カリグラシリーズの露普の過去話です。
普が露に絆されるというか、いろいろ諦めてしまう感じです。
ちょっと薄暗いかもしれないのでご注意を。
不快な目覚め
意識の扉をくすぐられるのを感じた。清澄な湖の水底から、空高く降り注いでくる太陽の光を見上げるようなイメージが広がる。水面の上にあるであろう空は青ではなく、光のきらめきによって白銀に映る。まるで雪原のように。
体が浮く感覚はないが、視界が徐々に白い世界に接近していくのがわかった。それとともに強い羞明に襲われ、目の奥に鈍い痛みが走る。彼は目を強く瞑りそれに耐えた。そして、痛みの和らぎとともにそろそろとまぶたを持ち上げた――
最初に見えたのは大きく長方形に区切られた模様だった。ぼやけた視界ににじむ輪郭。何度かまばたきをすると少しずつ焦点が合ってきた。
ベージュの地に縦横に走る灰色の線が映じる。
なんだろう、板? いや、木目がない。色合いも不自然だ。だが見覚えのある質感だ。これは……そうだ、天井だ。
回転しない頭は、そんな単純な結論を出すまでに何十秒もかかった。そして、天井が視野いっぱいに広がっているということは、自分は仰向けになっているのだろうということを思いつくのに、さらに一分。その理由については考えようともしなかった。というより、思考という作業自体忘れていた。
そうしてどのくらいの時間、ぼんやりと過ごしていたか知れない。まるで回ってくれなかった頭がわずかながら稼動しはじめたのを感じたとき、プロイセンはようやく発声を思い出した。
「こ、こ……は」
寝返りを打って起き上がりやすい体勢に持ち込もうとして――できなかった。体が動かない。いや、筋肉は主の命じるままに随意運動を繰り出そうと従順だ。けれども外的な力がそれを阻む。
肘、肩、肩甲骨、手首、骨盤、肘、足首。
身じろぐ程度は可能だが、体幹や四肢を運動させる要所に著しい可動制限を受け、結果的に彼はほとんど身動きが取れなかった。
――拘束されている?
そう推測を立てたとき、最初に浮かんだのは驚きではなく、またかという思いだった。というのも、この前に目覚めたときも確かこのような状況だったから。その『前』というのがどれくらい過去のことなのかは見当がつかなかったけれど。
幸い首から上は自由だった。彼は頭部と眼球の動きで可能な限り周囲を見回した。
首から下に全身を覆うように掛けられた、シーツのような白い布。その横から少しだけ飛び出ている銀色のパイプ。くすんだ黄色のカーテン。
どうやらここは病室で、自分はストレッチャーの上にベルトで拘束されているようだ。肩から下は主要な関節に厳重なロックが掛けられている。後頭部を少し浮かすのが関の山だった。
「くそったれが……」
彼は忌々しげに眉をしかめた。だが悪態をついたところで体は自由にならなかった。
「……っう」
覚醒が進むにつれ、嫌な感覚がじわじわと上ってきた。
胸の表層から感じる、むずむずとした不快感。一度察知してしまえば無視することはできない。いや、時間の経過とともに掻痒感は強くなり、また範囲も広がった。胸腹部だけでなく、背中もまた不愉快な疼きを訴えてきた。
爪を立て、掻いてしまいたい衝動が湧き上がる。
左腕が反射的に動いた。胸のかゆみを散らそうとして。
けれども拘束された――おそらくベルトで縛り付けられている――腕はわずかに関節を曲げただけだった。結果は火を見るより明らかだと思いつつ、右腕でも試す。やはりびくともしない。
不愉快な感覚から解放される手立てはないまま、彼は肩をもぞもぞと揺らし、腕を上下左右に細かく振った。無駄だとわかっていても、足掻かずにはいられなかった。
傷が、疼いて仕方ない。
「ちっ……くしょうが」
けれども文字通り手も足もでなかった。不快感に支配され、彼は眉根を寄せてうめいた。その間にもむずがゆさは増大し、いますぐにでも掻き毟りたかった。
目を閉じて、はあ、はあ、と浅い呼吸を繰り返す。けれども視覚を遮断すると、不快感に意識をより強く占められる。どうにかこの掻痒感をやり過ごそう、あるいは気を紛らわして少しでも無視しようと、彼はうっすらと目を開け、外界からの視覚刺激を取り込もうとした。
と、視覚よりも先に聴覚に情報が伝わった。
「起きた?」
音源を探るまもなく、声の主が姿を現した。カーテンレールの擦れる音とともに。
「久しぶりだね。目、覚めた?」
ロシアは持参した丸椅子をストレッチャーの横に置いて腰掛けると、プロイセンの頬にそっと手の甲を当ててきた。
「ぼんやりしてるようだけど……薬が強かったのかもね。僕のこと、わかる?」
指の腹で額を撫でるようにして、前髪を掻き上げられる。プロイセンはされるがまま(なにしろ体の自由が利かないのだ)、目を見開いて彼を凝視した。
なぜこんなところにこの男がいる?
「おまえ……」
「あーあ、こんな、縛られちゃってさあ……」
ロシアはプロイセンに掛けられたシーツを腹の辺りまで下げると、拘束された肩や腕を見下ろして、呆れながら言った。
無様な姿をさらけ出され、プロイセンは悔しさに唇を結びながらも、平静を装って尋ねた。
「何しに来たんだ、こんな辺鄙なとこまで」
ケーニヒスベルク、いや、カリーニングラードは首都からけっして近くない。こんな地方まで足伸ばしてる暇があるのか。言外にそう告げると、ロシアはくすりと苦笑した。
「来たのはきみのほうだよ」
「は?」
「ここはモスクワの病院。だから、きみがこちらまで来たというわけ」
「モスクワ……だと?」
プロイセンは目をしばたたかせた。モスクワを訪れた覚えはない。呼び出しも掛かっていなかったはずだ。自分が最後にこの大都市に来たのは、投降して捕縛され、故郷の地から移送され、そして、この男に――
「……っ」
封じておきたい記憶がふいに脳裏でざわめいた。プロイセンは唇を噛む痛みでそれを散らそうとした。しかし、ロシアがやんわりと指先で下唇に触れてきた。物理的な強制力はないが、無言の圧力を感じ、プロイセンは顎の力を抜いた。この身が彼に逆らえないことを、プロイセンはよく知っていた。
「最近きみが不穏を起こしていると聞いてね、心配だったからこちらに搬送してもらったんだ。あっちの病院でも拘束されてたんだってね。ほんとに眠らされて連れて来られるなんて、ちょっとびっくりしたよ」
短い説明だったが、プロイセンはおおよその合点がいった。カリーニングラードの病院に収容されていたことは覚えている。そのときも手足の自由を奪われていた。そこからモスクワまで移動した記憶はないし、そのような話も聞いていなかったが、ロシアの発言からして、おそらく強い睡眠薬か鎮静剤を打たれたあと、移送されたのだろう。時間の感覚はまるでなかったが、体の節々が痛むところからして、長い間姿勢の変換を許されていないようだと察せられた。
「は……ざまぁねえぜ」
プロイセンは暗く自嘲した。こんな姿を見られるなんて。……もっとも、この男にはこれよりもさらに惨めな姿をさらしたことがあるので、いまさら恥じ入るのは無駄かもしれない。
「向こうのスタッフをけっこう手こずらせてたんだってね。どうしちゃったのかな、ご乱心?」
ロシアの質問に、プロイセンははっと鼻を鳴らした。くだらない疑いを、とでも言いたげに。
「俺が謀反を起こすとでも?」
「いや、それはないだろうね。きみはそんなことは考えない。考えられっこない」
ロシアの手に前髪を梳かれる。その手つきが優しいのが、屈辱だった。警戒する価値もないと判断されているのが、無性に腹立たしかった。いや、事実その価値を失いつつある我が身が情けなくて、苛立った。
プロイセンは悔しげに顔をゆがめて唇をぐっと一文字にしたあと、静かな声を発した。あるいは、弱々しい声を。
「なら……これを解いてくれ。俺は別に暴れてなんかいないし、おまえに対してなんか企ててるわけでもない。住民を傷つける意志もない。誰にも危害は加えてねえぜ。縛っとく必要なんかない」
皮膚の不快感はいまなお続いている。彼は肩を持ち上げる動作をし、動きたいのだと訴える。
「でも、理由もなしに拘束なんてされないでしょう」
「ここは理不尽がまかり通るとこだろが」
プロイセンが皮肉を言うと、ロシアは表情を変えないまま、前触れもなく彼に顔を近づけた。彼のほうは避けることも拒絶することもできない。ロシアは彼の頭の横に手を置いて覆いかぶさるように上半身をかがめると、鼻を彼の横髪にかすめさせ、耳元でささやいた。
「発言に気をつけたほうがいいよ。……どこの仕事場に飛ばされるやら。ウラル山脈の向こう側はいつだって人手不足だから」
耳朶にかかる生温かい息は、プロイセンに悪寒を走らせた。
「はっ、どのみちこれじゃ仕事にならんだろ」
彼は背筋に走るぞわりとした感覚を堪えながら、口先だけでせせら笑って見せた。ロシアはまだ顔を近づけたままだ。あまりに近すぎて表情がまるで見えないのが不気味だった。プロイセンはことさらおとなしい声で懇願した。
「なあ、外してくれ……これ。何もしねえよ、俺は。……できやしない。んなこと、わかってるはずだろ」
傷の疼きが耐え難い。片腕だけでいい。自由を。
無意識のうちに行動としても現れたようで、プロイセンは左腕を先刻のように細かく揺らした。その程度で抜けられるような拘束ではなかったけれど。
ロシアは透明な表情で、静かに彼を見下ろしていた。
→治りかけの傷
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