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一歩間違えば勘違い


 目薬を渡してやりたくなるくらい目を血走らせるドイツを前に、フランスは特に気後れした様子もなく、ただ怪訝そうにまばたきをした。最後に耳掃除したのいつだっけ、と頭の奥でぼんやりと記憶を検索しつつ、フランスは眉根の寄った顔で首を傾げた。
「ドイツ、おまえいまなんつった? もっぺん言ってみ?」
 心底不可解そうに言ってくるフランスに、ドイツは威圧感たっぷりにかっと目を見開くと(その顔がまたたいそう恐ろしかった)、怒りとも驚嘆ともつかない声で、
「きっ、聞いてなかったのか!? あんな大声で言ったのに!? は、恥ずかしいの我慢して言ったんだぞ……」
 叫んだものの、途中から羞恥心が勝ってきたらしく、口元を片手で覆って語気をしぼませた。血の上った顔は、耳まで真っ赤だった。恥ずかしさのあまり目も合わせられないのか、視線はすっかり真横だ。心なしか、目尻にうっすら涙が浮かんでいるようにも見える。
 ああ、こいつなりに精一杯がんばったんだな、と相手の努力を認めつつも、フランスは容赦なく畳み掛けていく。
「いや、おまえの声は十分すぎるくらい聞こえてたけど……でも、なんつーか、聞き間違いなんじゃないかと思って」
「……多分おまえが聞いたとおりのことで正しいと思うぞ」
「俺が聞いた通りって?」
「だから……それは……」
 フランスの問いにドイツは露骨に狼狽し、口の中で言葉を濁した。先ほどは勢いで言えたが、改めて繰り返すよう要求されると、発話に必要なすべての器官が不調和を起こす。フランスは、まごついているドイツをますますせっついた。
「なんだよ。聞き間違いの可能性を放置したまま会話を進めると、あとであらぬ相互不理解に陥る危険性があるぜ? もういっぺん同じこと言うだけだろ? たいした手間じゃないと思うけど」
 意地悪そうな半眼で催促するフランス。ドイツはぐっと唇を一文字に引き結び、屈辱と羞恥に打ち震えたものの、ここでしおらしい態度を取ったらフランスを喜ばせるだけだと自分に言い聞かせ、
「……テレフォンセックス、と言ったんだ」
 可能な限り平静な低いトーンで答えた。別にこの単語自体は恥ずかしくないだろう、何をはばかることがある、と胸中で呟きながら。気難しげに眉根を寄せて目を閉じ、かろうじてすまし顔を取り繕うドイツだったが、フランスはなおも食い下がってきた。
「うん、その単語はちゃんと聞き取れた。で、おまえはそれをどうしたいってんだ? やりたいんだっけ? それとも見せたいのか?――あ、いや、見せるのはおかしいか――聞かせたいとか?」
 へらへらと小憎たらしい笑みを浮かべ、ほとんどチンピラのようにドイツの肩に腕を掛けてずいっと顔を覗き込む。ドイツは逃げるようにそっぽを向くと、つっかえながら答えた。
「だから、俺に、お、お、おしえ……」
「その図体で思春期の女の子みたいな態度は不気味だぞ」
 と、ドイツの頬をつんと人差し指で突いたフランス。ドイツは彼の指を軽く握って自分の顔から離させた。
「からかうのはよさないか。こっちは真剣に困っているんだ」
「やれやれ……気まずくて言えないってか。手間の掛かるやつ。仕方ないねえ……」
 フランスは肩をすくめ、呆れ気味にゆるりと頭を振った。とそのとき、通路の先で人の通る気配がした。接近してくる様子はないが、気づいたドイツは途端に狼狽し、身の置き場を探すようにそわそわとあたりを見回しはじめた。
「こんなとこまで来るやつはそうはいないと思うがなあ」
 言いつつ、フランスは落ち着きを失ったドイツの腕を掴むと、トイレへと逆戻りした。そして個室の扉を開くと、先に自分が入り、次にドイツを引きずり込んだ。
 どこからどう見てもお一人様専用につくられた空間に、成人男子二名はとんでもなく窮屈だった。何の説明もなく個室に引っ張り込まれたドイツは数秒驚きから挙動不審に陥っていたが、人目のつかないところで話を続けようというフランスの意図を察すると、体勢を立て直しながらこくりとうなずいた。
 そしてフランスの体を押し退けると、どういうわけか、蓋のされた便器の上で体操座りをした。
「……なんで乗るんだよ」
 ドイツの奇怪な行動に首を傾げるフランス。が、ドイツは真面目腐った調子で答えた。
「万一外から足元を覗かれたとき、二人分の足が見えるのはおかしいのではないかと思ってな」
 だから便器の上で足を上げて座ったらしい。彼の背丈では便器の上で立位になったら敷居の上から頭が飛び出してしまうだろうから、あながち間違った対応でもないかもしれないが……
「トイレの個室から会話の声がする時点でおかしいと感づかれると思うが……」
 足元よりも先に考慮すべき点が存在するのではないだろうか。
 気が回るのか回らないのかいまいちよくわからないドイツに、フランスは悩ましげに額を押さえた。
 そんなフランスの心境など知りもしないであろうドイツは、いましがた相手に指摘された点に対する改善策を提案した。
「では小声で」
 とささやき声で言ったあと、ドイツはおもむろにフランスのネクタイを引っ張って自分の顔に接近させた。そして空いているほうの手を彼の肩に掛けて軽く引き寄せる。小声でも聞こえるようにとの配慮らしい。
 フランスは一瞬ぽかんとしたあと、次にどぎまぎと視線を泳がせた。
「お、おまえなあ……」
「なんだ」
 らしくもなく声を上擦らせるフランスだったが、一方のドイツは平然としている。
 これは誤解されても仕方ないぞ、と胸中でぼやきつつ、フランスは深々とため息をついた。
「その無自覚無防備っぷり、いつか痛い目に遭うと思うぜ……?」
 それとなく忠告をしてやったものの、ドイツは何について言われているのか理解できないらしく、不思議そうにきょとんとするばかりだった。
「何を言っているんだ?」
「わからないあたりが致命的だな」
 フランスは頭を抱えたい気持ちでいっぱいになった。
 この絶望的なニブチンはいっぺん痛い目見ないと学習しないんじゃないか、なんなら俺が教官を務めてやろうか――なんて空想がふと脳裏をかすめる。が、次の瞬間には、このドSにそんなことしたらきっと俺のほうが調教返しを受けるに違いない、と冷静な考えが浮かんだ。
 しばし思考に耽っていたフランスだったが、疑問符を浮かべながら近距離でじっと見つめてくるドイツの視線に居心地の悪さを覚え、気を取り直すようにこほんと小さく咳払いをした。
「確認するが、おまえ、テレフォンセックスの仕方わかんないんだ? それってつまり、一回もやったことねえってこと? まじで?」
 ささやき声まではいかないが、かなりボリュームを落としてそう尋ねると、ドイツもまた同じくらい小さな声で答えた。
「なんでそんなに不思議がられねばならないんだ」
「へ〜……さすが奥手なだけはあるねえ」
「いや、それがだな……マニュアル本は可能な限り集めて熟読したのだが、文字を追っているだけではいまいちよくわからなくてな……。図解もあったが、いかんせん電話をしている図ばかりなので、わけがわからなかった。それで、やり方を知っている人間に直接口頭で説明してもらったほうが理解しやすいのではないかと考えたんだ」
 ばつが悪そうな表情で、けれども実直に説明するドイツ。彼の話を聞いたフランスは、げんなりした面持ちでぼそりと呟いた。
「おまえんち、そんなもんに特化したマニュアル本なんかが流通してんのかよ……そしてそれを読むやつがいるのかよ……」
「探せばあるものだと、わが国の書籍市場の広さに我ながら感心してしまった」
 ドイツはどこか誇らしげにそうコメントした。どこから突っ込んでいいのかわからなくなってきたフランスは、無精髭の生えた顎を人差し指で掻きながら、呆れきった声音で言った。
「はあ。テレフォンセックスのマニュアルねえ。まあおまえんちならたいていのマニュアル本は揃ってそうだが。供給があるってことは、多少なりとも需要があるってことだしな」
「あちこちの書店に問い合わせたところ、音声トレーニング用のカセットが付録として付いているものもあるらしいんだが、絶版のため残念ながら入手困難だった」
「いったいどんな顔して問い合わせたんだか……」
 難事件担当の使命感溢れる捜査官のような鋭いまなざしと真摯な声で尋ねたのか、あるいは誰も見ていないというのに首から上を真っ赤に染めてどもりながら聞いたのか。ドイツの場合、どちらの可能性も同じくらいありそうだ。そしてどちらを想像してもそれなりに笑えるものがあった。
 と、そこまで考えたところでフランスはふと引っかかりを覚えた。生真面目かつ奥手なこの青年をこのように駆り立てている――ややもすれば暴走しかねない勢いで――ものは何なのだろう、と。
「ところでよ、こんなふうに聞いてくるってことは、おまえ自身がやるってことだよな、テレフォンセックス。いったい誰と? やっぱイタリア? イタリアは電話より直接のが好きそうだけどなあ」
 鎌をかけるというよりは、ただ単にそう思ったから率直に尋ねてみたといった口調でフランスが質問すると、ドイツは露骨に眉をしかめた。
「なんでイタリアが出てくるんだ」
「おまえらデキてんじゃねえの?」
「誤解だ。どうしてそんな妄想が出てくるんだ。勝手にあいつを巻き込んでやるな。あいつはまったくの無関係だ」
 真っ向から否定するドイツの口調は不機嫌そうだった。イタリアのことが嫌だというわけではなく、むしろ逆だな、とフランスは読み取った。この実に品のない話題の中でイタリアの名前を出すのは、なんとなく彼を汚しているような気持ちになるのだろう。
 フランスは、そっぽを向いてしまったドイツをおもしろそうに見下ろしながら、
「じゃ、誰だよ?」
 彼の鼻を摘み、こちらを視線を戻させた。そして畳み掛ける。
「どうした、答えにくい相手なのか?」
「ああ……まあ」
「俺も知ってるやつってことか?」
「それは……」
「あ、もしかしてさっきから遠回しに俺を誘ってんのか?」
「それはない」
 いままで歯切れの悪かったドイツだが、この回答については例外的にきっぱりはっきり真顔で即座に言い放った。
「わかってたけど、即答されると悲しいな」
 フランスは大仰な動作でがっくりと肩を落として見せたものの、口ぶりは特に残念そうでもなかった。と、彼はふいにドイツの顔に手を添えると、青い瞳をまっすぐ見つめながら忠告した。
「で、結局誰なんだ? あんまり焦らされると、俺、飽きちゃうぜ?」
 飽きて別のコトしたくなっちゃうかもよ?――と視線で告げると、ドイツはますます困って顔をゆがめた。まあフランスのアイコンタクトを理解したわけではなく、単純に、このまま用件を達成する前に彼に立ち去られたら意味がない、と考えてのことだろうが。
 が、それでもなおドイツは数十秒、たっぷりと沈黙を続けた。しかしこの無言の間は答えを拒んでいるのではなく、言いづらい答えを何とかして発しようと努力しているためのものだと感じたフランスは、辛抱強くドイツが口を開くのを待ってやった。
 やがて、ドイツは自分の口を手の平で覆うと、
「あのな……非常に言いにくいんだが――」
 と前置きをしてから、おもむろにフランスの右耳を掴んで自分のほうへ寄せると、唇を可能な限り近づけ、ほとんど吐息のようなささやき声で言った。
「――相手は兄貴なんだ」
「は……?」
 他人の呼気の湿り気が妙に艶かしい。が、フランスを驚かせたのは、生温かい息づかいよりもむしろ呼気とともに耳に吹き込まれた言葉のほうだった。
 この青年が『兄貴』と呼ぶ人物といったら――。


最大の被害者は

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