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DDR設定の特殊バージョンです。ほかのDDR設定の話とは別物扱いです。ある種の消滅ネタかもしれません。
回想でザクセンの登場が少しありますので、苦手な方はご注意ください。
独普寄りだと思われます。





眠りの海



 自家用車のキーを回し、エンジンを停止させる。車体の振動が消えたところでシートベルトを外すと、俺は助手席に座る彼を一瞥した。
「着いたぞ。少し待っていてくれ」
 それだけ言うと、俺はドアを開けて外に出た。彼を車内に残し一旦ロックを掛けてから、自宅の玄関まで行き開錠する。扉を開け放ってストッパーで固定したあと、再び車に戻った。今度は助手席側のドアを開ける。
 三十度ほどリクライニングしたシートに身を沈めている彼は、やはり何の反応もしなかった。そっと目を閉じ眠っている。シートベルトを外してから、俺は彼の肩の下に腕を入れ、上半身を抱き起こした。緊張のない身体は重力に引かれるがままで、自分で自分を支える力がまったく入っていない。首はまるで生後まもない赤ん坊のようにぐにゃりと後屈する。仰け反った喉が苦しいのではないかと思い、俺は彼の後頭部に手を当てて頚部の反りを和らげてやった。もっとも、彼の表情に苦しげな影は見当たらなかったが。穏やかな寝顔だった。
 俺は彼の腕を自分の首に回させると、脚を支えながらそっと彼の体を浮かせた。完全に脱力しているので、実際の体重よりも重く感じられたが、よろめくほどではなかった。
 彼の体をドアの枠にぶつけてしまわないよう注意を払いながら車を抜けると、俺は彼を抱いたまま玄関まで歩いた。自宅に入るとそのまま彼をリビングに運び、ソファの上に寝かせる。端からだらりと左腕が落ちかけたので、肘を曲げて腹の上に置いた。ソファの幅は彼の身長を収めるには寸足らずだったので、足が飛び出てしまわないよう膝を山にすると、その下にクッションを入れて安定させた。白いスニーカーは脱がせた。
「悪いが、またちょっと待っててくれ。車を車庫に入れてくる」
 俺はテレビの電源を点け彼の好きそうなイタリアの紀行番組にチャンネルを合わせると、リビングを出て、車の車庫入れに向かった。家から離れる時間はわずかだが、施錠は怠らない。いまの彼は完全に無防備だから。
 リビングに戻ると、先ほどと同じ姿勢のまま彼は寝ていた。ただ、頭部のすわりが悪かったのか、若干首が左に向いていた。
「隣、座るぞ」
 答えが返ってこないのはわかりきっているが、俺はそう断りを入れてから彼の上体を起こして座位を取らせると、その下に自分の体を滑り込ませた。そして、ソファに横向きに座りアームレストにもたれる格好で、自分の胸に彼の肩を安置させる。密着した部位から体温が伝わってきて、少しくすぐったかった。背中が呼吸に合わせてかすかに動くのが感じられる。
 俺は彼の胸の前で手を組むと、そのままふたり分の体重をソファに任せた。互いにとって少々不自然な姿勢だが、彼は文句も言わずただ眠っている。本当に、よく眠っている。
「少し寝過ぎだと思うがな」
 咎める気はなく、ただの感想として漏らすと苦笑した。平穏すぎる彼の寝顔を見下ろしながら。
 俺はもう長い間、彼の目が開かれるのを見ていない。十年以上、ずっと。

*****

「あいつが倒れた?」
 その最初の一報は、さして俺を動揺させなかった。というのも、情勢的に疲労が蓄積していてもおかしくなかったからだ。大方、過労で一時的に倒れただけだろうと推測した。けれども電話を寄越してきたザクセンの声色はどこか焦りに駆られているように感じられた。
「何か悪いところでも見つかったのか?」
 不安に思って尋ねると、ザクセンは言葉を濁した。伝えづらい内容というよりは、彼自身、事態を把握しきれていない様子だった。
『いや……体も脳も悪いところはないって、ドクターは言ってた。でも、なんか変なんだ。あいつ、全然目ぇ覚まさなくて……ただの疲労にしてはおかしい気がする。だって、もう十日も寝っぱなしなんだぜ。いくら大声で呼びかけても、全然意識が戻らなくて……』
「十日? 十日前から意識不明ということか?」
 俺はカレンダーを今日の日付から十コマ遡った。この日付は――
『壁の事件があった日だよ、あいつが倒れたのは。俺、あの日事務所で例の騒動を聞いてさ、慌ててあいつ呼びに仕事部屋まで行ったんだよ。そうしたら、プロイセン、自分の席で突っ伏しててさ。最初寝てるのかと思ったけど、なんか様子がおかしくて……話しかけても無反応でさ、肩を揺さぶったら腕が垂れて上半身が崩れかけて……それではじめて、寝てるんじゃなくて意識がないんだって気づいたんだ。慌てて病院に運んだけど、原因不明のままいまに至ってる』
「じゃあ、いままでそちら側から何の連絡もなかったのは……」
『プロイセンがあんな状態じゃあ、連絡なんてできなかったんだ。お互い、混乱に拍車が掛かりかねないだろう。でも、俺、心配でさ……上には無断だけど、おまえに電話しちゃったんだ。おまえに言ってどうにかなる問題でもないのかもしんないけど……意識のないあいつのそばにひとりでついてるの、きつくて』
 俺はザクセンから彼の入院先を聞き出すと、いても立ってもいられず、すべてを放り出して病院へ向かった。西ベルリンのアパートに滞在中だったのが幸いし、ほどなく病院に到着した。
 憔悴した表情のザクセンにロビーで迎えられ、俺は案内されるまま廊下を歩き――俺にしては珍しく、このときは道順をまったく覚えられなかった――病室に入った。カーテンの向こうでは、白いベッドの上で静かに眠る彼がいた。容態に危険はないということなのか、体にはこれといった機器は取り付けられていなかった。ただ、胸から一本のチューブが伸び、それは上方の点滴パックとつながっていた。高カロリー輸液を行っているようだった。ということは、長期的に栄養管理が必要だと判断されたらしい。彼は胸に留置されたカテーテルを通じて、水分を栄養を提供されていた。
 ひどく病人じみた姿にショックを受けた俺は、しばらくベッドサイドに近寄れず、カーテンの横で立ち尽くしていた。頭をハンマーで横殴りされたような衝撃だった。あの彼が、こんな場所でこんなふうに横たわっているなんて。ザクセンがこの十日間、連絡をためらっていた理由がようやくわかった。いまになって電話してきた理由も。
「プロイセン、ドイツが来たぞ。なあ、起きろよ。あんなに会いたがってたじゃん。いまはもう、普通に会えるんだぞ。駄弁ったっていいんだぜ。積もる話もあるだろうし。ほら、起きろよ、起きろってば。ドイツ、困ってるじゃん。せっかく訪ねてきたってのに、おまえが寝てるからさあ」
 ザクセンは力ない口調で彼に呼び掛けた。十日の間に、どれほど言葉を掛けても反応が得られないことにいくらか慣れてしまったのだろう。ザクセンの声には失望とともに諦めの響きが含まれていた。
 俺はただただ呆然とするばかりだった。信じられない面持ちで彼を見つめていた。一見すれば眠っているだけのようだったが、俺はその姿に、彼にはおよそ似つかわしくない静謐を感じた。彼は時が停止したかのような静けさに包まれていた。
「ドイツ、こっち来てやって。声掛けてやってよ」
 ザクセンに言われてようやく、俺は縫い付けられた足の硬直を解くことができた。ふらつきそうになる足取りでベッドサイドに移動すると、ザクセンに譲られた丸椅子に腰掛け、彼の顔を改めて間近で見下ろした。
 存外顔色は悪くなかった。非常に静かだが、寝息も聴こえる。口を薄く開き、目を軽く閉じているそのさまは、本当にただ眠っているだけの姿に見えた。
 俺は戦慄く唇と喉を叱咤してなんとか彼の名前を紡いだ。しかし反応はない。何度も何度も繰り返し呼んでみたが、やはり返事はなかった。
「どうして……」
 何の反応も返されないことに俺はひどく動揺した。ザクセンはつらそうに、けれども仕方がないと俺を慰めるように、ゆるゆると首を左右に振っていた。
 おずおずと指の背を彼の頬に触れさせてみると、平常な人肌の温かさが感じられた。死に顔のようにも見えたおとなしすぎる彼の顔に内心恐れをなしていた俺は、そのことにほんの少しだけ安堵した。
 けれども、その後も彼が俺たちの声に答えることはなかった。


*****

 季節の巡りが何度繰り返されても、彼は一向に目を覚まさなかった。まるで外界のあらゆるものとの関係を断ってしまったかのように、昏々とひとり夢の世界を漂っている。もっとも、彼が夢を見ているのかどうかはわからなかったが。彼はいつも変わることのない穏やかな無表情で眠りの海を漂っている。ただ、外部への反応がすべて失われているわけではなかった。彼は鋭い痛みや突然の大音量といった侵害刺激に対して、反射的に体を動かすことがあった。たとえば、手をベッドの柵に誤って挟んでしまったり(気づくとひやりとするが)、パイプ椅子が倒れて盛大に床にぶつかったときなど。反応としてはぴくりとまぶたが動いたり、わずかに苦しそうに眉を寄せたりするだけであったが、それは彼が外の世界と完全に切り離されているわけではないことを意味していた。彼のちょっとした表情の変化を見るたび、俺は幾許かの安堵を得た(彼を痛がらせたり驚かせたりすることは申し訳ないのだが)。彼はまだ、俺たちの世界とつながっている。たとえどれほど底の知れない眠りの深遠に沈んでいようとも。
 彼が意識を失った理由も、十年以上の長きにわたって覚醒しない理由も、結局わからないままだ。身体的異常はどこにもない。少なくとも現在の医学水準で調べられる範囲では。もっとも、俺たちの体が人間のそれとまったく同じメカニズムで動いているという保障はないので、ひとの英知で彼の深い眠りを解明できないとしても、それは仕方がないのかもしれない。
 目覚める気配のない彼に、俺は数年間ずっと焦燥と絶望を行ったり来たりしていた。けれどもやがてそんな状況にも慣れてしまった。希望のない状態が永劫に続くことを思い浮かべたとき、ひとは諦念に縋るのかもしれない。俺は彼の目覚めを期待しないことにした。そうしていまの彼を受け入れた――長い時間を掛けて。
 どんな呼び掛けにも答えず、自分で自分の身を守ることはおろか生存のための最低限の行為すらできず、無力に無防備に横たわるしかない存在が、果たして彼であると断言できるのか。心のありかのわからない抜け殻のような体。ただ器が残っているだけで、彼の精神はとっくに消滅しているのではないか。
 その疑念は長らく俺の中に燻っていた。いや、いまもなお消えていないかもしれない。正直なところ、こんなのは彼ではないと思ったこともある。俺の知っている彼はこんな姿ではないと。……いや、そう思おうとした。そうでなければ気がおかしくなりそうだったから。目覚める見込みのない彼のそばに居続けることがどうしようもなくつらいときだってある。だが、それでも俺はいまだに彼の手を離せずにいる。過去に離さざるを得ない状況になったことがあるからこそ、再び掴んだその手を離すことに抵抗と恐れを感じてならない。
 ただそばにいたい、いてほしい――そんな甘い台詞に酔えるほど、現況は優しくなかったけれど。


遠距離恋愛

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