治りかけの傷
プロイセンの懇願に、ロシアは是も非も示さないまますっと体をどけると、おもむろに布の左側をさらにめくった。触れる外気が少し肌寒い。しかしそれ以上にひやりとしたものを感じ、プロイセンはとっさに拳を握ろうとした。しかし、それもロシアに阻まれる。彼はプロイセンの手の平に自身の人差し指と中指をまとめて差し込んだ。プロイセンがそれ以上握りこもうとするのをやめると、彼はやはり柔らかい動作でゆっくりと指を開かせた。そして、指先を掴んで観察する。
「指、どうしたの」
尋ねられ、プロイセンはぎくりと身を強張らせた。
彼の指先は、爪の輪郭を縁取るようにして茶色に染まっていた。
「血が付いてるね。……きみの?」
こびりついた血液はすっかり乾燥し、塊になった部分に触れるとぼろぼろとこそげ落ちた。
「ねえ、どうしたの、これ?」
質問を畳み掛けられるが、プロイセンは沈黙を守った。言ってたまるか、と自棄にも近い思いで。
ロシアは短くため息をつくと、彼の指をぱっと放してやった。そして、シーツの下にさらにある白い布に手を伸ばした。それは、彼の胸部を部分的に覆うガーゼと、それを止めるテープ。以前執務室で彼の衣類を取り払ったときも、やはりこれらの医療具が顔を覗かせた。もっとも、まったく同一ではない。面積も手当ての厳重さも明らかに小さくなっている。それだけ治癒が進んだということだろう。
ロシアは前と同じようにガーゼを引っ張った。プロイセンは皮膚や粘膜の引き攣りに低いうめきを上げはしたが、以前のような苦鳴は漏らさなかった。ただ、小さな声でやめろとささやくのは同じだった。
プロイセンの制止を無視し、ロシアは彼の傷をあらわにした。
範囲は小さくなったが、傷口はさらに醜くなっていた。もともとの傷の上にさらに走る、何本もの線。どれも酸化した血液の茶色や、滲み出た体液の黄色でじゅくじゅくと湿っぽく染まっていた。真新しい傷痕。剥がしたガーゼの内側を見ると、同じ色の液体を吸って気味悪く変色していた。
ロシアは呆れたため息をついた。
「駄目だよ、自分を傷つけたら」
窘めるというよりは、少し困ったように眉を下げるロシアから目を逸らし、プロイセンはしばし沈黙した。
事情はすでに知られているだろう。新しい傷の原因も、拘束の理由も。けれどもロシアは何も言わず、ただ静かに待っている。プロイセンが自ら話すのを。
なんて体たらくだ。プロイセンは自身に薄い嘲笑を向けたあと、しぶしぶと唇を動かした。
「……仕方ないだろ。傷が、疼くんだ」
「それで掻き毟っちゃったんだ。この様子だと、一度や二度じゃないみたいだね」
ロシアの指が傷口に伸びた。触れられる――プロイセンは緊張に首をすくめたが、接触を感じることはなかった。ロシアの手は宙に浮いたままだ。
不快感ばかりが渦巻く胸と背の皮膚を持て余して、プロイセンはもぞりと可能な範囲で肩を上下させた。
「自傷のつもりはねえよ。ただ、傷が疼いて……痛いってほどじゃねえけど、嫌な感じがして……気が付くと爪を立ててんだ。そんだけだのことだ」
虚言ではない。意図的に体を傷つけているわけではない。
ロシアは彼の言にうなずきを見せると、血液の付着した彼の指先を軽く摘んだ。
「それじゃあなおのこと、自由にはしてあげられないな。解いちゃったら、またきみ、掻き毟るだろうから。皮膚がぼろぼろになるまで。ひどいものじゃないか、この引っ掻き傷。肉までえぐれてる」
まだ乾燥しないうちに幾度となく捲られたであろう瘡蓋の痕。皮下組織の生々しい色が露出している。ロシアは彼の指を放すと、ストレッチャーから一歩退いた。拘束を解除されないまま彼が立ち去ると思ったのか、プロイセンが上擦った声を上げる。
「いやだ……気が狂いそうだ。疼いて……仕方ないんだ」
「かゆい感じがするのかな? でも、我慢してもらうしかないな、これについては。傷がね、治りかけてるんだよ。ようやく治ろうとしてるんだ。治癒過程にある傷がもたらす感覚は不快だろうけど、どうしようもない。治ってしまえば解放される。痛みからもかゆみからも。それまでの辛抱だよ」
ロシアは彼と距離を取ったまま諭した。プロイセンとて彼の説明を理解していないわけではなかった。けれども。
「いや……いやだ……」
この耐え難い掻痒感が、創傷治癒のプロセスによってもたらされている――その事実は彼にとって身体的な不快感よりずっと、心を掻き乱すものだった。
それはつまり、あの街の変貌とつながるものだから。
すでに変わりつつ――変えられつつある街並が、脳裏にフラッシュバックする。破壊の痕跡とともに消されつつある歴史の足跡が、自身の肉体から消えゆく傷跡と重なって、プロイセンは苦悶にうめいた。この傷が消えてしまったとき、自分は自分でいられるのだろうか。
彼の苦しげな表情を見下ろしたロシアが、ふいにストレッチャーに寄った。
「耐えられない?」
ロシアは彼の胸にそっと指の腹を当てると、傷口の周囲の、表皮が再生している部分を軽く叩いた。その刺激でわずかながらかゆみが紛れたことに、プロイセンは安堵の息を吐いた。だがこれだけでは満足できなかった。この煩わしい掻痒感を散らしたい。彼はロシアの指先をじっと見つめた。いましめられた自分の手の代わりに、爪を立て、思い切り引っ掻いてほしかった。肉がえぐれ、皮下組織がこそぎ取られても構わない。この不愉快な感覚から解放されるのなら。
「ぁ……んっ……」
眉根を寄せて閉眼し、かゆみを紛らわす他人の手の接触に集中する。自分の浅い呼吸音が妙にクリアに聞こえた。と、その中に衣擦れの音を察知し、プロイセンはわずかに目を開いた。
「ロシア……?」
下方を見やると、ロシアが彼の腕の拘束を外しているのが見えた。解くことはできないと言っていたのに、なぜ。
ぽかんとしているプロイセンに、ロシアが微苦笑を向けてきた。
「引っ掻いたら駄目だよ? せっかく治りかけてるんだから」
彼はプロイセンを拘束していたベルトを粗方外してしまうと、言外に、あまり動かないようにと指示してきた。そして、プロイセンの肘のすぐ下あたりを掴んでストレッチャーに押さえつけた。
「おい……」
何のつもりだとプロイセンが問う前に、ロシアは上体を倒すと、彼の胸の傷口に唇を触れさせた。一瞬後には、唾液で湿った舌先が這う。あの日、この男に体を奪われたときと同じように。
「……! うっ、あ……あぁ!」
えぐれた傷に染み込む唾液に鋭い痛みを覚え、プロイセンは短く悲鳴を上げた。否応なく、あのときのことが生々しく頭の中で再生され、過去と現在の時間が混ざり合う。
「あ……あぁっ……や、やめろ……」
自由になった肩をよじるが、肘を固定されているので上体を起こすことはできない。彼はストレッチャーの薄いマットを包むシーツに指先を立てた。
「苦い……消毒液かな」
す、と舌を離したロシアが独り言のように漏らす。息を上げながら、プロイセンが切れ切れに言う。
「てめえ、またかよ……なに、しや……がる」
「少しは気が紛れる? 傷が深い分、前より染みて痛いかもしれない。この前は痛み。今度はかゆみ。どっちがつらいんだろうね、きみにとって」
ロシアはプロイセンの腕を押さえたまま、自身の唾液が絡む彼の傷を見た。出血はしていないが、薄く張った再生途中の皮膚が充血して赤くなっているのがよくわかった。
痛覚から解放されると、掻痒感が再燃した。プロイセンは無意識に掻き毟ろうと肩や手首をばたつかせた。
「離せ……離して、くれ……傷が……」
この疼きをどうにかしたい。どうにかしてほしい。浅い呼吸の中、身も世もなく、彼は潤んだ瞳を相手に向けた。
ロシアはしばらく無言のまま彼の濁った双眸を見つめ返していたが、やがてもう一度、今度は先ほどより弱い接触で、彼の傷口を舐めた。
「あっ、あ……くふ……うあ……ぁ、ん……」
段々と、プロイセンは脱力していった。力んでいた手首と指先が緩み、前腕がぱたりとシーツの上に落ちた。ロシアはゆっくりと彼の肘を放してやった。空いた手を彼の両脇につき、体を腕の中に囲う。
「はあ……あ、あぁ……ふ、ぅん……ぁ、や……」
ちくちくとした痛みはあるが、その分かゆみは感じにくくなっていた。むずむずした不愉快な感覚が散らされていくときの、あの特有の快感が脳髄をくすぐる。プロイセンは知らない間に腕を浮かせ、ロシアの頭を手の内で抱くようにして金髪に指を絡めていた。舌の感触が傷から遠のくたび、彼は相手の頭髪を軽く握り、離れさせまいとした。
「ん……」
鼻から息を抜く彼は、ひどく気持ちよさそうだった。
ロシアは真皮の裂け目にうっすらと張った新しい組織に口づけを落とすと、ささやくような小声で呟いた。
「治りを遅くしたところで……いずれは癒える傷なのにね」
そうしてまた、再生途中に幾度となく爪を立てられぼろぼろにされた皮膚をねぶる。
彼の体にいまなお残る根深い傷痕。けれどもいつかきれいに治るだろう。自分が癒すのだから。
→喪失と変化
|