text


完璧主義者の平日


 世間は平日だというのに開店まもない時間に酒屋に行き、ビール一ケースとインスタント食品を購入するのはちょっと居たたまれなかった。それでもドイツは律儀にプロイセンの注文どおりの買い物をすると、瓶の並ぶプラスチックケースの上に食料品を置き、胸の前に抱えて道を歩いた。道行く人がアルバイトの学生くらいに思ってくれるといいのだが……と思いつつ歩く彼の顔には、押しも押されもせぬ立派な社会人の風格があった。一ダースのビールをものともせず、彼は普段とほとんど変わらないペースで街路を歩いていった。
 自宅の敷地に足を踏み入れ、玄関へと続く小道を足を向けると、ふといつもとは違う雰囲気を感じ取った。ちょっとした違和感だったが、気になって立ち止まり、あたりを見回すと、車庫のシャッターが半分ほど上がっているのが目についた。自動車のボンネットがちらりと見えている。
 こんな無用心な真似をした覚えはないのだが。ドイツは玄関に荷物を置くと、いくらか警戒をしつつ車庫へと向かって行った。
 そろり、と気配を消してシャッターの後ろ側を窺う。昼とはいえ、中は薄暗く表からは見えづらい。電球はいちばん照度の低いものがひとつ点けられているだけだった。
 と、奥の角でなにやらごそごそと動いているのが見えた。バイクが置かれている場所だ。窃盗だろうか。それにしては手口に鮮やかさが欠けるが。ドイツが様子見をしていると、突然中の人物から声が掛けられた。
「あれ、もう帰ったのか? 意外に早いじゃん。さすがおまえ」
 振り返らないまま、のんびりと話しかけてくる。車庫の外にいるのがドイツだとすでに同定している口調だ。
「ああ。平日にビール一ダース抱えてうろうろしたいものでもないからな。可及的速やかに帰路に着いた」
 侵入者がプロイセンだとわかれば警戒することもない。ドイツはあっさりと応じると、一メートルほどの高さまで上げられたシャッターを押して完全に車庫を解放してから中に入った。差し込んだ陽光に、振り返ったプロイセンが少しまぶしそうに手を目元にかざした。その手には黒く汚れた軍手がはめられている。
「二日酔いは大丈夫なのか」
 近づきながらドイツが尋ねる。プロイセンがすっきりした顔でこちらを見返してきた。
「しばらく寝転がってたら楽になった。あ、冷蔵庫にあったアレ、ええと、なんだっけ? ビタミン入りの水みたいなの。あれ勝手にもらったぜ」
「それは別に構わないが」
 と、すっかり全快した様子のプロイセンに、ドイツがおもむろに顔を近づける。
「な、なんだよ?」
 ドイツの鼻の頭が唇につきそうになり、プロイセンは驚いてわずかに顎を引いた。
「うわ……!?」
 思わず目を瞑ってびくんと首をすくめるが、次の瞬間にはドイツがすっと顔を引いた。
「いや、迎え酒をしたんじゃないかと思って、確認を」
 どうやら酒の匂いがしないか確かめただけのようだ。
「て、てめえっ……!」
 妙なことをするな、とプロイセンは肩を怒らせた。
「どっかの飲兵衛と一緒にすんな。そこまで悪習に染まってねえ」
「そうか。それはよかった」
 抜き打ちチェックに合格を出すと、ドイツは改めてプロイセンの姿を眺めた。見慣れない開襟シャツに長めのジーンズをロールアップして着用している。シャツのほうはプロイセンの持ち物だろう。軍手同様、黒い染みがあちこちについている。もっとも、むき出しの手首や鼻頭、頬、それに髪の毛にも、同じような汚れは点在していたが。
「で……何をしてるんだ?」
「ん? バイクのメンテ。見りゃわかるだろ」
 ドイツの問いにプロイセンはあっさり答えた。顔や服の汚れは自動車のオイルによるものらしい。先ほどにおいを嗅いだとき、アルコールの代わりにオイル臭さを感じたので、だいたいの見当はついていたが。
「やっぱりちゃんと待っていなかったな……」
 ドイツが額を押さえながらため息をついた。まあ、彼が自分の言うことを素直に聞き入れるとは思っていなかったが。
「なんだよ、敷地内にいるんだからいいじゃん。この車庫、おまえんちのだろ」
「まあそうだが……ひとのバイクを勝手にいじるのはどうかと思うぞ。乗りたいのか? こっちで有効な免許がないと駄目だぞ」
 忠告してくるドイツに、プロイセンは腕を広げて肩をすくめて見せた。
「いや、単にいじってみたかっただけだ」
「なぜ?」
「新型に惹かれてつい。やっぱおまえんちのメーカーはいいわ〜」
 プロイセンは左の軍手を外すと、バイクのボディを愛しそうに撫でた。
「いや、中古だし、大分古い型だぞ、これ?」
「俺からしたら新しいんだよ」
 何気なく切ないぼやきをこぼすプロイセン。ちょっぴり遠い目をしている。ドイツはつい懐柔されそうになるのを自覚して気を取り直すと、ハンドルに触れながら半眼で尋ねた。
「変な改造してないだろうな」
「いきなり改造はしねえよ。まずは型採って設計図描いてからだ」
 そう言うと、プロイセンは足元から半メートル先の地面を指差した。そこには――どこから探し出したのかは不明だが――チョークの軌跡があった。複雑な図と数式、いくつかの単語が並んでいる。本人の弁を信じるなら、バイクの見取り図とそこから算出した設計図のようだ。ドイツは感心と呆れを交えて息をついた。
「そういえばこういうこともできたんだったな」
「ははははは、俺ってすごいだろ。ちょっと触っただけで製図できるんだぜ! どうだこの溢れんばかりの才能!」
「器用貧乏……」
 得意げに己を親指で指して高笑いするプロイセンに、ドイツがぽつりと彼にふさわしい言葉を送った。聞こえてはいないだろうが。
「しかし、オイル塗れじゃないか。これは洗濯しても落ちないぞ」
 ドイツは気になってプロイセンのシャツの襟元を摘んだ。派手な染みこそないが、細かくあちこちにオイルが飛び散っている。油汚れはしつこいというのに。買い置きの洗剤で落とせるだろうかとドイツが主夫じみたことに頭を悩ませる一方で、プロイセンは澄まし顔だった。
「うん? いいんだよ、それが狙いだから」
「なんだって?」
「油塗れで着られなくなりゃ、心置きなく捨てられるじゃん? このダサダサのシャツ!」
 胸元の布を両手で引っ張り主張する。シャツは例のロシアンクオリティ全開のマトリョーシカ柄である。
「そういう魂胆か。確かに、愉快な柄だとは思うが」
「悪趣味って言うんだよ」
 ぱっと手を離し、プロイセンはうんざり気味に愚痴を漏らした。
「あー、癪だけどフランス寄って服買ってこりゃよかった。イタリアもいいよな、イタリアも。はあ……ロシアのこの微妙なダサさといったら、嘆かわしい限りだ。見ろよこのシャツ、なんのギャグだっつーの。とても表なんか歩けやしない。や、ここ来るとき途中まで着てたけど」
 ぶつぶつと垂れ流されるプロイセンの文句の中に、ふと引っかかるものを覚え、ドイツが尋ねた。
「途中まで? 途中からはどうしたんだ? 俺の部屋から服をかっぱらったということは、道中で購入はしなかったのだろう?」
 なんとなく流れを想像しつつも、問いただしてしまう。
 プロイセンの答えはというと、
「脱いだに決まってるだろ。恥ずかしすぎる」
 予想をまったく裏切らないものだった。
 ドイツはちょっぴり頭痛を覚えてこめかみを押さえた。
「……ということは、裸で俺の家に入ってきたのか、あの日?」
「上半身だけだ。いかに浮かれていようとも、ストリーキングはさすがにやらん。捕まるだろ。まあ、ここの警察組織を抜き打ちチェックする機会にはなったかもしれねえけどさ」
「そういうやり口はやめてくれ」
「冗談だっての」
 にやり、と口の端を持ち上げるプロイセン。
「おまえが言うと冗談に聞こえない」
 大真面目に返すドイツ。
「なんだとこの野郎」
「……冗談だ、多分」
「わかりにくい! ってか、多分ってなんだよ多分って!」
 本気ではないだろうが、プロイセンが少々立腹した様子でバンと背中を叩いてきた。手加減されていてもそれなりに痛い。
「おまえほんと生意気になったよなー。かわいくないぞ」
「大人になったと言ってくれ」
「ちっ……」
 プロイセンはおもしろくなさそうに舌を鳴らして見せたが、内心では喜んでいる自分がいることに気づいていた。ドイツの成長はもちろん、こうしてまた彼とじゃれ合っていられるのが楽しい。彼はドイツの首に片腕を回し、肩を組むようにして絡んだ。
「おい、俺まで汚れるだろう」
「気にすんな」
「気にする」
「細かいやつめ」
「おまえだって細かいだろう。なんだあの設計図は」
「似たもの同士ってことだろ」
「それはへこむな」
「なんだと」
 他愛もない言い合いをしながら、彼らは一緒に車庫の外へ出た。太陽は大分高くなっていた。
 天気もいいことだし、せっかくだから屋外でメシにするか、とのプロイセンの提案を受け、庭のブロックに腰を下ろして出来合いのサンドイッチをかじることになった。
「さっきから気になっているんだが、それ、マトリョーシカか?……えらくうじゃうじゃしてるな」
 明るいところで改めてみるとその異様さに目がつくのか、ドイツがプロイセンの着ているシャツについて質問してきた。
「どっかのアパレルメーカーが出してるキャラクターものらしいが、このセンス、俺にはまったく理解できん。かわいくねえ」
 とっとと脱いでしまおうかと、プロイセンがボタンをひとつふたつ外したとき、
「ところでこれ、何体あるんだ? 数えていいか?」
 ドイツがおかしなことを言い出した。数える気満々のようで、すでにカウント用の人差し指をプロイセンのほうへ向けている。プロイセンは眉をしかめて戸惑った。
「は? ま、まあ別にいいけど……限りなく無意味な作業だと思うぞ。あと、下手に触るとオイルが付くぞ。食い終わってからにしろ」
 プロイセンが忠告し終わる頃には、ドイツは食事を終えていた。隣のブロック座ったまま、彼はプロイセンのシャツにわんさか住むマトリョーシカを数えた。
「一、二、三……」
 順序数がどんどん増えていく。時折ドイツの指先が布越しに触れるのがわかり、プロイセンはすわりの悪い思いだった。
「な、なんか落ち着かねえな……おまえもなに真剣にこんなもん数えてんだよ」
 プロイセンが茶々入れするが、真剣そのものといった表情でカウントを続けるドイツの耳には入らなかった。
 やがて、ドイツの口から出る数字が止まった。
「背中側だけで四十五体いた」
 結果報告を受けたプロイセンが嫌そうに口を開いた。
「うげ。そんなにいるのかよ……改めて数字を呈示されると気持ち悪くなってくるな」
「腹側はいくついるんだ?」
「同じくらいじゃね?」
 適当に答えるプロイセンの襟を、ドイツが唐突に引っ張ったか思うと、裏側を折り返してじろじろと見つめ出した。先ほどプロイセン自身が上のふたつのボタンを外していたので、けっこうな範囲がめくれ上がる。
「なんでめくるんだよ!」
 謎の行動の意味をプロイセンが問うと、ドイツはやはりきわめて真面目な調子で言った。
「いや、折りしろにもいるのではないかと思ってな」
 開きの内側も気になるようで、ドイツはぷちぷちとシャツのボタンを外しはじめた。熟練職人の作業にも似た真剣さが感じられ、プロイセンは一瞬気圧されるが、この状況のおかしさを思い出し、声を荒げる。
「いいだろ、そんなとこについてるやつなんかノーカンで!」
「ここまで数えたんだ、最後まで正確に計測しないと気が済まない」
「無駄な完璧主義だなおい!……ってか、いまちょっと懐かしいとか思っちゃったじゃねえか!」
「あまり話しかけないでくれ。いくつまで数えたか忘れそうだ」
「いっそ数えてること自体忘れちまえ!……って、おい! まだめくってくる気かこの野郎!」
 ぎゃあぎゃあと騒ぐプロイセンには取り合わず、ドイツはさっさとボタンを外してしまうと、折りしろのマトリョーシカをひとつも漏らすまいとカウントしていった。
 とてつもなくくだらないことさえも最後までやり遂げようとする意志と気迫をもって臨む姿勢は、いっそ褒めてやるべきなのだろうか……と、プロイセンもまた的外れな方向に真面目なことを考え出していた。そうこうしているうちに、思い切り肌蹴たシャツは肩からずり落ちかけていた。
「も〜……さっさとしろよ?」
 ドイツが前のめりになってくるので、プロイセンは自然上半身が後傾した。
「なあ、オイルの染みのせいでここの部分がよく見えないんだが。……一体か? 二体いそうな気もするんだが」
「どこだよ」
「ここだ」
 プロイセンは重心を後ろに崩したまま、腹の辺りの油汚れを見ようとドイツの肩を掴んで首をうつむけた。
「あー……多分一体じゃね?」
「根拠は?」
「おまえ、完璧主義もほどほどにしとかないと病気になるぞ?」
 なかば本気でプロイセンが助言したそのとき。
「う、うわぁぁぁぁぁぁぁぁぁぁ!? おっ、おまっ、おま……おまえら、何やってんだぁぁぁぁぁ!?」
 突如として素っ頓狂な悲鳴が庭に響き渡った。
 はっとして顔を上げると、ラフないでたちのフランスが玄関から続く小道で立っていた。彼はホラー映画の登場人物しかしないような表情と仕種でもってふたりから顔を逸らしつつ、目線だけはそちらに固定していた。


それは禁断?

top