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わたしの知らないあなた


 半世紀ぶりに訪れるかつてのケーニヒスベルクは、すっかり様変わりしていた。ここは本当に彼の故郷なのだろうか。この荒れ果てた都市が、本当にいまの彼なのだろうか。思い出の中にいまでも横たわるあの美しい景観は、もうどこにもなかった。代わりに散見されるのは、ロシア語が並ぶ古びた看板や、いまはなきソビエト的なスタイルに基づいて建設された施設や集合住宅。どこを探しても、彼の面影は見つけられなかった。
 到着したら駅から動くな、一人歩きは危険だ、というプロイセンからの言いつけを破り、ドイツは中心地を散策した。資料の映像や画像として得たこの街の姿と現実のそれを、頭の中でひとつずつ照らし合わせるようにして観察する。それは見学や観光というよりは、科学者が研究と分析を行う姿勢に似ていた。
 待ち合わせ時刻の十五分前を見計らい、ドイツは再び駅の指定された場所に戻った。まだプロイセンが迎えに来ていないことにほっとする。もしドイツが戻るより先に彼が現れていれば、約束を守らず勝手にうろついたことを咎められるに違いない。
 ――どうだ、ここが俺の故郷だ。おまえいっぺんも来たことなかったっつってたけど、どうだ、いままで来なかったこと後悔しただろ?
 世紀を跨ぐ古い記憶の中で、自慢げに笑うプロイセンの顔が思い浮かぶ。在りし日のケーニヒスベルクの街並とともに記憶の回廊に保管された彼との思い出は、いまなお鮮明だ。まだ子供だった自分の細い手を掴んであちこち引っ張り回した彼は、連れ回している相手よりもよほど少年っぽく輝いていた。
「ここは、いったい……」
 駅の建物の中央付近に立ち、ドイツは晴れた空を見上げた。パステル調の空色は優しくも美しいのに、目に映る姿はどこか重たげな印象を受ける。まぶたを閉じた先に見える昔の風景は、あんなにも生き生きと鮮やかなのに。
 時間の経過とともに記憶と現実の乖離が進むのは自然なことだ。過去の姿がまるで幻だったかのように消えてしまうことなど、珍しくもないに違いない。彼に幾度となく案内され散策した街だというのに、ドイツはいま自分が立っている場所がかつてどんな姿をしていたのか、記憶から呼び起こすことができなかった。現在の時間軸において、その手がかりはどこにも落ちていない。街を案内する彼の声が耳に遠く響くような錯覚が生じる。しかし彼の声は思い出せても、言葉までは思い起こせなかった。中心地であるここは、何度も彼に連れ出されたはずの場所だ。だが思い出せない。かすかなヒントでも残されていないものかと、ドイツは幾許かの焦燥に駆られたきょろきょろとあたりを見回した。と、そのとき――
「よお。無事着いたか」
 記憶という劇場の中の主役が生身の姿で現れた。濃紺のくたびれたピーコートをきっちりと着込んだプロイセンが、挨拶代わりに軽く左手を上げながら、建物の影になっている曲がり角からこちらへと歩いてきた。
 元気そうな彼の姿を目にしたドイツは、気づかれないようにほっと息をつくと、澄ました顔で向き合った。しかしプロイセンには見抜かれていたようで、
「どうした、なんかそわそわしてねえ?」
 対面して開口一番に指摘された。ドイツは参りましたというように肩をすくめると、うらびれた市街地のあちこちに点在する店や看板をぐるりと眺め回した。
「よかった、落ち合えて。こうキリル文字ばかりだと落ち着かなくてな。まったく読めないわけではないが」
 それが落ち着かない理由の主たるものではなかったが、嘘というわけでもない。異国の文字が立ち並ぶ町の風景は、彼にとってはほとんど別世界のようだった。戸惑いの色のにじむ彼の横顔を間近で眺めたプロイセンは、ぽりぽりと後頭部を掻きながら同意して見せた。
「ま、そうだろうな。……俺はもう、慣れちまったけどよ」
 独り言めいた彼の台詞が諦めと受容に裏付けられているように感じられたのは自分の考えすぎだろうか――ドイツはふいに暗い気持ちになった。身内のことに関してはことのほか聡いプロイセンは、すぐに彼の雰囲気の変化に気づいたらしく、ふっと乾いた苦笑を漏らした。
「な? 変わっちまっただろ?」
 ドイツの正面に立ち、軽く両腕を開いて見せるプロイセン。少しだけ寂しそうな目をした彼の背後に広がるのは、変わり果てた街並み。ドイツは縦にも横にも首を振ることができなかった。
 返事に窮しつい沈黙に陥ったドイツだったが、目の前のプロイセンがふいに輪郭を失い街の空気の中に溶けていくような錯覚を覚え、思わず腕を伸ばした。この手に捕まえていなかったら、彼がそのままどこかへ消えていってしまうのではないかと恐れて。
「どうした?」
 ドイツの手に頬を触れられたプロイセンは、不思議そうに首をかしげた。ドイツは自分の行動の意味を説明しかねたものの、彼の体温が手の平から伝わってくることに安堵しながら、もう片方の手も添えた。両手で彼の頬を包み込むと、
「久しぶり……というほどでもないか」
 真正面にとらえた赤い双眸をじっと見つめた。プロイセンはますます訝しげに眉をしかめた。
「なんだよ?」
「いや……またちゃんと会えてほっとしているというか」
「あのなあ、約束しただろ、ベルリン発つ前に。もうあんな別れ方しない、次からはちゃんと普通に顔合わせるってさ。まあ、お互い都合がつけばの話だけどよ」
 プロイセンは呆れた苦笑を浮かべながら、安心させるように、自分の頬に触れてくるドイツの手をぽんぽんと軽く叩いてやった。しばしの休暇を久しぶりのベルリンで過ごしたあとロシアへと戻る日になったプロイセンは、空港まで見送りに来てくれたドイツに少々困らされたものだった。
 本当にまた会うつもりがあるんだな、今度こそこれで最後とか言う気じゃないだろうな、また音信不通になったりしないだろうな――ドイツはしつこいのを通り越して偏執的なほど念押ししてきた。例の会議の最終日、プロイセンに最後的な別れ(結局事の成り行きというものによって最後とはならなかったわけだが)を告げられたことをいまだ根にもっている、というより、あの件にひどく打ちのめされたようで、その後の再会の約束に対するドイツの姿勢は病的なくらい真剣かつ深刻なものだった。何かこう、強迫観念に駆られているのではないかと疑いたくなるくらい。なにしろ空港でのドイツときたら、音声上の約束だけでは安心できなかったらしく、ついには紙とペンを取り出して書面上でなかば契約のような約束をプロイセンに迫ったのだった。あまりの重々しさにプロイセンはさすがに辟易したが、そこまでドイツの不安を煽ったのがほかでもない自分だと思うと、つき合ってやらねばと感じ、即興で作成された契約書じみた書類にサインしてやった。完全に個人的な書類ということで、サインには現在の公的な名称ではなく、彼らにとってもっとも自然な名前を用いた。ああ、この名を書くのも久しぶりだな、と不思議な感慨とともに。プロイセンの名で署名された即席文書を受け取ったドイツは、懐かしそうな、寂しそうな、それでいて少しだけ嬉しそうなまなざしでそれを眺めていた。
 ……そんなちょっぴり重たい経緯を思い出しながら、プロイセンは今日こうしてこの土地でドイツを迎えたことの意味を確認した。
「今回は仕事じゃないってことだったな」
「ああ、個人旅行だ」
「旅行ねえ……観光産業なんかろくにねえってのに」
 景観の損なわれた街をぐるりと見回したあと、プロイセンは自嘲気味にぼやいた。彼にとってはすでに見慣れて久しいのだろう、怖いくらい無味乾燥な表情をしている。ドイツは痛ましい気持ちで彼の視線を追った。面影を失った街並みが次々と視界に飛び込んでくる。これがいまの彼――わかっていたけれど、目の当たりにすると名状しがたい苦い感情が胸の奥をくすぐる。
 ドイツは胸中のもやを振り払うように、あるいは無視するように緩く頭を左右に振ったあと、
「街を歩くことはできるか?」
 現在のおまえの姿を見せてもらえるか、と暗に尋ねた。
 プロイセンもそのニュアンスを汲んだのか、意味深長に深くうなずいた。
「ああ。来いよ、案内する。車回すからさ。駐車場までちょっと歩くけど」
 彼はくるりと回れ右をしてつま先の方向を変え、肩越しに手招きをした。
「こっちだ。ついて来い」
 数歩遅れて、ドイツは彼の背を追った。彼の歩調は速くはなかったが、離れたらこのまま見失ってしまいそうな錯覚に襲われ、ドイツは追いつこうと地面をやや強く蹴った。三歩足らずで隣に並べる程度の距離しか離れていないのに。
 と、ドイツが斜め後ろに立ったとき、プロイセンが足を止めて振り返ってきた。突然だったためぶつかりそうになったが、ドイツは反射的に反対方向に一歩引いてバランスを取った。プロイセンはそんなドイツには気を留めず、ちょっと宙を仰ぎながら独り言のように呟いた。
「そうだ、忘れてた」
「何をだ?」
 ドイツが尋ねると、プロイセンは再び回れ右をして彼と向き直った。そして、相手の青い瞳をじっと見つめ、
「ようこそ、カリーニングラードへ。歓迎するぜ。陰気な街だけどよ」
 薄い微笑とともにそう告げた。彼特有の、癖の強い悪党じみた笑いの色がそこにはなかった。
 見慣れたはずの顔に、見慣れない表情が浮かんでいる――自分の知らない彼を垣間見たような気がして、ドイツは落ち着かない心地になった。


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