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朝の挨拶


 日帰り旅行もできないような手提げ鞄をひとつ引っ提げたプロイセンがドイツの家に転がり込んでから一晩が過ぎた。
 再び相手と触れ合うことのできた歓喜は、同時に離れることへの不安と恐れをもたらし、結局昨日は眠りにつくまでのほとんどの時間を引っ付いて過ごした。いや、厳密に言うと寝た覚えはない。ただ、意識の浮上を味わった以上、それ以前は睡眠中だったということになるだろう。
 どうも、知らないうちに一夜明けていたらしい。目を覚ますと、ふたりして床に転がっていることに気づいた。仰向けの状態で首だけを左右に動かしてあたりを見回す。周辺には何本かの空っぽの酒瓶。会議後の振り替え休暇をいいことに、平日だというのに飲みてしまったようだ。さらに眼球を動かすと、頭のすぐ右にはつながれた手。関節が妙に膨れたバランスの悪い細い指が、自分の手を軽く握っている。
 ドイツがその状況にぽかんとしていると、ううん、という小さなうめき声とともに、床で横向きに転がっているプロイセンが目を閉じたまま眉をしかめた。開けようか閉じていようか迷うように、まつげが細かく震える。
「ん……」
 きゅ、と力を込めて目を瞑ったあと、ゆっくりとまぶたが持ち上げられる。覗いた瞳はまだ焦点が合っていない。目をこすろうとして空いているほうの手を持ち上げると、それに連動してか、つないでいる手にも力が入る。彼の指が自分の指を少し強く握ってくる。ドイツは一瞬だけそちらに目をくれたが、すぐに視線を彼のほうへ戻した。と、寝起きのぼんやりした顔と出会った。彼よりは幾分頭がクリアになっているドイツは無性に気恥ずかしさに襲われ、どぎまぎとまばたきをした。
 プロイセンはドイツの顔をとらえると、そのまま目線の動きを止めた。半分覚醒半分睡眠といった様子だ。きっと視界はピンボケだろう。
 数秒すると、夢の心地よい波にさらわれたのか、とろんとまぶたが下がりそうになる。ドイツは彼が目を閉じてしまう前に思わず声を掛けた。出てきた言葉は、
「おはよう」
 朝の挨拶だった。酒で焼けた喉から発せられた声は、少し枯れてかすれていた。
 プロイセンの落ちかけたまぶたがぴたりと止まり、再度のろのろと持ち上げられる。半分ほど開いた寝惚けまなこで、彼はやはりかすれた声で応じてきた。
「うん……? おう……おは、よ……?」
 状況がわからないまま、それでも挨拶だけは返してくる。多分に疑問調であったが。
「ああ、おはよう」
 ドイツはもう一度、先ほどよりいくらかしっかりした声音で挨拶した。その声でようやくドイツがそばにいることに気づいたらしく、プロイセンが目をぱちくりさせた。
「あれ、おまえ、なんでこんなとこに……?」
 まだ事態が把握できていないらしく、彼は不思議そうにドイツを見つめた。
 ここは俺の家だ。ドイツがそう言おうと口を開きかけたとき、プロイセンが手を床について緩慢に上半身を起こした。少しばかり動きが不自然なのは、いまだに手をつないだままだからだろう。彼は自分がドイツの手を掴んでいるという認識がないらしく、見事なくらい自分の左手を無視していた。ドイツは彼に手を引っ張られるまま、自分も体を起こした。
 起き上がって床にちょこんと座り込むと、プロイセンはまじまじとドイツの顔を凝視した。
「……ヴェスト?」
「ああ」
 腑に落ちない面持ちで尋ねてくるプロイセンに、ドイツはこくりとうなずいた。目を開けているだけで、これはまだ半分以上寝ているな、と推測しつつ。
 プロイセンは右腕を持ち上げると、ドイツの頬に手の平を当て、無遠慮にぺたぺたと触った。ほんの少し伸びた髭の感触。プロイセンは一旦手を離すとぼうっとしたまなざしで自分の手の平を見下ろし、再び腕を伸ばした。そして――
「痛っ!」
 ドイツの頬を思い切りつねった。予告もなく頬を掴まれ引っ張られたドイツは短い悲鳴を上げた。しかし口を開くプロイセンの動きは相変わらず鈍い。
「本物……?」
「無論」
「……や、痛くなかったよな。ってことは……夢?」
 プロイセンは不可解そうに眉根を寄せて、いましがたドイツの頬を摘んだばかりの自身の指先を眺めた。
「いや、つねられたのは俺だから。痛いのも俺だ」
「なんだ夢か。……ならいいよな」
「何がだ?」
「ん〜」
 ドイツの言葉はプロイセンの耳には入っていないらしい。いや、音としては入ってはいるだろうが、脳が言語として処理し理解していないに違いない。プロイセンは床につけていた尻を少し持ち上げると、上体をふらりと前に倒した。このまま倒れてくるのではないかとドイツが身構えたそのとき。
「ヴェスト〜」
 間抜けに彼の名を呼びながら、プロイセンは本当に倒れ込んだ。
「お、おい?」
 ベッドに飛び込むような、けっこうな勢いで前傾してきたのでそれなりに衝撃はあったものの、ドイツは難なく彼を受け止めた。しかし彼の行動の意味がつかめず、きょとんとするばかりだ。
「会いたかったぞ〜」
 戸惑っているドイツをよそに、プロイセンは彼の背中に腕を回してぎゅっと抱き、肩に顎を乗せてしみじみと呟く。
「はあ……おまえほんとでかくなったよなあ。昔はあんなちまかったのによぉ。ああ、時の流れってのはほんと速いよな……」
 酔っ払いのおっさんじみた調子でドイツに絡むプロイセン。まだアルコールが抜けていないらしい。
「いつの時代の話をしている?」
「う〜ん……? いつだっけ? ああ、そうだ、おまえの小さい頃」
「答えになっていないぞ。あと、重いんだが。おまえ、酒で脱力してるだろ」
 自力で重心を保てないのか、はたまた保つ意志がないのか、先ほどからプロイセンの体はぐにゃぐにゃと不安定で、ドイツとしても支持しづらい体勢だった。プロイセンはドイツの肩甲骨の辺りの服を握ると、なにやらむにゃむにゃと口を動かしながら、目元を擦り付けてきた。
「いいじゃん冷たいこと言うなよー。どーせ夢なんだからさあ。夢の中でくらいおまえと会ってハグして何が悪いんだよ。うぅっ、もう何十年会ってないと……おまえ、夢でもあんま出てこねえし……そんなに俺に会いたくないのかよぉ」
「完全に寝惚けているようだな」
 アルコールの影響か、記憶が若干退行しているらしい。プロイセンにとっては、目の前のドイツはまだ夢の中でしか会えない存在のようだ。
「ん〜……ヴェストぉ……」
 プロイセンは鼻をドイツの肩口に埋めると、幸せそうに彼の名を呼び、体重を預けた。鼻をすり寄せ、いっそ不気味なくらいストレートに甘えてくる彼に、ドイツはしばし言葉を失った。
 夢であっても――本人がそう思いこんでいる以上、たとえ実際に触れ合っていたとしてもやはり夢でしかない――積年思い続けた相手に会って触れられるのは嬉しいらしい。その感情は、非常に素直に表情に表れていた。
 プロイセンの髪に頬をくすぐられたドイツは、呆れながら彼の前髪を掻き上げると、耳元でそっと呼び掛けた。
「夢見心地のところ悪いが、夢ではないぞ。現実だ。そろそろ目を覚ませ。眠りこけながらにやけられると正直気味が悪いんだ」
「やだ……まだいいだろ、行くなよ……」
 体を離そうとすると、プロイセンは嫌がってますますがっしりと絡み付いてきた。駄々をこねる声は、ちょっと泣きつくような、不安そうな色があった。少々申し訳ない気持ちになりつつも、ドイツは彼の肩を軽く叩いた。
「行かないから。ほら、起きろ。起きても悪い現実は待っていないと思うぞ」
「うん?」
 頬に手を添えて顔を上げさせると、薄目を開けたプロイセンがこちらをぼうっと見てきた。
「だから、夢ではないんだ。昨日やっと再会しただろう、俺たち」
「ふぇ……?」
 ぱちぱちと、まばたき。
 疑問符を浮かべながらドイツの顔を見上げてくる。数秒後、ようやく焦点が合った。
「え……」
 目の前いっぱいにドイツがいるという状況が理解できないらしく、プロイセンはぴしりと固まった。ドイツはというと、先に目覚めていたし、いまのいままで寝惚けて絡んでくる半酔っ払いの相手をしていたこともあり、すっかり落ち着いたものだった。
「改めて、おはよう」
 三度目のおはようを告げる唇の動きは、彼の額の間近だった。
「う、うあ!?」
 その一瞬で一気に覚醒したらしく、プロイセンは彼の背に回していた右腕を離すと、すざっと後ずさった。
「やっと起きたか」
「ゆ、夢じゃない!? いまの、夢じゃなかったのか……!?」
 じゃあ、俺、実物に向かってあんな甘えた態度取ってたのか!?
 プロイセンは、サーッと血の気が引いていくのを、他人事のように感じ取った。
「ああ。半分寝たまま俺と会話してたぞ。いまいち噛み合わなかったが。それにしても、なかなか盛大な寝惚け方だったな」
 ドイツの冷静な返答に、プロイセンは今度は顔に血が上ってくるのがわかった。蒼白だった顔が瞬時に紅潮する。
「わ、忘れろ! いまのは忘れろ!」
 起き抜けに大声を出して騒ぎ出すプロイセン。他人の目があるわけではないのだし、そんなに慌てることはないだろう、とドイツは苦笑しながら答えた。
「別に言いふらしたりしないが」
「そーいう問題じゃねえ! おまえの記憶に残ってることが気に食わん! きれいさっぱり忘れろ!」
「無茶な注文をつけるやつだ。……わかった、きれいさっぱり忘れるよう努力しよう」
 へそを曲げかけているプロイセンの横暴な命令に対し、ドイツは呆れながらも首を縦に振った。こういう場合、自分が一歩退いて対応してやるのがいちばんだ。
「おう、そうしろ」
 プロイセンも、何も本当に記憶を消したり改竄したりできると思っているわけではないだろうが、ドイツの受け答えに満足したらしく、横柄ながらも素直に彼の言葉を受け取った。こういうところは変わらないな、とドイツは懐かしさを感じるとともに、彼に対してそのような感情をもつことが複雑だった。懐かしい――そう感じるだけの空白の年月が、自分たちの間に横たわっているということだ。
 かつて一緒にいた相手。もう一緒にはいられない相手。それを求めてはいけない相手。
 ――あんなに当たり前みたいにそばにいたのに。
 彼はいままさに自分の目の前にいるのに、それでも、どうしようもない寂寥感が湧いてならなかった。


大人のおつかい

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