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前回からの続きですが、仏は登場しません。実質普と独の話なのですが、続き物なので仏普の項目に置かせていただきました。ご了承ください。





イヌの習性と飼い主



 ドイツが自室に入ると、中はしんと静まり返っていた。プロイセンの滞在を了解していながら数時間放置しておいたので、機嫌を損ねた彼に枕を投げつけられるくらいのことは想定し、用心しながらドアを開けたドイツにとっては拍子抜けだった。もしかして、退屈を持て余したか痺れを切らしたかで、すでに帰ったのだろうか。玄関を通過した気配はなかったが、彼が窓から出入りするのは別に驚くようなことではないし。
 しかし、そんな考えも一瞬のことだった。すぐにドイツは、壁際のデスクに突っ伏しているプロイセンの姿を見つけた。居眠りをしているのだろうか。特に足音も気配も消さずに近づくが、反応がない。机に上半身を伏せているプロイセンは、ドイツが最近購入したマニュアル本やハウツー本を何冊か積んで腕の中に抱え込み、枕代わりにしていた。
「まったく……」
 ドイツは呆れたため息をついた。といっても、本のカバーがよだれで汚されたことに対してではなく、こんなところで眠りこけていることに対して。ベッドがあるのになぜわざわざ机で寝るのだろうか。この様子だと、読書や勉強の途中にうっかり居眠りをしたわけではなく、最初から寝るつもりで本を程よい高さに積んだに違いない。
 彼の行動に不可解さを覚えながらも、ドイツは箪笥の下段を引いてハーフサイズのブランケットを取り出し、彼の肩に掛けてやった。と、ふいに不安が胸をよぎり、少しだけあらわになっている彼の頬に手の甲を触れさせた。体温は正常だった。ここ十数年、ちょくちょく熱発を起こすのが癖になっているきらいがあるので、今回もそれだろうかと懸念したのだが、杞憂に終わった。ドイツは彼の頬に手を当てたままほっと一息ついた。と、そのとき。
「う……ん?」
 プロイセンの喉から間の抜けた声が漏れた。ぎゅっと目をきつく瞑っては緩める、という仕種を何度か繰り返しあと、彼は半分ほど持ち上げたまぶたの下から瞳を覗かせた。首を上向かせ、寝ぼけまなこのままきょろきょろとあたりを見回す。上体が動いたためにブランケットの片端がずり落ちかけた。
「起こしたか。すまない」
 ドイツはブランケットを掛け直してやりながら、寝起きのプロイセンに話しかけた。
「あ……いけね、寝てた」
 本の角の跡を片側の頬に残したプロイセンが、あくびとともに体を起こした。インドア派を決め込んだ休日としてはあり得ないほどの疲労が溜まっているのは、きっとあの隣人のせいだ。くそ、あの野郎、まじで覚えてろよ。胸中で悪態をつきつつ、取り澄ました調子で彼は尋ねた。
「フランスの野郎は? 来てたんだろ?」
 聞かずともわかりきったことだが、彼らの事情を知らないドイツの前ではそ知らぬ態度を取るプロイセン。ドイツはこくりと首を縦に振った。
「ああ。もう帰ったがな。ワインを寄越してきたが、いるか?」
「ワインだぁ? あいつがおまえに?……あー、そういやあの野郎そんなこと言って――あ! いや、うん、別になんでも……」
 ドイツの発言に、問われてもいないのにうっかり白状しそうになったプロイセンは慌てて言葉を濁した。ドイツは怪訝に眉をしかめた。
「なんだ?」
「い、いや、別に。んじゃ、調理用に一本もらってくわ。ってかおまえさあ、最近あいつんとこのワイン好んでるみてえじゃん? 嗜好にケチつけるほど野暮じゃねえが、フランスに餌付けられるんじゃねえぞ? 胃袋握られたらおしまいだぞ、いろいろと」
 内心の動揺が早口となって現れながらも、プロイセンは釘を刺しておくのを忘れなかった。ああ、またいつもの小言か、とドイツは適当に聞き流した。が、ぼやくプロイセンのトーンが普段に比べると幾分マイルドというか、元気がないように感じられ、ドイツは首を傾げた。
「どうした、なんだか疲れているようだが」
「そうか? 別に、普通に元気だぜ?」
 プロイセンはごく自然な調子で答えたが、ドイツはまだ心配らしく、彼の額に手を当てた。プロイセンは苦笑したものの、払いのけようとはせず、くすぐったそうに目を閉じるだけだった。
 十秒ほどそうしたあと、大丈夫そうだと判断したドイツだったが、眉間に小さな皺を寄せると、
「まあ元気だというならいいが……寝るならベッドを使えばよかったのに。あるんだから」
 一層疲れそうな姿勢で寝る必要はないだろう、と呆れながら指摘した。
「おまえ勝手に使うなっていつも怒るじゃん」
「いつも俺の言うことなど聞かずに勝手に潜り込んでくるやつが何を言う。いまさら遠慮されると逆に気持ち悪いんだが」
「どういうことだよそれ」
 一種の諦めをにじませるドイツに、プロイセンはむうと頬を膨らませた。そういう大人な対応はかわいげがないぞ。理不尽な言い分とともに、彼はドイツのシャツの胸元をひっぱり、自分のほうへ顔を近づけさせた。そして、眉間の皺を指先で突付く。
「おい、何をする」
 ドイツは嫌そうに首を引いた。が、しつこく追いかけるプロイセン。
「そのむっつり仏頂面、かわいくねえんだよ」
「かわいくなくてけっこうだ」
「それじゃ俺が嫌だ」
「意味がわからん」
 プロイセンの手と攻防を繰り広げながらドイツは前後左右に首を動かした。触られるのが嫌なわけではないが、油断していると鼻や頬をつねられたり、デコピンを食らわされたりするので、気が抜けない。
 と、プロイセンの指先が鼻の下あたりをかすめかけたとき、ドイツはふいに気づいた。
「む……? おまえ、何かにおうぞ」
「へ?」
 ドイツは、疑問符を浮かべるプロイセンの手を自分から掴むと、小さく鼻を鳴らしながらにおいを嗅いだ。異臭や悪臭とは違う。あえて分類するなら刺激臭だろうか。しかし、ひとによっては好むこともあるかもしれない。そんな種類のにおいだった。
 どこかで嗅いだ覚えがある。
 疑問と好奇心のままに、ドイツはプロイセンの手から腕、そして肩へ向かって頭を移動させながらにおいを嗅いでいった。
「ちょ、おま……犬かよ。行動がおまえのペットたちとまったく一緒だぞ。飼い主のほうが犬に似てどうすんだよ」
 においを追って、どんどん顔を近づけてくるドイツ。しまいにはプロイセンの肩口に鼻をこすりつけるような格好になったが、本人は集中しすぎていてその状況の異様さにはまったく気がついていないようだった。
 本当に大型犬に懐かれている気分だ。そういえば、昨日ここへ来たときも、確かこいつの犬たちから容赦ないクンクン攻撃を食らったっけ。まあ、飼い主がこれじゃしょうがないわな。当人(あるいは当犬)は大真面目なんだし。
 真剣に嗅覚を働かせるドイツを見下ろしながら、プロイセンは苦笑した。減るもんじゃねえし別にいいか、と思っていると、おもむろにドイツが顔を上げた。そして、訝しげに呟く。
「このにおいは……防虫剤か?」
 ドイツの疑問に、プロイセンはぎくりとした。
 いけない、忘れてた!
 プロイセンはさっと青ざめた。そして、フランスがわざわざコロンをつけ直していた理由をようやく理解した。そうか、防虫剤臭さをマスキングするためだったのか……!
 プロイセンとてクローゼットを片付ける際、防虫剤およびその他もろもろのにおいやらなんやらには気を遣ってきっちり後始末をし、十分な換気をしたのだが……自分の体と衣服に染み付いたにおいについてはそれはもうきれいに失念していた。
 ――やばい……。
 内心焦りながらも、プロイセンはできるだけ声が上擦らないよう注意して答えた。
「え? そ、そうか? 別になんもにおわねえと思うけど……」
 と、自らも二の腕を嗅いでみせる。大分嗅覚が麻痺しているので自分ではあまり気にならないが、吸気とともによくよく嗅いでみると、確かにベンゼンの芳香がした。が、即座にドイツに同意するわけにもいかず。
「んー? そんなにおうか? 気のせいじゃね?」
「いや、A社が昔から出している防虫剤に違いない。十年来使ってるからわかる。……さてはおまえ」
 断言とともに、ドイツは意味深長に声を低くすると、瞳に鋭い光を宿した。プロイセンはどぎまぎしつつ、横柄に返す。
「な、なんだよ」
「クローゼットを荒らしたんじゃないか?」
 大正解。
 推理と言うよりは動物的行動により正解に辿り着くとは。
 工作の甲斐もなく、凡ミスでフランスとの悪さ(まさに悪さ以外の何ものでもないだろう)が発覚しそうになったプロイセンは、次の言葉を探して唇をぱくつかせた。


手洗いはきちんとしましょう

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