ご注意!
カリグラシリーズの普と露の過去話です。シリアス寄り。
かなり問題のある内容なので、高校生以下の方は閲覧を控えていただいたほうがいいと思われます。
続きの「きみのおわりとはじまりと」はこのページの下部からリンクしてあります。
寄る辺なき地
窓のない執務室はさながら牢獄に等しい陰惨な雰囲気を漂わせている。天井の高さに反比例して、言い知れぬ圧迫感が絶えず在室者の上に重く圧し掛かる。部屋の主に威厳を与え、入室者を威圧するには申し分のない設計とデザインだ。もっともそれと引き換えとして、リラクゼーションのすべてを犠牲としているわけだが。
およそくつろぎなど得られそうにない室内で、ロシアは繊細な装飾の施された椅子に脚を組んでゆったりと座り、来室者を待っていた。予定の時刻はすでに一時間近く過ぎていたが、彼がこの部屋へ入ったのはほんの十分ほど前なので、そう待たされているという気はしない。持参した書類をぺらぺらとめくりながら、あと三十分くらいはゆっくりできるかな、と考えていた矢先。
来訪を告げる守衛の声が厚い扉の向こうから届いてきた。
入って。許可を出すと数秒後、ギッっと軋んだ音とともに、控えめな様子でゆっくりとドアが左右に開かれる。開け放たれた扉の向こうから現れたのは三人。ふたりの看守と、その間には腕を背中で拘束された青年。約束の来客は真ん中の彼だ。服装は、囚人に配られるそれではなく、この建物で働く人間たちが一般に着用する制服だ。彼としてはこちらのほうが屈辱かもしれないが。
彼は剣呑なまなざしでロシアを射抜くように見つめてきた。静かな反抗の色が浮かぶ瞳を眺めながら、ロシアは小さく微笑むと、落ち着いた声音で看守らに指示を出した。その内容にいくらかの困惑を示したものの、看守たちは連れてきた男の拘束を解くと、ロシアに一礼をしてから、廊下へと退出していった。
突然自由になった両腕に戸惑った様子のプロイセンに、ロシアはのんびりとした挨拶をした。
「やあ、よく来たね。こちらへ」
執務机の前方にある来客用の低いテーブルとそれを挟んで配置されたソファを示しながら、ロシアが手招きをする。プロイセンは警戒を継続したまま、扉の前で立ち尽くす。少し怒った肩からは、精一杯の威嚇が漂っている。
「いいのかよ、拘束も護衛もなしなんて」
「必要かな?」
「形式は守るべきなんじゃねえの。俺はおまえの敵なんだぞ」
「うん、そうだね。……そうだったね」
意味ありげに言い直しながら、ロシアはゆらりと立ち上がり出入り口のほうへ足を進めた。その動作にプロイセンは動揺を見せる。徐々に詰められる距離。きつくつり上げた眉は崩さないが、瞳の揺れは隠せない。
あと一歩で接触する、というところまで接近されたところで、彼はプレッシャーに耐え兼ねたのか、ほんのわずかに右足を後方へ退いた。しかし思いとどまったらしく、それ以上は後退する素振りを見せなかった。ロシアは次の一歩を斜めに踏み出すと、彼の横に並び、回れ右をして同じ方向を向いた。プロイセンが不審そうに見上げてくるが、ロシアは構わず腕を持ち上げると、彼の両肩に手を置いた。びくん、と彼はあからさまに肩を震わせ首をすくめた。退路は塞がれた。
ロシアは少し首を下げ、彼の耳元に唇を寄せた。
「あっちへ」
呼気の流れと温度を感じるほどの近さでささやく。促されたプロイセンは、緊張を高めてますます身を強張らせた。背後から肩を軽く押され、彼は不安定な足取りで前方へ進み出た。歩幅が狭く進みは遅かったが、ロシアは急かさず一定のペースで彼をテーブルの前へと押していった。
プロイセンをソファに座らせると、ロシアは対面の席に腰を下ろした。緊張の面持ちでこちらをじっと見つめてくる相手に、ロシアはくすりと微笑んだ。
「怯えなくていいよ。きみはもはや僕の敵ではないのだから」
その言葉が意味するところを、彼は正しく理解できただろうか。
ロシアが反応を待っていると、プロイセンがさらに表情を硬くした。
「……ようやく処遇が決まったのか。ずいぶん待たせてくれたもんだな」
せめてもの悪態なのか、忌々しそうにぼやくプロイセン。ロシアは気を悪くすることもなく、平静な顔つきでさらりと告げた。
「うん、決まった。きみは僕がもらう」
その表現に違和感を覚えたらしく、プロイセンがわずかに眉をしかめた。
「もらう……? どういうことだ」
「言葉のとおり。きみは僕のものになる。あの街とともに」
「な……に、を……」
ロシアの説明をにわかには呑み込めない一方で、彼は感じたことのない嫌な感覚に見舞われて、声を上擦らせた。どくん、どくん、と鼓動が速くなっていく。ロシアの話す声がひどく遠く感じられた。
「きみの家の在り方についてはすでに告げたとおり。そしてこのたび、きみの身の振り方も決定したというわけ。上のほうも追放か在留かで揉めていたんだけどね……結局きみをここへ残すことにしたらしい。方針は――僕の一部になるというかたちで、ということだよ」
まばたきすら忘れて硬直するプロイセンをよそに立ち上がったロシアは、執務室の上から一通の封筒を手に取ると、それをテーブルに置いて提示した。
「ここにその旨を明記した書類がある。信じられないようなら、自由に読んで構わない」
ロシアが真剣な双眸でじっと見つめると、プロイセンははっとして目をしばたたかせた。少しだけ怯んだ様子だ。
「おまえの一部……? 俺が、おまえのもんに……?」
そんな馬鹿なことがあってたまるか。彼はロシアの弁を否定するように首を左右に振りながらも、おそるおそる封筒に手を伸ばした。震えをごまかせないまま、かじかんだように言うことを聞かない指先で開封する。書類はロシア語とドイツ語、そして英語の三つのバージョンがあった。彼はドイツ語のそれを選ぶと、文字列を追っていった。動揺のあまり視点が定まらず、同じ行を繰り返し読んでしまうことが何度もあった。そこには、ロシアの話が真実であることを裏付ける文章が並んでいた。
文面の最後には、見覚えのある筆記のサインが記されている。それはこの書類の記述が有効であることの証。
プロイセンはぱさりと書類を封筒の上に落とすと、震える声で小さく呟いた。
「は、はは……な、なんだよこれ……笑えねえぞ。脅しにしたってちょっと話がぶっ飛びすぎて――」
「脅しでも揺さぶりでもない。事実だよ」
否認の言葉を紡ぐプロイセンを、ロシアがばっさりと切り捨てる。穏やかだが、同時に冷徹でもある声。
「事実なんだ」
もう一度繰り返し、現実を突きつける。
「い、いやだ……そんな……いやだ……嘘だ、そんなこと、あるわけない……」
プロイセンは目を見開き瞳を揺らす。漏らす言葉は、自分を保つためのまじないのようだった。
「そう言われてもね。もう決まっちゃったんだし」
「い……いやだ、いやだ、いやだ!! なんで、なんで俺がおまえなんかのもんに……! 絶対に嫌だ!」
ドン! とテーブルを両手で叩く。振動でテーブルクロスの垂れた部分が揺れた。
激しい拒絶に興奮する彼を鎮めようと、ロシアは立ち上がってテーブルを迂回した。そして、彼の手をやんわりと掴んで言い聞かせる。
「落ち着いて……。決定事項なんだ。覆せない」
「いやだ! 俺は認めねえ! 俺はドイツだ! ロシアじゃねえ!」
触れられることに拒否を示し、プロイセンはロシアの手を振り払いながら腰を上げた。傷を負った猫のような必死さでロシアから離れた。
ロシアと対面したまま、逃げるように一歩ずつ後退する。逃げ道などないとわかっていながら、足が動くのを止められない。
ロシアは憐れむように彼を見つめながらも、一定の距離を保つように前へ歩いていく。
「きみはドイツだった。そしてロシアになる。そういう存在だ」
「いやだ! 絶対に! そんな必要はないだろう! 俺からこの街を奪えばそれで済むはずだ。なんで俺まで要るんだ。捨てろよ、俺なんか、捨てればいいだろう! そうしてくれ! この街の人々をそうしたように!」
「国としてのきみはもういない。存在できない。きみが有していたもので彼から奪われなかったものは、彼の一部となるだろう。いや、あれらはもうすでに彼の一部だったかもしれない。きみがあちらに戻ったとして、きみの存在の拠り所はどこにあるんだろうね? きみはいままでの輪郭を失っている。この状態では、消失と同化は免れないだろう」
「構うものか! それの何が悪い!」
そう叫んで一歩下がった瞬間、背中が硬いものにぶつかる。壁だ。これ以上は後退できない。
文字通り追い詰められた彼は、とっさに次の行動を起こすことができず、ただひゅっと息を吸っただけだった。三十センチとない距離で正面に立ったロシアが、おもむろに腕を上げて彼の頬に手の平を当てた。相手の意図がわからず緊張に固まる彼の頬を親指の腹で撫でながら、ロシアは顔を近づけた。
「きみが構わなくても、彼は構うんじゃないかな。僕らとしては、そのために彼に潰れられるのは困るんだ」
プロイセンは逃れるように体ごと顔を背けた。相手に体の側面を向けたまま、目を合わせることなく彼は早口に言った。
「あいつがそんなヤワなわきゃないだろう。いまだってズタボロだろうが、それでもおまえらとの話し合いには出てんだろうが」
「まあ、そうだけど……身内の過大評価は危険だよ」
「それに、このままここに留められたとしたら、それはおまえへの同化を意味するんじゃねえか。そんなのは絶対に受け入れられない。それがドイツであるのなら構わない。だが、ドイツ以外のいかなる国にも、俺はならない。なれっこない」
きっぱりと断言するプロイセン。ロシアは斜めに半歩出ると、彼の真後ろに立って腕を伸ばす。
「僕の一部になっても、きみは消えないよ」
背後からプロイセンの胴を両腕で弱く抱く。脇の下から右腕を挙げ、喉仏に柔らかく触れると、彼はひときわ大きく全身を跳ねさせた。
「……っ! なぜ……そう言える」
人体の急所にほど近い部位に他人の手が掛かっていることに彼は恐怖した。いや、それだけではない。背後の存在そのものが、彼を怯えさせた。
のろのろと左手を持ち上げ、自分の喉元に掛かるロシアの手をなんとか掴むものの、指先にまるで力が入らなかった。体が竦み、緩くまとわりつくだけの拘束から逃れることすらできない。自分の体ではないように身が縮んでいく。情けないと思いながらもどうすることもできず、彼はロシアの手を中途半端に握ったまま、ただ浅い呼吸を繰り返した。
ロシアは彼の状態を観察しながら、問いに答えた。
「なぜってね……あそこはきみの故郷だから。あの地にはきみの魂がある。あそこにいる限り、あの土地がきみの魂である限り、きみは消えない」
「自己の存在にしがみつくために、おまえのものになれってか? そいつはお断りだ。許容できない。俺は、俺であることを捨ててまで、生き延びたいとは思わない」
ロシアに首を触れられたまま、プロイセンはやっとのことで小さく緩慢に頭を横に振った。動くたびに首にロシアの指先の皮膚がかすめ、ぞわりとした感覚が湧き上がった。
「きみがそれを必要としなくても、ほかの誰かが必要としているかもしれない」
「はっ、知ったことか。俺は嫌だ。ほかの何ものにも、なるつもりはない」
頑なにそう主張すると、背後でロシアがため息をつくのが聞こえた。
「説得されてくれないね」
「当たり前だろ」
「仕方ない」
そう言うと、ロシアは自分の手を掴んでいた彼の手を逆に掴み返した。そして、くるりと体を反転させてから、とん、と壁に背をつけさせた。掴んだままの彼の左手首を頭の横で押さえつける。
「何を――」
「あまり悠長なことも言ってられなくてね、急がせてもらうよ」
一方的に宣言すると、ロシアは空いたほうの手で彼の制服の襟に手を伸ばし、指先を内側に滑り込ませた。
先ほどまでとは明らかに異なる触れ方。別の意図をもった接触。プロイセンは、悪寒に毛が逆立つのを感じた。
「て、てめえ、何を……!」
「嫌でも認識してもらうことにする――きみがいま、そしてこの先、誰の手の内にあるのか」
襟の内側から留め具が外される。プロイセンは頭を小さく振った。
「い、いや、だ! よせ……!」
叫ぼうとしたところで、喉を指でぐっと押される。発声を断念してもなお続く圧迫に、冷たい汗が流れるのを感じた。
しばらくすると、ロシアは彼の喉笛を押さえる力を弱めた。そして、留め具が外れ緩くなった襟元を少し広げると、肩のほうへ指を這わせた。
シャツの内側で直接他人の皮膚が接触する感覚に、プロイセンはぎくっと首をすくめた。押さえつけられたままの左手を強く握り締め、奥歯を噛み締めて嫌な感覚に耐える。
ロシアはたいして力を加えていないが、プロイセンは振り払おうとはしなかった。右腕は完全に自由だが、下に垂らしたまま、壁に爪を立てている。力みすぎた指先が、細かく震えていた。
抵抗の衝動を必死で抑え込んでいる彼に、ロシアは場違いに感心して見せた。
「この状態で抵抗を自制できる精神力には敬服だよ」
「……てめえっ!」
癇に障ったのか、プロイセンはうつむき加減だった顔を上げた。だが、ロシアは苦笑するだけだ。
「ほら、にらむだけで手は出ない」
プロイセンの右手を見下ろす。やはり壁を引っ掻いたままだ。
ロシアはすっと両手を引くと、おもむろに彼の右手を取った。壁から手を離させる。余程力が入っていたようで、爪が何箇所か割れて血がにじんでいた。ロシアは彼の目の前で、肉の裂けた指先を口に含んだ。
「……っ!」
痛くはない。しかし、その生ぬるい異様な感触に圧倒され、彼は反射的に目を強く閉じた。
「自分で自分を抑制してるね、こんな状況でも。潔いのかな?……いや、それだけ彼が大事ということだろうね。恐怖という根源的な感情を抑え込むには、理性では足りない。それ以上の強い感情、想いが必要だから」
「知ったふうなことを……!」
何もかもわかったような口をきくロシアに、プロイセンはかっとしてまぶたを持ち上げた。だがそれは、狼狽の浮かぶ瞳を相手にさらしただけだった。
なんてざまだ。彼は唇を噛んだ。だがロシアは揶揄するふうでもなく、むしろ真面目な調子で言ってきた。
「恥じることはないよ。怖いのは当たり前だから――自分が自分でなくなるというのは」
その言葉に、プロイセンは先ほどこの部屋でロシアから受けた宣告の意味が、いまさらのように脳髄に染み渡るのを感じた。
きみは僕のものになる――それが意味するところが。
→きみのおわりとはじまりと
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