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独サイドの過去話です。カリグラシリーズの一部ですが、これ単体でも読めるかもしれません。
メインは独→普ですが、少し独墺(墺独)要素がありますので苦手な方はご注意ください。かなり恥ずかしい感じの話です。





その手に残らなかったもの


 初夏の晴れやかな青空が古都に美しい彩を添える日曜日、オーストリアは少々季節に合わない長袖の上着を羽織り、玄関の扉の前に立った。本格的な夏を迎える前に一度庭の手入れをしておかなくてはいけない。屋外で用いる道具を収納したガレージに向かおうと、彼はノブをひねってドアを開けた。と。
「え……?」
 視界が明るい陽光で照らし出されるのを予想していたオーストリアは、驚いて目をぱちくりさせた。なんだか妙に暗い。いや、昼の光は十分感じるのだが、なんだか木陰にでもいるようだ。この時間帯なら、玄関周辺に遮光物になるようなものはないはずなのだが。
 数秒固まったあと、オーストリアは扉を押さえたまま半歩引いた。改めて見やったその先には、よく知る青年の姿があった。
「ドイツ……?」
 彼の瞳に似た、どこまでも透明で抜けるような空の青さとは対照的に、彼の面持ちは曇り模様だった。鼻や頬、首のあたりがいささか赤く日焼けしているのを見たオーストリアは、彼がずいぶん前からこの場に突っ立っていたのではないかと推測した。突然の訪問をためらう気持ちがあったのか、それとも別の要因があったのかは定かではないが。
「どうしたんですか、急に」
 呆れるでもなく、オーストリアは訝しげにそう尋ねた。ドイツがこんなふうに突発的に来訪するなんて、そうそうないことだ。何か緊急の用事が――彼の様子からするとよいニュースは望めないだろう――あってのことだろうか。オーストリアの面にわずかに緊張が走る。一方、ドイツは申し訳なさそうに軽く頭を下げると、
「アポも取らず唐突にすまない。出かけるところだったか?」
 少しそわそわしながらオーストリアの予定を聞いてきた。
「いえ、これから庭の手入れをと思っただけで、家の敷地からは出ないつもりでしたが」
「少し、邪魔していいだろうか。予定を変えさせて、庭の花たちには申し訳ないが」
 ドイツにしては珍しくやや強引な調子で頼まれ、オーストリアは状況をつかめないまま困惑気味に首を縦に振った。
「え、ええ……いいですけど」
 オーストリアが体を横に引いて道を空けてやると、ドイツはもう一度小さく礼をしてから玄関にするりと体を滑り込ませた。
 ダイニングの椅子に客を座らせると、オーストリアは台所でコーヒーの湯を沸かす準備をしてから上着を脱いでいつもの衣服に替えた。いくら旧知の人物とはいえ、ガーデニングルックのまま客をもてなすのは美しくない。といっても、彼の普段着はなかなかの年季ものだったりするのだが。
 既製品のクッキー缶から菓子を数枚取り出して皿に盛ると、淹れたばかりのコーヒーとともにトレイに乗せ、ダイニングのテーブルへ運んでいく。陶器のカップとソーサーがぶつかり合う乾いた高い音を小さく響かせながら、彼はドイツの前にコーヒーを置いた。
「どうぞ。連絡をくれればトルテのひとつも焼いておいたんですけど」
 すみませんが今日は出来合いのもので、と断ってから、オーストリアはクッキーの皿を差し出した。
「すまない」
「いえ、お気になさらず。ジャム、つけますか」
「いや、このままでいい」
「そうですか。フレーバーをご希望でしたら、キッチンのラックにありますからご自由にどうぞ」
 玄関先で一度訪問理由を尋ねたきり、オーストリアはそれについて何も質問はしていない。ドイツもまた、なかなか口を開こうとしないため、会話の種といったら目の前のコーヒーと茶請けくらいしかなかった。勧められるままカップを傾けたドイツだったが、一口飲んだだけでソーサーに戻すと、両の拳を膝の上に置いて動かなくなった。平生からむっつりとしかめられがちな眉根が、ますます深く皺を刻んでいる。まなざしは険しかったが、何か思い詰め、また追い詰められているようにも感じられる。五分ほど、質問することも話を振ることもなく彼を見守っていたオーストリアだったが、自分自身居心地の悪さを覚えはじめたこともあり、そろそろと口を開いた。
「……何か、つらいことでも?」
 あまりに直截で気の利かない言い回しだと思わないではなかったが、変に気を遣って婉曲に聞くのもわざとらしい気がして、結局ひねりのない短い質問となった。眼鏡の裏で神妙に眉を寄せるオーストリアを前に、ドイツは小さく頭を左右に振った。
「いや……」
「ひとりで悶々と悩むのはあなたの悪い癖ですよ。吐き出せるものは吐き出してしまいなさい。聞くくらい、しますから」
 ドイツの最初の反応が否定であることを予測していたようで、オーストリアは落ち着いた様子で対応した。が、ドイツはさらに強く首を振る。
「いや、そうじゃないんだ」
「ドイツ?」
「何かあったわけじゃない……本当に、何もなかったんだ」
 繰り返されるドイツの言葉は、オーストリアに向けてというより、むしろ自分自身への念押しのような響きが含まれているようだった。何もなかったと主張するには信憑性のなさ過ぎる弱々しい口調だったが、それゆえオーストリアは彼の弁を追及するのがかえってはばかられた。
「そう……ですか」
 どう応じたらいいものか惑いながら、オーストリアは手持ち無沙汰にカップの取っ手のカーブを指先でなぞった。ドイツはほとんど減っていないコーヒーの黒い水面に映じる天井の照明を見つめたまま、沈黙を保った。時折、唇が薄く開かれては、ためらうように震えたあと再びきゅっと一文字に結ばれる。話したい、けれども言葉が見つからない。そんな彼の心境が読み取れた。オーストリアが辛抱強く待っていると、やがて彼は重たげな口をゆっくりと開いた。
「特別なことなど何もなかった……なのに……」
 ようやく話しはじめたと思ったら、ドイツはそこで言葉を切り、窺うようにオーストリアに目配せした。話していいのか迷っているのだろう。彼がこれから言わんとする内容を予測しかねるオーストリアとしては是とも非とも表し難かったが、自身の戸惑いはおくびにも出さず、こくりと静かに、けれども深くうなずいて見せた。話なさい、と促すように。

*****

 休日の朝、勤務のある平日より少し遅く起きたドイツは、軽い朝食を済ませると、洗濯機を回しはじめた。低い振動音が響く洗濯所をあとにすると、機械が仕事を終えるまでの時間を趣味にあてることにした。
 彼はキッチンに立つと、ステンレスのボウル、泡たて器、玉じゃくし、計量カップ、計量スプーン、秤、ふるい、といった諸々の調理道具をテーブルに並べた。続いて棚や冷蔵庫を開けて小麦粉や砂糖、卵、バター、オイルといった材料を取り出し、頭に入れたレシピの順番どおり効率よく使用できるよう、カウンターに陳列した。オーブンの温度設定を確かめて予熱してから、バターよし、小麦粉よし、卵よし、砂糖よし、牛乳よし、ベーキングパウダーよし……とまるで軍隊の点呼のような調子で材料がすべて整っていることを確認していった。同じ作業を調理器具に対しても行うと、ようやく彼は菓子づくりに取り掛かった。まず各種材料を納得いくまで丹念に正確に計量したあと、小麦粉とベーキングパウダーを機械のような正確な間隔でトントンとふるいに掛け、ボウルに入れた砂糖とバターを念入りに混ぜ合わせる。ふるいに掛けた粉と卵を慎重にボウルに投入すると、縁から少しも生地がはみ出ないよう計算されつくした手つきで混ぜ合わせた。その後も彼の几帳面な作業は続き、やたらとシンメトリーにこだわってカットされたナッツ類が生地に並べられることとなった(どうせ埋没してしまうのだが)。
 型に流した生地をオーブンで焼く間、彼はとっくに任務を終えた洗濯機の元へ向かうと、脱水されて皺くちゃになった衣類を籠に移し、竿に吊るしていった。それから玄関の掃除を簡単に済ませると、残り時間五分となったオーブンの様子を見に台所へ戻った。
 パウンドケーキの焼き上がりはまあまあだった。取り立てて駄目出しをするところもないが、自信作と呼べるような仕上がりでもない。もっとも家事の片手間につくったものなので、彼は本日の自分の作品に及第点をつけることにした。等間隔にカットしたケーキを一切れ摘まむと、ふるいの掛け方が甘かったか、と分析する。味見をしたあと、彼は気になった点とそれに対する分析と考察を専用のノートに書き付けてから、切り分けたケーキの一片を皿に乗せた。
 ノートを棚に戻してキッチンを出ると、彼は皿を片手に携え階段を上った。二階の客用寝室の前に立つと、彼は空いているほうの手で扉をノックしてから、かちゃりとノブをひねって戸を押した。そして部屋に足を踏み入れながら声を掛ける。
「なあ、パウンドケーキを焼いたんだが食べるか? 休みとはいえもう昼近いぞ。そろそろ下へ来てはどうだ、プロイセン?」
 平生と変わらぬ調子のドイツの声が響いた直後、寝室はしんと静まり返った。
 それはそうだ。この部屋には、誰も寝てなどいないのだから。
「……っ!」
 数瞬の混乱のあと、ドイツははっとして口元を押さえた。思わず放り出してしまった皿が宙を舞い、ケーキとともに欠片となって床に散った。だが彼は陶器が砕ける音に気づきもせず、部屋の入り口で呆然と立ち尽くした。無人の寝室を眺めながら。
 いるはずのない者の名がごく自然に出てきた己の口をきつく押さえつけたまま、ドイツはその場に足を縫い付けられた。


思い出は忘れた頃に

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