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血の絆は解けないもの


 身につけていたものをすべて床に散らかして、プロイセンはうつ伏せになってベッドに寝そべり、膝を交互に曲げてはぱたぱたと宙で足を振っていた。組んだ自身の腕を枕代わりにして顔を埋め、視線を横に流す。斜め前方には、ベッドの縁に腰掛けるドイツの姿があった。
「きれいになってるだろ」
 言いながら、プロイセンは腕を伸ばしてマットレスの上に突かれたドイツの手を取ると、自分の背中に触れさせた。かつていくつも刻まれていたはずの傷の見受けられない彼の背は、手で触れてもやはり滑らかで、負傷の痕跡は感じられなかった。ドイツはすっと手を引くと、いましがた彼の体温に触れたばかりの己の手の平を見下ろした。
「そうだな」
 プロイセンは組んだ腕の交差するあたりに鼻を押し付けてうつむくと、自分の二の腕を逆側の手できゅっと握り締めた。
「ここ陥落したときはボコボコだったんだけどよ、全部きれいに治されちまった。昔の分も一緒くたに。俺は、前のほうが気に入ってたんだけどよ。傷のない体なんて、男にとっちゃ不名誉なくらいだってのに、きれいに消してくれちゃってまあ……」
 彼はおもむろにクロスした腕を解くと、緩慢な動作でごろりと寝返りを打ち、仰向けになった。虚空を仰ぐその瞳は、天井よりもずっと遠い何かを漠然と眺めているようだった。
「傷とともに、この街の過去も歴史も、消えちまったんだ」
 彼は左腕をまっすぐ突き出すと、宙で何かを掴むようにぐっと指を握り込んだ。そうしてから彼は力を抜くと、開いた手の平をドイツに見せた。
 ほら、何も残っていないだろう? 彼の赤い瞳が寂しげにそう語りかけてくる。ドイツは彼の手を掴むと、ふるりと頭を小さく振った。
「いくらかは残っていたじゃないか。俺は今日ここへきて、この地はやはりおまえなのだということを感じた。昔、はじめておまえにここに連れられてきたときと同じように。それに……たとえすべてが過去に封じ込められたとしても、おまえは自分の足跡を覚えているんだろう。たとえそれらが見えなくなったとしても」
「……ああ」
「俺も覚えている。おまえほどではないが、俺もこの街にはひとかたならない思い出があるんだ。覚えているか、おまえがはじめて俺をケーニヒスベルクに連れて行き、自ら案内したときのことを」
 ドイツは少し興奮した、ややもすれば必死さの窺える調子で思い出話を語りだした。プロイセンは仰向けのままうなずくと、
「ああ。あんときゃまだガキだったな。俺も若造だったし、おまえはこんなにちまかった」
 片腕を適当な高さに持ち上げ、手の平を下にして背丈を表した。それを見たドイツは、大真面目な顔で否定してきた。
「いや、それは記憶違いだろう。もう少し大きかったはずだ」
 身長に関しては何も当時の実際の寸法を再現したのではなく、単に『あの頃のおまえは小さかった』と言いたかっただけなのだが、ドイツはそれを見たままに受け取ったらしく、上方修正を求めてきた。
 プロイセンは呆れるより先に愉快な気持ちになり、
「そうか? むしろこんくらいだった気がするんだけど」
 軽く口角をつり上げながら、今度は先ほどよりさらに低い位置まで手を下げた。
「それでは幼児ではないか。おまえの肩くらいの背丈はあったはずだぞ」
「え〜? そうだったっけ?」
 プロイセンはむくりと起き上がると、自分の肩を見下ろした。当時のドイツが自分よりも背が低かったことは覚えているのだが、どの程度の背丈であったのかはよく思い出せない。というのも、彼の記憶の中の『子供のドイツ』は、個々のエピソードごとに姿をもっているわけではなく、ある種の抽象化をされた存在だからだ。自分より小さくて弱い、守り慈しむべき存在。そのようなイメージ化を受けている少年時代のドイツの姿が、実際の姿よりも控えめなサイズで思い起こされたとしても、彼の記憶力の劣化を指摘することは妥当ではないかもしれない。なぜなら、彼の主観において、それは紛れもなく過去のドイツの肖像なのだから。
 プロイセンは揃えた指先でとんとんと肩を叩いては不思議そうに首を捻った。
「そんなでかかったっけなあ?」
「ああ。そのくらいはあったぞ。手を引っ張って急ぎ足で連れて行かれた丘の上で、俺はおまえの後ろに立って眼下の景色を眺めた。そのとき、黒地に白の刺繍が入った、まだ新しい外套の肩口がすぐ目の前にあったことをいまでも覚えている。つまり、俺の目線はおまえの肩のあたりにあったということだ」
 ドイツが詳細な解説とともにそう主張すると、プロイセンは彼の話を疑うより先に、関心とも呆れともつかないため息を漏らした。
「おまえ、よくンなことまで覚えてんな……。どんな記憶力してんだよ」
「俺にとってはそれだけ印象的な光景だったということだ。はじめて見るケーニヒスベルクも、目の前にあるおまえの肩も。いまだに色あせないくらい」
 ドイツは猫背になって頭の位置を下げると、プロイセンの背側へと体を傾け、肩甲骨のあたりをじっと見た。当時の目線を再現するように。
「俺がもう少し大きくなってから、おまえはその外套を俺にくれたんだが……覚えてるか?」
 上体を元に戻しながらドイツが尋ねる。プロイセンはおおいにうなずいた。
「ああ、忘れもしねえ。おまえが大人になって最初の記念すべき日に、何か贈ってやろうっつったら、おまえ、俺のお古のマントがほしいとか言い出したんだよな。しかも本人は別に遠慮してるわけじゃないって頑なに主張するし」
 あのときのおまえは意味不明だった、と言外に言ってくるプロイセンに、ドイツはちょっぴり照れくさそうに笑った。
「遠慮していなかったのは本当だ。俺はあの外套を譲ってもらいたかったんだ。あの日見た光景が忘れられなかったから。おまえの手元に置いておいたら、着古して使えなくなった時点でさっさと捨てられそうだったしな」
「なるほど、そういうことだったのか。百数十年越しにあのときのおまえの心境が理解できたぜ」
 プロイセンは納得の息を漏らしながら何度もこくこくと首を縦に振った。
「おまえにあれをもらったときはすごく嬉しかったが、残念なことにじきに着られなくなって箪笥の肥やしになってしまった。サイズが小さくて」
「おまえがニョキニョキ容赦なく伸びるからだろーが。ったく、でかくなっちまいやがって」
 ドイツの額を軽く小突くプロイセンだったが、その瞳は成長を喜ぶ色をたたえていた。ドイツは彼に突付かれた額をくすぐったそうに押さえた。
「でも、着られなくなったおかげで倉庫に保管することになって、結果的によかったと思う。あれ、幸運にも戦火を免れてな、いまでもうちに残ってるんだ」
「え? まじ? あんなんまだとってあるのかよおまえ」
 プロイセンは信じられないといった面持ちで目をぱちくりさせた。
「もちろん。おまえがくれたものをそうやすやすと捨てるわけないだろ。なんなら今度うちに来たときに見せようか。大分劣化しているから、出すときは慎重を期するが」
 ちゃっかり次にプロイセンを家に招く理由をこさえつつ、ドイツはふいに姿勢を正し、ゆっくりと腕を伸ばして彼に近づけた。彼の両頬を手の平で包み込むと、互いの鼻の頭をこすり合せた。
「おまえは消えていない。おまえが残してくれたものはたくさんあるんだ。俺はいまでも家の中でおまえの気配を感じるし、それに、おまえは現にこうしてここにいるだろう。こうして、この手に触れている」
 近すぎてかえって相手の顔がとらえられない中、間近にあるぼんやりとした青を見つめながらプロイセンは苦笑とも自嘲ともつかない口調で言った。
「ドイツじゃなくなっちまったぜ?」
「おまえであることは確かだ。確かにおまえはこの半世紀で変わっただろう。しかし、別の誰かになったわけではない。おまえはおまえなんだ」
 ドイツはしっかりとした声でそう告げると、こつりと額をぶつけ合わせた。触れたところから伝わってくる体温が心地よくてならない。
「そう、思うのか」
「俺はそう思っている。おまえこそどうなんだ」
「俺は……俺は、受け入れちまったよ、とっくに。だからいまでもこうしてここにいる。びっくりするくらいしぶとくな」
 ほら、ここにいるだろう?
 そう示すように、プロイセンは顎を引いて少しだけ距離を取ると、ドイツの手の上に自分のそれを置いた。重なり合う熱は、何よりも確かに存在を証明してくる。
「そうか。……いてくれて、よかった」
 ほっと息を吐くドイツ。プロイセンは少し気恥ずかしそうに小声で言った。
「うん……今日まで存在できてて、ほんとよかった。おまえとこうしてまた話せて、触れ合えて、本当に、よかった。この半世紀が、ただ惰性で生き延びただけの時間じゃないと思える」
 この半世紀の自己の歩みにようやくいくらかの意味づけができた気がして、プロイセンはふっと柔らかい笑みをこぼした。が、対照的にドイツは表情を暗くする。
「つらい時間……だったんだろうな」
 独り言めいたドイツの呟きを拾ったプロイセンは、曖昧に首を振って肩をすくめた。
「どうだろうな。考えようによっては、おまえほどじゃないかもしれないぜ?」
「なんだって?」
 明らかに自分より過酷な道を歩んだ彼のそんな発言に、ドイツは目をぱちくりさせた。
「だって俺は、おまえが生きてて、元気にやってるのを知ってたんだ。会えなくても、消息がわかっているだけで、俺はずいぶん安心したもんだ。でもおまえは、俺がどこにいるのか、生きてるのか死んじまったのか、それすらわからないで過ごしたんだろ?」
「……ああ」
 プロイセンはドイツの首に腕を回すと、優しげなトーンで静かに尋ねた。
「心配したか?」
「それはもう」
「寂しかった?」
「言葉にできないくらい」
 素直に答えてくるドイツがかわいくて、プロイセンは彼をぎゅっと抱き締めると、肩に寄せさせた彼の金髪をくしゃくしゃと混ぜた。そして、子供を思いやる親のような慈愛のにじむ声で言う。
「ごめんな。半世紀、俺はおまえにつらい思いをさせちまっただろう」
 謝ってくる彼に一瞬呆気にとられたあと、ドイツはぱっと顔を上げて苦笑した。
「こんなときまでおまえに気遣われるなんてな」
 うっすら皺の寄った眉間に、プロイセンはちゅっと軽いキスを落とした。
「性分だ。どんなにでかくなったところで、俺にとっちゃおまえはかわいい弟分なんだよ、いつまでも」
「そうなんだろうな」
 ドイツは素直にうなずくと、おもむろに首を上に伸ばし、
「俺も、いつまでもおまえを兄だと思っている。だから、これからもそうでいてほしい」
 告げたあと、いましがた彼にされたのと同じように、彼の額に唇を押し付けた。希望と願いを込めて、厳かに。
 首を動かして彼の体温を離してしまうのを惜しく感じたプロイセンは、うなずく代わりにそっと目を閉じた。


見つめ合うとき

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