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大人のおつかい


 感傷的な思考に耽っていたドイツだったが、ふいに視線を感じて顔を上げた。正面では、プロイセンが怪訝な面持ちでこちらを覗き込んでいた。
「どうした?」
「いや……なんでも。それより――」
 ひとりあれこれ考え込んでいたことを悟られるのが気まずくて、ドイツは話題の転換を試みた。
「なんだよ」
「その、そろそろ離してもいいかと思うんだが……どうだろう」
「……あぁ?」
 主題を明示しないままドイツが提案すると、プロイセンは何を言ってるんだと眉をしかめる。ドイツは、自分から話を切り出したものの、どう伝えたらいいものかと悩みつつ、もごもごと言い訳っぽい前置きをした。
「昨日は互いに必死だったというか、不安だったのだと思うが……頭が冷えるとなんかもういろいろ恥ずかしくてな」
 遠回しなドイツの言葉に、プロイセンが少々短気を起こす。
「何がだよ。わけわかんねえよ、さっきから」
 言いたいことははっきり言え、とばかりに迫ってくる。ドイツは一瞬迷ったが、彼のそのような態度に応えることにした。
「ええと……これ」
「どれ?」
「手」
「手?」
 単語だけの短い会話ののち、ドイツは自分の右手を持ち上げた。同時に、プロイセンの左手も道連れで上げられる。というのも、彼らの手はいまだにつながれたままだったから。
 ふたりの体の間で、指の絡んだ手とそこから伸びる腕がぶらんとはしごになる。プロイセンは珍妙なものを見るような目で彼と自分の手を見つめた。そして、きっかり五秒後。
「……うわぁ! お、おまえ、なんで俺の手ぇ握ってんだよ!」
 大慌てで手を離した――つもりだったが、指が相手の指の股にしっかりと挟まっていたため、少しもたついた。思いのほかしっかりと握っていたようだ。
 よりにもよってこのつなぎ方はねえだろ、どこのカップルだ!?
 再び血の巡りが限局的に活発になる。主に頭部顔面の。
「お、おまえ、何考えてんだよ!」
 自分もちゃっかりドイツの手を握っていた――というより、どう考えても自分のほうががっしり握っていた――ことは棚にあげ、プロイセンはうろたえつつも全責任を彼に転嫁して叫んだ。
「いや、お互い様だと思うんだが。おまえのが気づくの遅かったし」
 確かにそのとおりなので、プロイセンは一瞬うっと詰まる。けれども素直に認めるのは悔しいし何より恥ずかしいので、怒りを隠れ蓑にして照れ隠しをする。
「お、俺は知らねえぞ!」
「まあ、これについては俺も覚えていないからおあいこだな。いったいいつの間につないだんだ……? 飲みすぎて記憶が飛ぶことなんてそうそうないのだがな……」
 ドイツがぶつぶつと独り言を言いながら分析をはじめたところで、プロイセンが茶化しを入れた。
「は……はんっ、おまえ、寂しかったんじゃねえの? ははは、寝るときに親戚のにーちゃんとおててつなぎたがるなんて、お子様だなー」
 はははは、と笑ってからかう。けれどもドイツは気を悪くするでもなく、むしろ全面的に同意せんばかりの勢いで首を縦に振ってきた。
「そうだな……きっとそうだったんだろう。いつもやかましいおまえがどこかへ行ってしまっていた半世紀は、自分で思っていたよりもずっと寂しかったようだ」
 揶揄を真顔で肯定され、プロイセンはますます頬を赤くした。
「ばっ、ばっ、ばっ……」
 馬鹿野郎、恥ずかしいんだよてめえ!
 ――と叫びたかったが、声にならない。
 しかも不覚にも、そんなふうに殊勝に認めてくる彼を――こんな筋骨たくましくて、自分よりでかくなった彼を――かわいいなどと感じてしまった自分がいることに気づき、プロイセンは頭を抱えたい気持ちでいっぱいになった。
「どうした?」
 怒りだか羞恥だかにぷるぷると肩を震わせているプロイセンにドイツが話し掛ける。この生真面目な男は、からかい返したわけでもなんでもなく、本気で答えたに違いない。それがわかってしまうから、余計に居たたまれない。罵ることもできない。
 もはや思考停止寸前にまで追い込まれたいっぱいいっぱいのプロイセンは、これ以上この件について触れたくなくて、唐突に相手に命じた。
「お、おまえ! ビ、ビビビ、ビール買って来い! 一ケースまとめて! いますぐ!」
 どもりながらも何とか言葉を紡ぐと、びしりとドイツの胸のあたりを指差した。続いて、人差し指をドアのほうに向ける。直ちに行け、と言わんばかりに。
 突然の横暴な言い草に、ドイツが片眉をしかめる。
「はあ? なんなんだいきなり?」
「ゆうべしこたま飲んだだろ。見ろよこの空き瓶の数。だから補充だ、補充。今夜も飲むぞ」
 プロイセンは自分たちの周りで散乱している空の酒瓶に目線をくれた。ざっと見回しただけでも、大学生の小パーティー後くらいの本数はある。ビールはほとんど飲み干されていたが、ブランデーやワインは適当なところで封がされ、まだ残っている。ふたりとも、第一の選択はもちろんビール、第二もやっぱりビール、第三もしつこくビール……というような飲み方だったので、消費に偏りが出るのも仕方のないことだった。
「これじゃビール足りないだろ。買って来い」
「朝っぱらから何を言うんだ」
 ドイツは両手を腰にあて、嗜めるように首を左右に振った。プロイセンはわざとらしく唇を尖らせて不機嫌を表した。
「いいだろ、けちー。久々のドイツビールなんだからよー。味わわせろよー」
 ぷーぷー文句を並べる彼にドイツが肩をすくめる。
「いや、午前中から飲んだくれるのはどうかと……」
「飲むのは夜だっつってるだろ」
「それなら昼から買いに行けばいいじゃないか」
 ドイツの言い分はもっともだった。もともと話題を逸らすために苦し紛れに言っただけだったので、プロイセンには彼を説得する材料が希薄だった。けれどもここで引き下がるのもおもしろくない。
「腹減ったんだ。何か食うもんほしいんだよ。おまえんち、イモかヴルストかわけのわからん健康食品しか備蓄されてねえじゃねえか」
 どさくさに紛れて追加注文をしてみる。空腹を感じているのは嘘ではないので、今度はどもることなく堂々と言った。すると、ドイツも空腹に意識がいったのか、片手で軽く上腹部を押した。
「そう言えば腹が減ってるような。……しかし、まだアルコールが抜けきっていないかもしれない。いま行くと飲酒運転になる可能性がある。危険だ」
「なら歩いて行けばいいことだ。おまえならビール瓶素手で運ぶくらい、どってことねえだろ」
 早く行け、とばかりにプロイセンは手の甲を扉に向けて振る。ドイツはやれやれと息を吐く。
「手伝う気はないのか」
「二日酔いなんだよ。そこまでガンガンしねえけど、さっきから頭が痛ぇんだ。う〜、駄目だ、立ったらふらつくかも……」
 演技にしては妙に自然な動作で、プロイセンはふらふらと再び床に転がった。肩と後頭部を完全に床面につけると、苦しげなうめきを上げながら、片腕で額を覆った。
「調子に乗って飲みすぎるからだ。言っておくが、迎え酒は駄目だからな」
 ドイツは彼のすぐ横に置かれたブランデーの瓶を手に取ると、ちゃぷんと鳴らした。残量のある酒瓶は回収しておいたほうがいいかもしれない。
「へいへい」
 プロイセンがぞんざいに答える。ドイツは簡単に床を片付けたあと、昨日取り込んだきり畳んでもいない洗濯物の籠から開襟シャツとチノパンツを引っ張り出して着替えた。プロイセンは片付けの手伝いもせず、二日酔いにうんうんうなっている。
「では、行ってくる」
「おー」
 ドアノブに手を掛けたところで一旦止まると、ドイツはまだ床でだらしなく寝ているプロイセンを一瞥した。
「ちゃんと待ってろよ」
「わかってるって。おまえこそ、どっかの坊ちゃんよろしく道に迷うんじゃねえぞ。とっとと買って、とっとと帰ってこい」
「ああ」
 ひらひらと適当に振られるプロイセンの手を見たあと、ドイツはノブを回して扉を開けた。と、そのとき。
「おい」
 プロイセンが呼び掛けてきた。
「なんだ」
 ドイツが振り返ると、プロイセンは少しだけ神妙な面持ちで念押しした。
「いいか、とっとと帰ってくるんだぞ」
「了解した」
 ドイツはふっと苦笑めいたため息をついた。そして、肩越しに忠告する。
「おまえこそ、勝手にどこかに行くなよ」
「どこに行くってんだよ」
「了解したか?」
「うるさいやつだな。はいはい、了解――っと」
 プロイセンがきちんと返事をすると、ドイツはこくんと軽くうなずき、今度こそ本当に出かけていった。
 主不在の家の中は、急にしんと静まり返ったように感じられた。
 プロイセンは四肢を床に放り出して仰向けになると、天井を見つめながら、目を覚ましてからのドイツとの一連のやりとりを思い出していた。いや、思い出そうとしているわけではないのだが、頭の中で勝手に近時の記憶が再生される。
「くそー……あの野郎、いつの間にあんな口が叩けるようになったんだ。……ってか、なんで照れてんだ俺は。ちくしょうが」
 目を閉じてもまぶたの裏側にドイツの顔がちらついてならない。
 プロイセンは手の平で顔を覆うと、もう一度ちくしょうと呟きながら横向きに体を丸めた。顔も指先もたいがい血が上っていたので、かえって熱さは感じなかった。


完璧主義者の平日

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