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道案内


 プロイセンに引率されながら、ドイツは街路の脇をやや遅いペースで歩いた。露骨にきょろきょろと見回したりはしないものの、あちらこちらに視線を移動させ街並みを観察していると、どうしてもいつもより歩調が鈍くなる。先ほどから前を行く相手との間隔が一定であることから、プロイセンもそのことに気づき、自らの歩みを遅くしてくれているようだった。ドイツは彼の無言の気遣いに感謝するとともに、戸惑いと安心を同時に覚えた。この街の姿を本当に見つめてしまっていいのかという迷いと、彼がそれを許してくれていることへの安堵。
 しかしその事実はドイツの胸のうちにさざなみを立てもした。ブリュッセルで半世紀ぶりの思わぬ再会を果たしたとき、驚くくらい萎縮した態度のプロイセンを前にしたドイツはひどく戸惑った。けれどもその後の対話の中で彼が自分に見せた果てしない思いやりに、現在の立場がどうあれ、彼は彼に違いないと強く思ったものだった。どんな姿になろうと、彼は自分にとってかけがえのない大切な存在だ。その気持ちに偽りはない。……けれども、こうして変わってしまった彼をまざまざと眼前にとらえたとき、本当にその現実を受け入れられるか、その度量が自分にあるのかどうか、自信がなくなってきた。普通に会話している分には以前と変わりないように感じられるが、ふとした瞬間に見せる表情や雰囲気に違和感を覚えることがある。それは突き詰めれば、『自分の知らない相手の一面』というものだろう。誰しもそのような側面をもっているという点ではお互い様と言えるし、そのことを理解できないドイツではなかったが、やはり複雑な感情が生じるのは禁じえなかった。すぐそばを歩く彼を遠くに感じる瞬間が、どうしようもなく寂しくてならない。その感情は、いまの彼を受け入れきれないでいる自分の現状をドイツに突きつけてくる。記憶の中にあるよりいくらか痩せた彼の後ろ姿を眺めながら、ドイツは自責の念に駆られた。
 と、不自然に沈黙が続いていることを訝しく思ったのか、プロイセンがおもむろに振り返って話し掛けてきた。
「すっかり変わっちまっただろ。驚きすぎて言葉も出ないってか?」
 皮肉や自嘲を抑えた少し軽薄な調子でプロイセンが尋ねる。心境を見透かされているような気がして、ドイツはどきりとした。すまし顔で取り繕えるような器用な技術は持ち合わせていない彼は、途切れがちになりながらも素直に答えた。
「あ、ああ……画像や映像で知ってはいたが、眼前にすると……やはり衝撃が大きいな」
「はは、おまえから見りゃ、前時代過ぎてびっくりなんじゃね? 知ってのとおり、俺んちいま火の車でさあ、インフラの刷新が難しいんだわ。飛び地で流通にも障害があるしな」
 プロイセンは前方に広がる荒廃した市街に目をやった。建物も道路も交通機関も、何もかもが古く痛んでいる。三十年、四十年前の時間がいまだ留まっているかのような光景。それも、古い時代を残そうとしての成果ではなく、閉鎖の中で無造作に取り残された結果といった痛々しい印象だ。
 もっとも、ドイツの驚きは何もこの街の混沌ぶりそのものにあるわけではないのだが。プロイセンとてそれを理解しないではないだろう。ドイツは、彼が自分のいまの心情――現在の彼のありさまをどう受け止めていいのかわからない――を追究しないでくれたことに感謝した。
 彼に向ける言葉を見つけられないまま、ドイツは眉間に皺を刻んだ難しげな顔で、凝視するような真剣さで街並を眺めた。そのあまりに深刻そうな表情を肩越しに見たプロイセンは、背後にいる彼の脇腹を左肘でつんつんと突付いた。
「あんまじろじろ見回すなっつーの。これでもかなり恥ずかしいんだぞ」
 茶化すような口調。そうでもしないと、ドイツがどんどん重苦しい空気を増大させそうだった。が、肝心の相手には無効だったらしい。ドイツは暗いまなざしでうつむくと、なかば独り言のように低く呟いた。
「きっと……俺には想像もつかないくらい、苦しんだんだろうな」
「おいおい、勝手に景気の悪い想像してるんじゃねえよ。ま、実際景気悪いんだけどよ」
 プロイセンは引き続き軽口を叩きながら、手をひらひらと適当に振った。そして再び首を前に向け、目的地へと歩みを続けた。
 ドイツはその場に立ち止まると、うつむいたまま、前方を歩く彼に視線だけ向けた。そして、ささやくような小声でぽつりと言う。
「……どれだけ、つらかったんだ」
 本人に向けて、つらかったな、とは言えなかった。プロイセンは同情じみた言葉を好まないだろうし、第一そのような発言は、彼の苦しみの幾許かを知っている者でなければ許されないだろう。ドイツには彼に同情できるほどのものがないのだ。時間を共有することのなかった半世紀の間に、彼がいかなる苦悩を味わったのか、想像しようがなかったから。
 顔向けできないのは俺のほうじゃないか――ドイツはある種の悔しさとともにそう思った。過ぎ去り、取り戻せない時間の中に迷い込んだ思考が、出口を求めてさまよっていた。と、そのとき、
「おーい、何ちんたらしてんだ、遅ぇぞ」
 外界から届いた音声がふいにドイツを我に返らせた。顔を上げると、十メートルほど先でプロイセンがぞんざいな仕種で手を振っていた。
「あ、ああ……すまない」
 ドイツは覇気のない声で軽く謝りながら、待ってくれている彼のところへ足早に駆け寄った。
「何ぼうっとしてんだか。気をつけろよ、治安悪いから。いまじゃドイツ系の住民はほとんどいねえからな、目立つかもしれん」
 近づいてきたドイツを、プロイセンが窘める。怒っているというより、子供に言い聞かせるような口調だ。
「おまえは大丈夫なのか」
「俺はその気になれば、誰にも気づかれることなく歩けるんだぜ。だって、この街はいまの俺そのものだからな、溶け込むのは容易だ」
 彼のその言葉は、きっと真実に違いない。
 ドイツは、大通りへと視線を向け目を細めている彼の顔に浮かぶかすかな自嘲の笑みを見て取った。
 が、プロイセンはここで感傷に浸るつもりはないらしく、すぐに気を取り直すように肩をすくめると、
「ほら、あんま俺から離れるな。何が潜んでるかわからん。っつってもおまえみたいなムキムキ、襲うほうが大変だろうけどよ」
 右手でドイツの左手首を掴んだ。離れるな、一緒に来い。言葉よりも雄弁な行動。大人が子供を誘導するというより、むしろ年長の子供が自分より小さな子供の面倒を見たがるときのような態度だった。
 ふいにドイツを襲う既視感。
 少年だった頃、プロイセンに案内されて彼の故郷を巡った。こんなふうに手を引かれながら。自分の誇るあらゆるものを見せてやろうと、彼は張り切って少年を連れ回した。息巻くあまり、彼は少年との歩幅の差をすっかり忘れ、急ぎ足で次から次へといろいろな場所を移っていった。時には引きずられそうになりながらも、ドイツは彼より短いコンパスで精一杯彼についていった。あまりにめまぐるしく移動ので、いまにして思えば観光どころではなかったかもしれない。どちらかというと、はじめての訪問時にもっとも印象に残ったのは、街の景色よりも彼の後ろ姿だった。自分の腕を力強く引っ張って進む、彼の背中。高揚した気分の立ち上る背を見て、これではどちらが子供なのかわからないな、などと、彼に言わせれば生意気なことを思ったりもしたのだが。
 いま、手を引く彼の力はさして強くはなく、勇み足でもなかった。大人になったふたりの間には、以前のような歩幅や歩調の差はない。彼の歩く速度についていくことになんら困難はない。けれどもドイツは並んで歩くことはせず、彼に少し腕を引っ張られるようなかっこうで、一歩後ろをついていった。懐旧あるいは感傷が、かたちには残っていない昔の軌跡をなぞらせたのかもしれない。
 彼の手の温かさを感じているうちに、いつの間にか目的の駐車場に到着していた。十年単位で時代遅れの自動車がまばらに停められている。その中のひとつ、あと一歩で廃車になりそうな一台の乗用車の前で彼は足を止めた。
「せっかく車出すんだし、なんなら郊外へ出てみるか? 中心部はこんなだが、戦災を免れた地区もある。そのへんなら、昔の建物もいくらか残ってるぜ。俺のいまの家もそのへんだ。寄ってけよ。そこらのホテルより安全だぜ?」
 ドイツを助手席に座らせ、自分は運転席のシートに納まると、プロイセンはキーを回してエンジンを掛けた。数秒の沈黙の後、地に響くような不吉な轟音が車体のあちこちから上がってきた。音と比例して、振動もかなりのものだ。マッサージチェアに乗せられたのかと錯覚を起こしそうだ。ドイツは思わず顔を強張らせる。
「お、おい、これは――」
「あー、大丈夫大丈夫、まだ全然余裕で乗れるから」
 呑気にそう答えるプロイセンだったが、その声は車体の振動によって妙なビブラートが掛かって聞こえた。
「オンボロ車でびっくりだろ。心配すんな、一応前に進むくらいはできる」
「バックはできないのか?」
 真顔で質問するドイツに、プロイセンはクラッチとギアの調子を確かめながら言った。
「たまにギアが不機嫌になるんだ。最近とみにリバースが不調だしな」
 どうやら誇張でなく『前に進むくらいはできる』レベルの乗り物のようだ。ゴーカートと大差ないかもしれない。ドイツはますます不安に煽られながら、車内をきょろきょろと見回した。しかし、目当てのものが見つからない。
「なあ、シートベルトがないんだが」
 眉をひそめながら尋ねるドイツに、プロイセンはいとも簡単に答えた。
「ああ、ほどけた」
「は……? ほどけた?」
 相手の回答の意味するところを理解しかねて聞き返すドイツ。プロイセンは腕を伸ばし、ドイツの座るシートの向こう側から伸びている糸の集団を指さした。
「劣化して繊維がボロボロになったんだよ。ほら、そこに糸くずの塊があるだろ、それが残骸、シートベルトの」
 プロイセンの指が示す先をとらえたドイツは、数秒の絶句のあと、上擦った声で呟いた。
「大丈夫なのか……」
 心なしか顔色が悪い。けれどもプロイセンはそんな彼をさくっと無視すると、車の機嫌を伺うようにゆっくりとアクセルを踏み込んだ。
「よーしよし、今日はなかなか調子いいじゃねえの。いい子だ」
 満足げな独り言を漏らすプロイセンだったが、車体の振動と轟音は激しさを増すばかりだった。ドイツが生命の危機的な意味で今回の訪問を後悔しはじめたときにはもう、彼らを乗せた車は駐車場を出ていた。
 たいしたスピードで走行しているわけでもないのにいやにスリリングに感じられたドライブは、三十分ほど座席の客を物理的に揺さぶり続けたあと、突如として終わりを迎えた。あれほどうなりを上げていたエンジンが、急にしおれるようにおとなしくなってしまったのだ。
「げっ、エンストかよ。くそっ、もう少しで着くってのに」
「無理をさせすぎたのではないか? あのエンジン音、ほとんど悲鳴みたいだったじゃないか」
 緊張に身を固くし、助手席で背筋を伸ばしたまま不動の姿勢を保っていたドイツが、首だけを運転席側に回した。プロイセンはハンドルをこつこつと指先で叩きながら、ううむ、と難しげにうめいた。
「やっぱりそう思う? 俺もやべぇかなー、とは途中から思ってたんだけどよー」
 もうちょい根性のあるやつだと思ってたんだとかなんとかぼやく彼に、ドイツはようやく生きた心地を取り戻しながらぽつりと言った。
「俺は最初から思っていたんだが……」
 ドイツが大きく息を吐いて背もたれに体を沈めている間に、プロイセンはひとり車外へ出てボンネットを開けていた。積み込んでいた修理道具を片手にしていたものの、開いた瞬間、ダメだこりゃ、という舌打ちが聞こえてきた。
 結局自動車は道路に放置して、残りの道のりは徒歩で行くことになった。早々にそんな決定を下したプロイセンに、ドイツが信じられないといった面持ちで「本当にいいのか」と訪ねたが、彼は相手の心配などどこ吹く風といった調子で、「元は盗車だから問題ない」なんてとんでもないことをさらっと言ってのけた。
 治安の荒廃ぶりに感化されたされたんだろうか、すっかりガラが悪くなって……と嘆きかけたドイツだったが、ふと振り返ってみると、もともと彼はこんな男だったような気もしてきた。彼のことはよく知っているつもりだったが、半世紀ほど死人扱いしていたため、微妙に記憶が美化されている可能性がないとも言えない。思い出はたいていいつも美しいものだから。
 釈然としないものを感じひとり悩んでいるドイツをよそに、プロイセンは再び彼の手を引っ張って歩きはじめた。
「ほら、ぐずぐずすんなって。荷物忘れるなよ。こっからなら俺んちそんな遠くないからよ。十五分くらいで着く」
 古く痛んだ舗装で覆われた郊外の道路は味気なく情緒もなかったが、道ゆく中でドイツはふいに先ほどまでと街の印象が異なることに気づいた。
「懐かしい感じがする」
 面を上げて改めて外界をとらえる。無機質な住宅街の中にところどころ、過ぎ去った時代の遺物が混ざっているのがわかった。熱心に街を眺めるドイツに、プロイセンはふっと苦笑した。
「ああ。戦前の建物が残ってるからな、このあたりは」
「おまえの気配を感じる。もう、残っていないと思っていたんだが……」
 街にかすかに残るプロイセンの面影を見つけ、ドイツは不思議な安心感に包まれた。目を閉じて、昔の気配の漂う空気を肺に取り入れる。リラックスした表情の彼を横目で見つめながら、プロイセンは肩をすくめた。
「しかし、気合入れて保存したわけじゃなくて、なんとなく残ってるって感じの建物だからな、景観が悪くていけねえ。ロシアとドイツを無造作に混ぜたらそりゃ不協和音になるわな」
 確かに彼の言うとおり、なんとも不調和な景色だった。ふたつの異なる文化の建築物が、融合するでも共存するでもなく、ただ同じ場所に存在している。風光明媚だったかつてのケーニヒスベルクとは似ても似つかない。
 彼はほんの少しだけ落ち込んだようなため息を落としたが、すぐに気を取り直すと、通りの右側、三百メートルほど先に人差し指を向けた。
「見えてきたぜ。あそこが俺んちだ」
 彼はいくらか早足になりながら、ドイツを自宅へと導いた。
 門の前に立ったとき、彼は自分の住まいを見上げると、低いトーンでぼそりと説明を加えた。
「ここさ、昔、ドイツ人の家族が住んでたんだ。彼らはこの地を追放された。どこへ送られたのか、俺にはわからない。おまえのところへ行けたならましだっただろうが、そうでないなら……」
 言葉の先を濁したプロイセンの顔は、苦渋に満ち、痛ましかった。彼が何を言わんとしているのか、察しないではない。そのことで自分を責めているであろうことも。ドイツとて、ここで暮らしていた人々の末路は知っているから。おそらくほかの誰が何を言おうとも、彼の心は慰められないだろう。そう感じたドイツは無言のまま、彼の背を抱くようにしてさすった。
 プロイセンはしばし目を伏せていたが、塞ぎかけた気分を払うように首を左右に振ると、ドイツのほうを振り返った。
「さ、着いたことだしよ、入ろうぜ」
 プロイセンは片腕を軽く前に出して玄関を示した。
 ドイツはわずかな緊張を覚えながら、現在の彼の住処に足を踏み入れた。


弾まない昔話

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