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弾まない昔話


 玄関に入ると、プロイセンはこっちだと腕で示しながらドイツを室内へと案内した。廊下の高い位置にある採光窓から落ちる陽光が床を柔らかく照らしていて、街の陰鬱な雰囲気とは隔たれた別世界のようだった。通りがかりに目に留まったリビングと思しき部屋の扉には、ドイツはまだこの街が彼の手にあったときの名残を見つけることができた。ドアノブの装飾なんて昔は気にもしなかったのに、いまはそういった昔の姿がいやに目に付いて仕方なかった。きっと無意識のうちに探してしまっているのだろうな――ドイツは彼に気づかれないよう、自嘲の苦々しい笑みでほんの少し口元を彩った。
 階段までたどり着いたとき、プロイセンがステップに片足を乗せながらくるりと振り返ってきた。
「今日は泊まってくだろ?」
「いいのか?」
 尋ね返すドイツに、プロイセンは両足ともに一段目に乗り上げさせると、体を反転させてから両腕を広げた。
「そのつもりであちこち気合入れて掃除したんだぜ。おまえそういうのうるさいからさあ、俺、ひとりでがんばったんだぞ。泊まってけよ。でなきゃ俺の苦労が報われん」
 彼は首を回してあたりに視線を巡らせた。見ろ、ちゃんと掃除してあるから、とでも言いたげに。ドイツは彼の視線を追って廊下を軽く見回した。さすがにこのときは、いつものようにこうるさい掃除チェックをする気にはなれなかったけれど。
「なら、そうさせてもらおう」
 俺と住んでいた頃は、面倒ごとは俺任せであまり自発的に動かなかったのにな。まったく、やろうと思えば何でもひとりでちゃんとできるんだから、このひとは。
 そんな感想を胸に、ドイツは彼の申し出にうなずいた。
 プロイセンはドイツから了解を取り付けたことに、目だけで微笑んだ。けれどもその中にある赤い双眸は、どこか緊張のトーンを帯びているようだった。彼もそれを自覚したのか、ごまかすように一瞬目を伏せたあと、階上を指差した。
「じゃ、さっそく案内するぜ。来いよ。二階だ」
 通された寝室の内部は、懐かしさと落ち着きをもたらすものだった。部屋は壁紙から内装、家具、ゴミ箱のようなちっぽけな雑貨に至るまで、古い時代――まだこの場所が彼のものであった頃の趣がそっくり残っていた。すっかり変貌してしまった外界とは切り離されたかのように、この空間は昔の姿を留めていた。まるでここだけ時間が経過していないように感じられる。
 驚きながら室内を見回しているドイツに、プロイセンがへっと得意げに笑った。
「どうよ、このインテリア。凝ってるだろ。昔風にしてみたんだ。前はそういうの自粛してたけど、いまはちょっとくらいいいかと思ってさ、こつこつ大工仕事したんだぜ」
 種明かしを受けたあと、ドイツは改めてひとつひとつ家具を眺めた。ちょっとした彫り物が刻まれた椅子は、デザインこそ一世紀も前のものだが、その質感は新しかった。真新しいというほどではないが、ここ何年かのうちに製作されたのだろうと推測がつく程度には、時の浅さを感じさせた。プロイセンの手製だというそれをまじまじと眺めたドイツは、感嘆のため息をもらした。
「相変わらず器用なんだな」
「おうよ。俺は何でもできるからな」
 少しも謙遜することなく、プロイセンは横柄にうなずいた。
「コーヒーでも飲むか? さすがに陶器までは焼けなかったから、だっさいソ連製のカップしかねえけど。いや、窯とか材料が揃ってりゃ、ティーセットだってつくれるんだぜ? この俺の腕前なら、な」
 そんな軽口を叩きながら、彼は一旦客室を出た。荷物は適当に片付けてろ、との指示をドイツに残して。
 彼の予告どおり、コーヒーは量産品と思しき粗末なつくりのカップに注がれてやってきた。トレイには、ほかに茶請けとして焼き菓子がふたり分用意されていた。ふたり掛けの小さなテーブルに置かれたそれを見たとき、ドイツはふとその菓子の模様や焼き加減、香りに覚えがあることに気づいた。そして思い出す――ああ、これは俺が彼に頼まれて教えた品だ、と。年齢や立場から、ドイツは彼から学ぶことのほうが多かったが、菓子作りはドイツのほうが得意、というか好きだったので、これに関しては彼に教えることができた。といっても、彼は菓子についてはもっぱら食べるほうが好きなようで、つくるほうにはさして興味を示さなかったのだが。それでもあるとき、何かの気まぐれなのか、あるいは出された茶請けの味が気に入ったのか、ドイツにこの菓子のつくり方を教えろと言ってきた。ドイツは明日槍でも降るんじゃないかと驚いたが、いつもと立場が逆であることをちょっとおもしろく、そして嬉しく感じ、はりきって彼と一緒にキッチンに立った。調理中につい事細かに指示を出し、彼にうっとうしそうな顔をされたものだった。けれどもそれすらも楽しかった。
「どうした、いらねえのか?」
 彼の不思議そうな声にはっとして、ドイツはぴくりと肩を動かした。またしても思い出に浸ってしまっていたようだ。彼が目の前にいるのに。自分はいまの彼に会いに、ここまで来たのに。
 ドイツはばつが悪そうに一瞬目線を逸らしたあと、フォークの乗った皿に手を伸ばした。
「あ、ああ、いや、もらおう」
「おう。俺が直々に手づくりしてやったんだ、ありがたく食え」
 横柄な物言いで彼が勧めてくる。少し粗い飾り付けが彼らしかった。ドイツは、いまにも崩れそうなベリー類の砂糖漬け(色が濃すぎて種類がわからなかった)を見つめ、懐かしそうに微苦笑した。
「なあ、このケーキ……」
 ドイツがフォークでフルーツをつつきながら話を切り出しかけると、プロイセンがこくりとうなずいて見せた。
「その顔だと覚えてるみてぇだな。おまえに教わったやつさ。長いことつくらなかったから、味のほうはいまいち再現できてねえかもしれねえけど。ってか、そもそもここじゃ材料揃わないんだよなー。いろいろ代用品使ってるけど、そのへんはまあ目ぇ潰れや。健康に悪いモンは……ううむ、もしかしたら入ってるかもしれん。昔基準の着色料とか」
「大丈夫なのか……?」
 プロイセンの話を聞いたドイツは、フォークの先に乗った何かのベリーに言い知れぬ不安を駆り立てられた。保存料と着色料が含有されているのは間違いないだろうが……なんかこう、異様に黒い気がする。艶はよいが、それが美しさを通り越して毒々しく感じられた。
 口に入れて大丈夫なのだろうか、とためらうドイツに、プロイセンは自分の皿に乗った同じかたちのケーキにぐさりとフォークを刺すと、
「細かいことは気にすんな。ちっとやそっとじゃ致死量には至らん」
 たったのふた口で平らげた。
「致死量って、おい……」
 よく言えば豪快に、悪く言えば行儀悪くもふもふと頬を膨らませながら菓子を咀嚼するプロイセンを半眼で眺めたあと、ドイツは深刻な面持ちでごくりと唾を飲み下し、意を決して自分のケーキにフォークを突き立てた。口に入れた瞬間、反射的に目をぎゅっと閉じる。が、予想はいい意味で裏切られ、味蕾を刺激してきたのはいたって普通の味だった。少し砂糖が遠い気がしたが、これは好みの問題だろう。材料の成分については、この際無視を決め込むことにした。そのほうが精神衛生上よさそうだったから。
「ふむ……うまいな」
 ドイツが素直な感想を漏らすと、プロイセンは満足げに二、三度うなずいた。
「これ教えてもらったとき、おまえすっげ指示が細かくてさあ、逆にわかりにくかったんだよな。計測にやたらめったら厳しいし。粉ものを分銅で測りだしたときはどうしようかと思ったぜ。砂糖や小麦粉相手に威圧感出しててよお、なんか後ろ姿怖かったぞ」
「なんでそんなことまで覚えてるんだ」
「いやあ、あのシュールな光景は忘れたくたってなかなか忘れられんだろ。エプロンの趣味が妙にかわいかったのがまた……」
 プロイセンは心底おかしそうに、ククッと軋むような笑い声を立てた。皮肉っぽい角度でつり上がった口角がいかにも彼らしかった。
 長い年月をともにした彼らにとって、思い出は掘り起こせばきりがなかった。けれども、そうして語られる話のすべてが古い時代のものばかりだというのもまた、事実だった。昔話を重ねるほど逆にその事実が意識され、彼らは絶えず会話を交わしながらもどこか話題に入り込めないままだった。
 ふいに、どちらともなくぷつりと話が途切れた。気がつけば、西日が深く入り込み、年月の積み重ねによって痛んだ床を燃えるような黄色に染めていた。プロイセンはおもむろに窓に視線をやると、ほんの少しまぶしそうに眉をしかめたあと、立ち上がってカーテンを閉めた。光量は減ったが、天井の人工灯が陽光のきつさに勝り、室内の景色がかえって鮮やかに見えた。ドイツは彼がすぐにテーブルへ戻ると思っていたなんとはなしに眺めていた。が、彼はカーテンの端を摘んだまま、ドイツに背を向けて窓の前に立ち尽くした。昼と夜の境界線上に横たわる不気味な静寂がふたりを包み込む。
 プロイセンの無言の後ろ姿に言いようのないざわりとした嫌な感覚を覚えたドイツは、沈黙を振り切るように声を出した。
「な、なあ――」
「ヴェスト」
 ドイツが口を開くと同時に、プロイセンが彼を呼びながら振り返ってきた。プロイセンの顔は、カーテン隙間から差し込む細い、けれども強烈な夕日に照らされ、表情が読めなかった。ただ、神妙な雰囲気だけは痛いほどに伝わってくる。彼から何か尋常ならざる予感を覚えたドイツは、緊張に身を強張らせた。
 プロイセンは、椅子の上で身の置き場に困っているドイツへゆっくりと近づいていった。そして、一歩手前で立ち止まると、低い声でぼそりと言った。
「おまえんちにいる間にさ、俺の体、見ただろ」
 ややもすれば、不機嫌そうなトーン。彼が何を考え何を思っているのか読み取れないまま、ドイツは当惑しながらもとりあえず彼の問いに答えた。
「見たというか、見えたな。そのへんで普通に着替えてたから」
「俺のシャツ捲ってきたくせに」
「あれは……好奇心に駆られてつい」
「なんかその言い方やらしいぞ」
「では……マトリョーシカに誘惑されたということで」
 ドイツはプロイセンとのやりとりに少しだけ軽薄な調子が戻ったことにわずかな安堵を得た。が、次に発せられた彼の言葉は再びドイツの胸をどきりとさせた。
「……おまえのことだから気づいてるよな。……傷痕がさ、なくなってんの」
「……ああ」
 気づいていた。気づかないはずがない。かつて彼の体に縦横に走っていた無数の傷痕が、どこにもなかったことに。完治しても生涯消えることはないと思われた瘢痕が、いまはもう見当たらなかった。目の前の青年が本当に自分の知っている《彼》なのかとにわかに疑いたくなるくらい、彼の体はまっさらになっていた。ベルリン滞在中は、彼もドイツもそのことに言及することはなかったけれど。
 プロイセンは自分の服の胸元を左手でぎゅっと握った。
「消えたんだ、古傷、ほとんど。理由は……今日のでわかっただろう?」
 そう尋ねてくるプロイセンの声音はどこかつらそうだった。きっと彼自身、触れたくないし、触れられたくない話題なのだろう。しかし同時に、話さずにはいられないことなのかもしれない。
 ドイツは彼の視線から逃げるように目を伏せた。
「そうだな。……これだけ変わってしまったのなら」
 今日この街に降り立ち、この家に辿り着くまでの道中と、その間に自分が感じた印象を思い出す。彼の気配を失った、彼の故郷。
「傷は男の勲章なのにな、はは、きれいになくなっちまったぜ。昔の名残と一緒に、全部」
 彼は力ない声で言った。諦観に感情のすべてを食い尽くされた、そんな顔つき。再会してから、ドイツは時折彼のそのような表情を目にしてきた。以前の彼は一度もしなかった表情。ドイツの知らない彼の顔。
 きっといま、彼はそんな表情で自分の前に立っているのだろう。そう察したドイツは顔を上げることができず、ただ彼の足元を見つめていた。
 再び沈黙に陥りかけたとき、
「……見たいか?」
 プロイセンが短く質問をした。ドイツはわずかに首を持ち上げると、おそるおそる彼の顔へ一瞬だけ視線をやった。彼は険しいまなざしでこちらを見下ろしていた。
「見たいか?」
 再び、問われる。
「なに、を」
「どんだけ俺が変わったか」
 彼の赤い双眸が、昏い笑いにきらめいた。
「いや……」
 ドイツが返答に窮していると、ふいに彼の手が頬に添えられた。強い力ではなかったが、抗えない何かを感じ、ドイツは彼の手に導かれるがままに面を上げる。
「見ろよ」
「え?」
「見てけよ、いまの俺の姿を。……そのために、おまえはここまで来たんだろう」
 言いながら左手を持ち上げると、プロイセンは自分の来ているシャツのボタンに指を掛けた。片手だけで器用にひとつずつ外していく。
「おい……」
 彼の唐突な行動にぎょっとしたドイツが目を見開いたが、彼は気にも留めず、無言のままいちばん下のボタンまで手を下ろしていった。


過ぎ去った時間

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