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とどのつまりは兄弟喧嘩


 いい加減三角座りがきつくなってきたのか、ドイツは音を立てないよう便器の上で慎重に足を崩し、胡坐をかいた。個室の足元まで確認するやつなんかそうそういないのに、と思うフランスだったが、ひとたびこうするべきだと思い込んだドイツの耳に有効な助言などないこともわかっているので、あえて何も言わなかった。腕組みをしたドイツは、これまでの会話を振り返っては自分の二の腕を指先で苛々と叩いた。話せば話すほど、そして思い出せば思い出すほど、プロイセンによるセクハラ同然の嫌がらせ行為への腹立ちが増してくる。
 まあそうカリカリすんなって――フランスは宥めるようにドイツのオールバックを軽く掻き回した。ドイツは依然として仏頂面を保っていたが、意外にも相手の手を振り払うことはなかった。
「けどよ、真面目な話、まず大問題としてプロイセンが相手でいいのかよ? おまえ、自分の兄貴がよがってアンアン言ってるとこ、聞きたいのか?」
 より具体的に指摘すると、ドイツは怖気を押さえるように自分で自分の体を抱くように腕を回した。
「もちろんものすごく嫌だ。想像するのもおぞましい。耳が腐りそうだ」
 容赦ないコメントを残すドイツ。まあ当然の反応か、と思いつつ、フランスはあえて相手の神経を突付くような発言をする。
「そうか。俺はちょっと聞いてみたいけど、アンアン喘いでるプーちゃん」
 へらへらと笑うフランスに、ドイツは無言というよりは絶句といったほうが的確な沈黙とともに、何かこの世のものならざるものを目撃してしまったかのような目を向けた。眉間も口元もまなじりも、すべてがすべて引きつっている。フランスはやれやれと肩をすくめつつ、無精髭の散らばる顎を撫でた。
「ンな異星人を見るような目で見るなよ。ただの好奇心だから。しかしおまえ、嫌ならなんでわざわざあいつに応じようとするんだよ。無視すりゃいいだろ」
 的を得た――というか妥当な――提案をするフランス。が、ドイツはゆるりと首を横に振ると、奥歯の軋みが聞こえてきそうな表情で口を開いた。
「無視が有効な相手ではないから困ってるんだ。兄貴は何も本気で俺とテレフォンセックスなぞしたいと思っているわけではないはずだ。暇つぶしだかストレス発散だか嫌がらせだか精神攻撃だかなんだか知らないが、とにかくあのひとは俺をからかうことに余念がないんだ、昔から。つまり兄貴は、俺がそういう誘いを掛けられた場合、困惑しうろたえた反応を返すと予測した上で電話をし、実際に俺の反応を見て楽しんでいるのだと考えられる」
 説明しているうちにさらなる苛立ちが募ったのか、ドイツは自ら髪のセットを乱さん勢いで前頭部を掻いた。フランスは、癇癪を起こした子供を見ているような気分になり、内心くすりと笑った。
「あー……はいはい、そういうことことね。要するにおまえはそれを逆手にとって、テレフォンセックスに乗り気な姿勢を見せることで、あいつをびびらせてやりたいってわけね」
 ここまで来てようやく、フランスの中でドイツの話がつながった。柄にもなくテレフォンセックスの話題なんて持ち寄ってきてどうしたことかと思っていたら、こんな事情だったとは。プロイセンが原因であることは驚くようなことではなかったが(よくも悪くもドイツをもっとも揺さぶることができるのは彼なのだから)、彼のおかしな嫌がらせに対しドイツが反抗心もとい対抗意識をもつことは少しばかり意外だった。こいつらもなんだかんだで男兄弟ってわけか、とフランスがひとり納得していると、ドイツが拳を握り締め真摯に訴えてくる。
「度重なる嫌がらせ電話でいい加減俺も疲れているし、腹も立っている。このあたりで一杯食わせてやらねば、兄貴はますます増長するだろう」
 上の兄弟に喧嘩で負けた下の子の話を聞く親のような生温かい気持ちで、フランスは呆れの混じる笑みをこぼした。
「確かにおまえの推論は一理あるな。プロイセンのことだ、おまえがそういうことに応じるわけがないって高をくくってるんだろうな。なるほどねぇ、そーいう心積もりでいる野郎の斜め上を行ってやるってのも一興か……」
「子供じみていると思われるだろうが、正直に本音をさらけ出せば――兄貴にからかわれてばかりなのが悔しいんだ」
 完全に兄弟喧嘩だ。いや、喧嘩というには互いのベクトルがあまりに別方向に突き進んでいるような気がするが。
「そういう負けん気も、あいつにとっちゃかわいいんだろうな……」
 本人も認めるとおりの子供っぽい対抗心を燃やすドイツを、フランスは目を細めて見つめた。あのドイツのこんな姿を目の当たりにできたのはある意味でラッキーだったかもしれない、と考えながら。
「くそ、好き放題やりやがって。もう心配なんかしてやらん」
「それは無理だろ、おまえが」
 フランスは、ひとりで勝手に拗ねているドイツの肩をぽんぽんと叩くと、気を取り直すようにわずかに声音を変えてから話題を戻した。
「ま、そういう話ならおもしろそうだし、協力してやってもいいぜ」
 すると、ドイツはぱっと顔を上げてちょっぴり目を輝かせた。
「それは助かる」
 が、礼の言葉を受け取る前に、フランスはドイツの前に右手を差し出した。
「謝礼は実践時のテープ録音でいいから」
 ちゃっかりそんな要求をするフランスに、ドイツは露骨に眉をひそめた。
「……盗聴しろと?」
「いいじゃん、どうせ向こうはすでにやってることなんだし」
「いやしかし、それは下手をすると法に引っかかるのだが……」
 問題にするポイントが若干ずれているように感じたが、返答しているのがドイツだということを考慮すれば、この上なく正しい反応かもしれない。フランスは口元をにやつかせつつ、ドイツの首に片腕を回し、ししし、と品のない笑い声を立てた。
「おまえほんとにお堅いなあ。まあいいけど。おまえが嫌だってんなら、俺は俺で勝手に拝聴させてもらうとするから」
「何をするつもりなんだ……」
「ん〜? まあ俺らの関係を悪くするような真似はしないから安心しとけ」
 と、そこでフランスは、ふいに眉間に小さな皺を刻んだ。急に問題点が思い当たったというように。
「ううむ……しっかし、おまえにできるかなあ……」
「難しいのか?」
 フランスの腕に絡まれたまま、ドイツはかすかに不安そうに尋ねた。
「そうだなあ、手先の技術はひとり遊びレベルがあれば大丈夫だとは思うが、盛り上げ方とか指示とかタイミングとかな……おまえ、このテの空気読めそうにないし」
 教えるのはやぶさかではないが、そもそもこの図体のでかい生徒にその才能があるのかどうか。フランスはにわかに心配になってきた。なにしろ相手は堅物の名を世界に轟かせているドイツである。
 横髪を指先でくりくりとねじりながら思考の沈黙に陥ったフランスを、ドイツはうかがうように横目で見つめた。自分が思っているよりも難易度の高い技術なのだろうか、と懸念しつつ。
 しばし考え込んでいたフランスだったが、やがて顔を上げると、唐突に楽観的な表情でドイツのほうを振り向いた。
「ま、ごちゃごちゃ悩んでてもはじまらないか。頭で考えてる暇があったらその時間をトレーニングに回したほうがいいだろうし。よし、んじゃさっそく今夜教えてやるよ――実践で」
 最後の部分は相手の耳元に唇を思い切り接近させて、熱っぽく言ってやった。が、朴念仁のドイツにそれが通用するはずもなく、彼は不思議そうにきょとんとするばかりだった。
「ここでは無理なのか?」
 その質問に、フランスは一瞬言葉を失った。無知とはなんと恐ろしいものかと実感しつつ。
「おま……ここで教わるつもりだったのか?……大胆だな」
「いや、大体の方法を聞けば、あとはなんとかなるかと……」
 フランスは手の平をぱたぱたと振って否定した。
「ならんならん。マニュアル読んで理解できなかったやつが、聞いただけでできるようになるわけないだろう。絶対実地訓練受けないと、にっちもさっちもいかんと思うぞ」
「そ、そうなのか……テレフォンセックスとは奥深いんだな」
 眉間を寄せて目を伏せながら呟くドイツの様子は、発言の内容さえ聞こえなければ、ひとつの悟りにたどり着いた哲学者のように見えたかもしれない。会話の当事者であったフランスさえ、自分たちがなにやら高尚な話を交わしていたかのような錯覚を感じたほどだった。
 テレフォンセックスでここまで真面目になれるやつも希少に違いない。さすがはドイツ。フランスは呆れ半分、納得半分の心境で深々とため息をついた。
「じゃ、とりあえず俺から電話掛けるから、今夜は出かけるなよ」
「時間は?」
 ほとんど反射的にそう問い返してくるドイツに、フランスはちっちっち、と人差し指を振った。
「んなもん事前に決めてどうすんだ。先に決めちまったら、おまえ電話の前で背筋正して待ち構えてるだろ。そんな不自然なはじまり方じゃ練習にならねえぞ」
「ふ、ふむ、そういうものなのか?」
 と、ドイツはおもむろにスーツの胸ポケットをまさぐると、メモ帳とボールペンを取り出して、いましがたフランスに指摘されたことを几帳面な文字で記録しはじめた。
「なに熱心にメモってんだよ……学習意欲が旺盛なのはいいことだが、なんかこう、ずれまくってるよなあ……」
 便器の上で大きな体を丸めて真剣にメモを取るドイツを見つめながら、フランスはなんともいえない幸先不安な気持ちに襲われた。


真剣すぎるトレーニング

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