小さなそれは、安全ピンだった。と、またしても同じものが飛んでくる。
「こら、投げるな。子供かおまえは」
 プロイセンは、片足をもう片方の膝の上に乗せてズボンの裾を留めていた安全ピンを外しては、ドイツに向けて投げつけてくる。無論、本気で飛ばしているわけではないようで、目や口には当たらないようにコントロールされている。ドイツは途中から、体にぶつかる前に空中でひょいひょいと安全ピンを回収した。
「それから、裾上げ外したならさっさと脱げ。そのまま歩き回ったら裾ずって汚すだろうが」
「おまえは本当にむかつくな」
「だから、何がだ」
「どうせ俺は短足ですよー! おまえのズボン、引きずりますよー!」
「前半は言ってないぞ。被害妄想はやめておけ」
 どうもズボンの裾上げをさせられたことが屈辱だったらしく、プロイセンはひがみっぽく拗ねて見せた。公衆の面前で裾が長いまま引きずって歩くほうがよっぽど恥ずかしいではないか、とドイツは思うのだが。
「ほら、脱げばいいんだろ、脱いでやるよ、裾汚す前にっ」
 プロイセンはベルトを抜くと、ばっと潔くズボンを脱いだ。ぱさ、と床に落ちたそれをそのままに、下着姿で再びどかりとソファに座る。ドイツはズボンを回収してきっちり折り目を合わせてきれいに畳み、自分の座っているほうのソファに置いた。その間、プロイセンは動く気配を見せない。下はボクサーパンツ、上はいまだネクタイを締めジャケットのボタンをきっちり留めたまま、脚を組んでいる。なんか大分昔に似たような光景を目にしたような気がするな、とドイツは一瞬記憶をよみがえらせたが、すぐに現実への対応に意識を回した。
「……なぜ着替えようとは思わないんだおまえは。まったく……イタリアのような格好をして。おまえの服なら俺の部屋にあるだろう。前に勝手にクローゼットの下段を荒らして自分のスペースにしていたと思うが」
 ドイツが言うと、プロイセンは意外そうに目をしばたたかせた。
「え。あれ、あのままなのか?」
「下手に移動させたら、あれがなくなったこれがなくなったと騒ぐだろう、おまえが」
 そう思って放置してあるんだ、と告げると、プロイセンがすっと立ち上がり、ふらふらとドイツのそばまで寄って来た。そして、
「……ヴェストー」
 ソファに座っているドイツの頭を、なぜかいきなり抱え込んだ。突拍子のない行動に、ドイツはプロイセンの腕の中で身じろいだ。
「おい、なんのつもりだ」
 巻きついてくる腕をぽんぽんと叩く。と、プロイセンは自分の行動にはっとして、慌ててドイツの頭を解放した。どういうわけか彼のほうが驚いたような顔で視線を逸らしている。
「あ……いや、ちょっと……。あ、そういやまだ生ゴミ片付けてなかったっつってたよな。俺台所行ってくるわ。おまえはもう休んでろよ。せっかく今日一日休んだのに、夜更かししてぶり返したらつまらないだろ」
 プロイセンは滑らかさを欠いた動作で焦り気味に台所へと走ろうとした。が、ドイツがそれを引き止めた。
「待て」
「な、なんだ?」
 ギギギ、と振り返るプロイセン。ドイツはテーブルの上に置いた、先程畳んだばかりのスーツのズボンを手に取って、
「とりあえず、もうなんでもいいからズボンを穿いてからにしろ」
 と言ってプロイセンに投げ渡した。


食事のマナー

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