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過ぎ去った時間


 シャツを床に落としたプロイセンは、剥き出しになった両腕や肩を順番に指差しては傷痕の説明をしていった。
 右肩のこれはずいぶん古い。俺がまだガキだった頃のだ。おまえが知らない時代だな。上腕のは比較的新しい、覚えてるか、おまえとはじめて一緒に戦場に出たときのだ。たいしたことはなかったが、火傷も重ねて負っちまったから、消えずに残ったんだ。
 ひと通りの説明を終えてから、今度はインナーを脱ぎ捨てた。布に覆われていた胸腹部や背中が現れると、彼は先ほどと同じようにひとつひとつ、古傷の歴史を語った。まるでドキュメンタリーのナレーションのような、淡々とした滑らかな口調で。
 時系列を無視して語られる、彼の体に刻まれた歴史。けれども彼の指先が示す先には、何の瘢痕も残っていなかった。彼の肌は、まるで戦いなど知らないかのようにまっさらできれいなものだった。だがそれゆえ、ドイツは彼から目を逸らしたい衝動に駆られた。以前の彼の体、そこに刻まれた無数の傷痕を知っているから。傷ひとつないからこそ、逆説的に痛ましく感じられる。彼は傷を失ったのだ。彼の歴史とともにあった傷痕を。
 ドイツが視線を床に投げている間にも、プロイセンは手と口を止めることはなかった。抑揚のない声で、いまはない数々の戦傷とそれらが内包する過去の物語を紡ぐ。
 ふいに視界の端で何かが揺れた。はっとしてドイツが顔を上げると、プロイセンはズボンまで脱ごうとしていた。胴体や腕ほどではないが、脚にもまたさまざまな負傷があったはずだ。本気ですべてを語り尽くすつもりなのだろうか。
「どうした。俺の裸なんかいまさらだろ。それともなんだ、かっこよすぎて惚れそうで怖いってか?」
 軽口を叩くプロイセンだったが、そのまなざしはひどく暗かった。ふっ、といつもの皮肉っぽい笑みをたたえているが、彼らしからぬ瞳の陰気さゆえ、どこか冷笑じみて聞こえた。
 見ていられなくなったドイツは、掛ける言葉もないまま唇を噛んでふるりと首を左右に緩く振ると、腰をかがめて床に手を伸ばした。そして脱ぎ捨てられたシャツを拾い上げると、手早くプロイセンの肩に羽織らせる。腕を通させないまま、胸の前で合わせを引っ張るようにして閉じた。
「もうよさないか。そこまでしなくとも、わかったから」
 痛々しそうなまなざしのドイツとは対照的に、プロイセンの双眸は挑発的な色を宿している。彼は服の合わせを押さえつけてくるドイツの手首を掴んだ。そして、低い声で尋ねる。
「見るのは嫌か?」
「自棄になるな。確かに変わったとは思うが……おまえはおまえだ」
 言いながら、ドイツは目を伏せた。
 その言葉に自らの欺瞞が隠れていることは自覚していた。そうでないなら、きっと彼の目をまっすぐ見つめて言えていただろうに。
 ドイツが自嘲と罪悪感を感じながらうつむいていると、ふいに首に強引な力が加わるのを感じた。己の意図しないところで視界がぶれる。と、目の前には、激しい感情に瞳を揺らすプロイセンの顔があった。
「そう思うなら、なおのこと、見ろよ! 俺を!」
 荒げられた声は、激昂しているようでもあり、また嘆願しているようにも聞こえた。
 プロイセンはドイツの顔を両手で挟み込むと、無理矢理自分のほうを向かせ、ほとんど睨むようにして凝視した。そしてもう一度、今度は喉の奥から絞り出すような声音で言った。
「見ろよ、いまの俺を」
「プロイセン……?」
 困惑しながら呼んでくるドイツに、彼はゆるりと一度だけ首を横に振った。
「カリーニングラードだ……いまでは」
 羽織らされたシャツの右肩の布地を左手でぐっと握り締めた。肩から袖にかけて深い皺が刻まれる。力のこもった彼の指がかすかに震えていることにドイツは気づいた。
 彼は大仰な身振りでほとんど真上を向くようにして首をのけぞらせると、自らが作成した照明の吊るされた天井を仰いだ。続いて部屋の中を一周見渡し、ふ、と自嘲のにじむ吐息を漏らした。
「部屋を昔風に取り繕ったところで、変わっちまったいまの姿を隠すことはできやしないんだ。んなこと、とっくの昔に理解してたんだ。なのに俺は……」
 そこで一旦言葉を止めると、彼は拳をつくって軽くテーブルの縁を叩いた。振動によって揺さぶられた陶器のカップや皿が小さな音を立てる。
 振動が静まってから、彼はゆらりと顔を上げた。自然、苦い笑みが浮かんでくる。
「昔の自分の姿に縋っちまうんだ。まだ俺が、おまえとともにあったときの……当たり前みたいにそばにいられることに幸せを享受していたときの……。もう戻らない過去の時間の中にしかない姿だってわかってるのに。俺自身がこんなんじゃ、そりゃおまえだって俺と向き合えないよな。俺を見るおまえの目、なんかつらそうだ」
 彼の率直な指摘にドイツはどきりとした。彼に違和感を覚えずにはいられないことを見抜かれていた。いや、見抜かれるも何も、おそらく全面的に態度に表れていたに違いない。自分がそういった取り繕いのセンスに恵まれていないことは、ドイツ自身よく理解していることだった。自分のそのような思考や感情が彼を傷つけることはわかっていた。しかし、それはどうすることもできないものでもあった。いまの彼に対して違和感を抱くのは、例えるなら荘厳なカテドラルに美しさや神秘性を感じたり、嵐の海に恐怖を駆り立てられるような、不可抗力の心の動きなのだから。理性の及ばないところにある心的な作用を抑え込むことなどできない。
 プロイセンとてそれは理解しているのだろう、ドイツを見つめる彼の瞳に、非難や軽蔑の色はなかった。もしかしたら、哀しみさえも。もっとも強く彼の瞳を彩る感情は、おそらくは寂しさ。寄る辺を失った子供のような頼りなさと孤独をたたえた双眸を、彼はそっと伏せた。
「受け入れてくれとは言わない。目を背けたくなるのももっともだ。俺自身、醜悪だと思っている。傷を、足跡を失ったこの体が。俺がどれだけ多くの過去を失い、また捨ててきたのか、これほど雄弁に語るものはないだろう。けど、これがいまの俺なんだ。……俺なんだよ」
 この半世紀の変化を自ら認め語るのは、彼にとっても心痛を伴うものなのだろう。彼は耐えるような声音で言葉を紡ぎながら、ふらりと一歩ずつ前に進んだ。虚ろなようでいて必死さの窺える表情に覚束ない足取り。亡霊が接近してくるかのような錯覚を覚えたドイツは、反射的に体が逃げようとしたらしく、気づいたときには彼に背を向けかけていた。ドイツのそのような行動は彼の胸にさらなる焦燥を掻き立てたのか、彼は縋るように両腕を伸ばし相手の上腕を掴んだ。
 背後に立った彼は、ドイツの右肩にほんの触れる程度の力で額を押し当てた。顔を合わせていないというのに、彼は視線を斜め下に逸らしながら、ささやくような声で言った。
「受容はしなくていい。向き合わなくてもいい。けど、否定は……しないでくれ。もう、どうすることも、できないんだ……だから……」
 先に続く言葉の代わりに、プロイセンはドイツの腕を握る力を強めた。しばしの沈黙のあと、ふいに指先に自分ではない体温が触れるのを感じる。プロイセンがわずかに首を上げようとしたそのとき、肩越しにドイツが振り返ってくる気配を察した。
「あの……放してもらえないか。その、困るのだが」
「あ……」
 無理に首を捻って後ろを見やるドイツと間近で目が合い、プロイセンは声にならない声を短く発した。数秒の思考の空白のあと、唐突に手から力が抜け、だらりと腕が下りる。彼は言葉に窮したように数回口をぱくぱくと動かしたあと、行き場をなくした腕で自分自身を抱き締めた。相手から感じた拒絶の意志に打ちのめされて。彼は無理矢理つくったことがありありと見て取れる苦しそうな笑みを浮かべながらも、相手の態度に理解を示した。
「すまん、そうだよな、無茶苦茶言ってるよな……こんな身勝手な要求突きつけて、悪かった――」
 離れなければならないという思いに駆られ、彼はよろめく足取りで後退を試みた。うつむけた顔を上げられないまま。
 が、二歩目を踏み出す前に足を止められる。進もうとする方向とは逆の力に体を引かれるのを感じ、彼は思わず視線を上げた。見やると、ドイツの手に肘の辺りを掴まれ、引き止められていた。その先には、困ったように眉間に小さな皺を寄せているドイツの顔があった。
「あ、いや、その、そうではなくて……後ろを向いたままだと、おまえの姿が見えないじゃないか」
「え……」
 ドイツの言葉にプロイセンはぽかんとした。拒絶されたわけではないのだと理解するまでに、十秒以上の時間を要した。
 呆けている彼の体をそっと引き寄せると、ドイツは赤い双眸を正面からまっすぐとらえた。
「見せてくれるんだろう?」
 そう尋ねてきた彼のまなざしは、凪の海よりも穏やかだった。
 ああ、この瞳の青はきっと受け入れてくれるだろう。
 漠然と、けれども確信的に、そんな思考が頭を流れる。
「ああ……見てくれ。おまえに、見てほしいんだ。触れて……ほしいんだ。いまの俺を」
 プロイセンはなかば陶然とした声音でそう答えると、ドイツの右手を緩やかな力で掴み、かつて傷の走っていた己の肩から胸に掛け、手の平に触れさせた。


血の絆は解けないもの

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