ひとの香
実際の気温以上に暑苦しく感じる狭い空間の内側で、プロイセンはいよいよ焦燥のにじむ声で非難がましく言った。
「くそっ、やつが帰って来たらどうすんだ、早く抜け!」
密室の暗闇に滞在すると時間の感覚が鈍るのか、どのくらいこの狭苦しいクローゼットの中で過ごしているのか定かではない。が、少なくとも一般のヒトが一生の間にクローゼットに立てこもる時間の総計よりも長いだろう。かくれんぼ中に友達に見失われそのまま放置されたとか、昼寝していたらうっかり空き巣と居合わせてしまったとか、そういったちょっと特殊なケースは除くとして。
苛つきに任せて身じろぐプロイセンだったが、空間的にも体勢的にも制限が大きく、相手から離れることは困難だった。一方のフランスは、まあそう焦るな、と呑気に構えている。
「大丈夫だって。あいつエコ指向だから徒歩で出かけたんだ。このへん近くに店ないみたいだし、多少時間掛かるって。それよりどーよ、このシチュエーション?」
「はあ?」
と、プロイセンは顎のあたりに触覚を感じた。フランスの指がおとがいを少しばかり持ち上げてくるのを嫌がるように、彼は頭を振って逃れた。フランスはあっさり手を引くと、ふふ、と意味深長な笑いを暗闇の中で響かせた。
「おまえと俺でこんなことやってんのが、なんとドイツの私室。こんだけでもかなりヤベェ感じだけど、その上クローゼットの中。ってことは、あいつの服が掛かってるわけじゃん? 本人いなくても、においで存在感じて興奮するんじゃないかと」
「なんだその理由は!」
しれっと説明するフランス。そのとんでもない理屈にプロイセンは絶句した。そんなくだらない算段のためにいまの状況が発生したというのか。冗談じゃない。彼は身動きの取りづらい体勢を無視して強引にフランスに掴みかかろうとした。が、そのとき頭に何か柔らかいものが当たった。上からハンガーで吊るされている、ドイツの衣類だ。それはプロイセンに、先刻のフランスの言葉を生々しく意識させた。
「ばっ……!」
馬鹿野郎!
プロイセンはなかば八つ当たりめいて胸中で叫んだ。顔が火照るのは、密閉された狭い空間のせいだと思いたい。がフランスは、真っ暗だろうがお見通しとばかりに、揶揄の笑みをにじませながら、
「お、いまになって意識しちゃったか、この野郎? ちょっとはムラムラしてきた?」
膝を曲げる角度を調節し、わずかに姿勢を変化させた。プロイセンは喉から声が漏れそうになるのを堪えつつ、詮無いと知りながら相手をにらんだ。
「うっ……ぁあ……んっ! あ、あほか! 俺にそんなキワな趣味はねえ! だいたい俺があいつをどうこう思うわけねえだろ! 見くびんな!」
抗弁するプロイセンだったが、フランスは解せない声とともに指摘した。
「えー? でもおまえさっき、ドイツの枕に顔埋めてご満悦って感じだったじゃん? 寝具ってにおいつくもんなー」
「ひとを変態みたいに言うな! においなんて嗅いでねぇぇぇ!」
声を荒げるプロイセンとは対照的に、フランスはどこまでも冷静な調子で返した。
「ああ、なるほど。つまり無意識に包まれていたかった、と。おまえ意外にかわいいとこあるよな」
故意が透けて見えるフランスの曲解に、プロイセンの怒りのゲージは簡単に上限に到達した。
「違うわボケ! ってかてめえさっきからにおいがどうとか著しい妄想かましてるけどよ、ここ防虫剤のにおいしかしねえだろが! これ俺んちの防虫剤と一緒だし! パラジクロロベンゼンに興奮してたまるか!」
「そう? このおろしたての洋服のにおいがたまらん!……ってやつもいると思うけどなあ。なんかカッチリしてる感じがしてよくねえ?」
と、フランスはおもむろに右腕を上方に伸ばすと、手に当たった衣類の端を掴んだ。生地の感触と厚さ、形状からして、秋または春ようのロングコートだろう。色は不明だが、ドイツの所有物だとすれば、黒か茶色あたりの地味で無難なカラーだろう。彼は袖と思しきパーツを摘まむと、自分の鼻に押し付けてくんくんと露骨に吸気の音を立てながらそのにおいを嗅いだ。
「あー……意識して嗅ぐと微妙に持ち主のにおい残ってるかも……?」
「嗅ぐな――――! 気持ち悪い!」
プロイセンの背筋にぞわりとした悪寒が駆け上がった。
見えずとも、発言およびスンスンという鼻を鳴らす音を聞いていれば、眼前の男がどんな気味の悪い行動をしているのかは想像に難くない。
プロイセンは勘頼りに腕を伸ばすと、フランスの手からドイツのコートの袖を引っ剥がした。やつに内緒でもういっぺんクリーニングに出しておこう。このコートが入用になる季節が来る前に。プロイセンはそう心に決めた。
フランスは驚いたふうでもなく、もう一度わざとらしく鼻を鳴らした。
「でもさあ、きょうびこんなにおいのきつい防虫剤使ってるなんて、結局おまえもあいつもこーいうかっちりしたのが好きってことなんじゃね? んー、確かにまあ、悪いにおいじゃねえよな」
懲りずにまたしても上から吊るされるコートやらスーツやらを漁ってにおいを確かめるフランス。プロイセンはますます肩を怒らせた。猫だったら総毛立っていることだろう。
「だから、嗅ぐな! このメーカーがいちばん効果的で経済的ってだけだ! 別ににおいで選んでるわけじゃねぇぇぇぇ!」
「う〜ん……あんま嗅いでると酔いそうだな、ベンゼンって。慣れたせいか、におい自体はそんな気にならねえけど、微妙に気分が……」
「くそー、防虫剤に鼻やられた気分だぜ。空気悪ぃし」
めいめい文句をぼやくが、内容はほぼ同じだった。この空間にこれ以上滞在するのはきつい、という点で、両者の意見は一致した。
「あ、じゃあいまさらだけどベッドに移動する? それならあいつのにおいばっちりついてるだろ」
移動を提案しつつも、フランスはなおもにおいにこだわった。
「どうよ、興奮できそうじゃね? ムスコくんのほうも」
含みをもたせてそういうと、フランスは太股を少しだけ浮かせてプロイセンの脚の間を押した。
「んぁ……」
ドイツのベッドでフランスと一戦交えました?……下手をしたら縁を切られかねない。たとえばれなくても、ドイツが何も知らないままそのベッドを使い続けることになるかと思うと、居たたまれないにもほどがある。
奥歯を噛み締めつつ、プロイセンは断固拒否を示した。
「ぜっ……ぜってぇ嫌だ!」
「あ、やっぱ嫌なんだ。俺が来たときはドイツのベッドで幸せそうにごろごろしてたくせに。清くてかわいいねえ」
「てめ、何を――あ!……あっ……う、ぁあ! ちょ、い、痛ぇぞごらぁ!」
「い、ちょ、やめて痛いって俺も! 落ち着け、言ってみただけだから! ほんとにやつのベッドでやろうなんて考えてねえって! ほんとまじで! だから落ち着けプロイセン!」
慌てたプロイセンががむしゃらにもがいたために、より一層もつれ合う羽目になってしまった。お互いに苦しさで息が上がる。
「あー、やっぱここじゃ狭すぎてこれ以上動きようがねえや。仕方ない、出るか」
にっちもさっちもいかない状況に焦れたフランスが、どん、と扉に手の平を当てた。
「出るって……このままで!?」
「だってどうにもなんねえし。さっきもがんばったけど抜けなかったじゃん? もうちょっと身動き取れる状態にならないといつまでも合体したまんまだぞ。それにそろそろドイツ帰ってくるかもしれねえ。おまえはともかく、俺が客室にいなかったら怪しまれる。見つかったらどう弁明する気だ?」
脱出の必要性をつらつらと説明するフランスに、プロイセンが一瞬詰まったあと八つ当たり気味に叫ぶ。
「う……こ、この元凶が! だいたいてめえがおかしなことしなけりゃ、こんな面倒なことには――」
「いやあ、シチュエーション変えればおまえもちっとは反応するかな〜、なんて思ってさあ。でも、結局これも駄目かあ……」
次回はどうするかな。毎度結果が出ないことにもめげず、フランスは早くも次回案を考えるつもりらしい。プロイセンは呆れて物も言えなかった。呆れながらも、もうやめようとは言わない自分も相当馬鹿だと思うが。いったい俺はこいつに何を期待しているのか――深く考えるのは癪だったので、プロイセンはため息とともに頭を左右に振った。
「どうした、ため息なんかついて? 元気ないのは下のオコサマだけじゃないってか?」
「痛っ! てめ、突付くのはやめろっつってるだろ!」
「あはは、ごめんごめん」
指で弾かれた大事なところを手で庇いつつ、プロイセンが歯を剥き出す。フランスは適当にあしらうと、反撃を食らう前に別のことに注意を逸らした。
「ま、ともかくまずは出ようぜ。それが先決だ……って、あれ? 開かねえ……? あ、そうか、家具って内側から扉開けるの想定してつくられてないのか」
クローゼットの内部から扉を押すが、ぎぎ、と軋む音が立つだけで、開く気配がない。構造上、中から加えられる力で扉が開くようにはできていないので、外からのように簡単には開けられない。
「ちょ、どうすんだよ! このままあいつがここ開けるの待つのか!? 嫌だぞ俺は!」
さらに焦りに火がついたプロイセンが大声で叫ぶ。フランスは無精ひげの伸びた自分の顎をさすった。
「そーだなあ。これはさすがに言い訳のしようがないもんな。仕方ない、ここはひとつ、力技でいくか」
「こじ開ける気か」
「うん、がんばって」
「俺がやるのかよ!」
「だっておまえのがパワフルだし」
「ちっ……この軟弱者が」
罵りつつも、プロイセンは左腕を扉に当てて突っ張ると、
「感触からするとこっちが重ねの外側か。磁石製だし、強く押せば開きそうだな。よっ――」
勢いをつけ、手の平で扉の片側を押した。というより、殴った。
「おい、おまえの力で思い切り叩いたら――ってうわぁ!?」
「うぉ!?」
内側からは堅い扉ではあったが、一定以上の力が加わると、途端にあっさりと外に向かって開け放たれた。
ふたりは文字通りくっついたまま、もつれ合うようにしてクローゼットから転がり出た。転倒とそれに伴う体勢の崩れから、体の中心に衝撃が走った。
「っつ〜!」
「ああぁぁっ……!」
短い悲鳴とともに無様に床に転がるふたり。何もかも放り出して。
「お、おい、大丈夫か?」
一足先に体を起こしたのはフランスだった。
「う、はあ、はあ、はあ……」
転倒の衝撃が余程強かったのか、プロイセンは苦しげに眉根を寄せて浅い呼吸を繰り返している。ずいぶんつらそうだ。クローゼットの暗闇の中ではわからなかったが、もしかしたら彼はずっとこんな表情をしていたのだろうか。
だとしたら惜しいことをしたもんだ。見とけばよかった。せっかくのいい顔なのに。
悪びれるよりも先にそんな感想を浮かべたフランスだった。
が、相手に悟られたら今度こそひどい目に遭わされそうなので、早々に姿勢を正すことにした――と、そこではじめて、体に自由が戻っていることに気づく。お互いの大事なところに視線をやると、
「おお! よかった! 転んだ拍子に抜けたぜ」
ようやくつながりが解けていた。プロイセンも数秒遅れてそれに気がつくと、
「こ、このくそ野郎……」
忌々しさ満点の苦しげなうめきとともに、肘を床について上半身を起こした。改めて彼の顔を見たフランスはぎょっとした。
「わ、おまえ顔真っ赤だぞ、大丈夫か? 酸欠?」
「てめーもめちゃ赤いぞ」
「うん、息苦しかったもんなあ、こん中」
お互い紅潮した顔をつき合わせながら、先ほどまで閉じこもっていたクローゼットを振り返る。
「は〜〜〜……なんか無意味に疲れた……」
げっそりと呟くプロイセン。まだ開けっ放しのクローゼットの扉の縁を掴むと、それを支えに立ち上がろうとしたが、脚に力が入らないらしく、その場にくずおれて座り込んでしまった。
「おい、大丈夫か? 立てないのか?」
着衣を整えながらフランスが尋ねてくる。プロイセンは仏頂面全開で答えた。
「足が痺れてんだよ」
「色気のない感想だなあ」
おまえにそんなもんは期待してないけど、と付け加えながら、フランスが苦笑した。プロイセンは床に胡坐をかくと、ハンガーからずり落ちた衣類が無造作に散らかるクローゼットの内部を見やった。
「くそ、クローゼットがぐちゃぐちゃだ。バレたらあいつ怒るぞ……拗ねて夕飯食わなかったらどうすんだよ。今日俺がつくる番なのに」
ぼやきつつ、プロイセンは動ける範囲で体を反転させ、ハンガーを拾い、皺の着いたコート類を掛け直した。
「夕飯つくってもらえなかったらどうしよう〜、じゃなくて、食べてもらえなかったらどうしよう〜、なあたりがいろいろ物語っている気がしないでもないな。いまの、女の子の台詞だったらかわいいのにな……」
呟くフランスには気づかないまま、プロイセンは現状の悲惨さに顔を曇らせた。
「あー、もう、なんかいろいろ臭いことになってんぞ。どーすんだこの部屋……」
「それよりおまえ、服着ろよ。下丸出しじゃん」
「うぉ!? 長いこと脱ぎっぱだったから忘れてた……」
フランスに指摘されたプロイセンは、クローゼットから自分が履いていたズボンと下着を回収すると、あたふたと身につけはじめた。フランスが生温かい目で見てくるのが腹立たしい。
「こんくらいなら換気すりゃよっぽどにおい抜けそうだな」
フランスは楽観的にそう言うと、換気扇のスイッチを探して部屋をきょろきょり見回した。プロイセンは、スイッチなら右奥だ、と指示しながら、なんとか痺れの抜けてきた脚で立ち上がった。皺のついたドイツのコートをしきりに嗅ぎながら。
「ううむ……まあいい。言い訳と工作は俺がなんとかする。おまえはとっとと客室に戻れ。しばらくの間、あいつがこっちに来ないように気をつけてろ」
「りょーかい。あー、髪とかぐっしゃぐしゃ。せっかくおめかししてきたのに〜」
ため息をつくが早いか、フランスはどこからともなく香水の瓶を取り出した。クローゼットを整理するプロイセンが、呆れたまなざしを向ける。
「おまえ、夜会でもねえのにコロンなんぞ持ち歩いてんのかよ」
「フランス人のたしなみですぅ。別に勘繰らなくても、おまえの大事なドイツにフェロモン振りまこうなんて算段じゃありません〜」
鼻につく口調でそう言いながら髪の毛を整えると、フランスは部屋を出て階段を降りていった。
「さて、この惨状をどうごまかすか……」
収納された衣類の配列は完璧に把握しているので元通りに整頓することは可能だが、汚れたり折れたり皺がついたりと、服そのものへの被害はどうにもならない。ひとりかくれんぼしていたとでも言って遠回しにクローゼット荒らしを白状するのが吉だろうか。ひとりかくれんぼがいかなる遊びなのか皆目見当がつかないが。
考えろ、俺。抜け道はあるはずだ。
ハンガーを片手に、プロイセンはいつになく真剣かつ深刻に悩み出した。ついでに今夜の夕飯のメニューと、それをドイツに食べさせる方法についても。
→イヌの習性と飼い主
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