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喪失と変化


 モスクワ滞在は思ったよりも長引いた。幾度となく爪を立てた傷が治ってからもしばらく、プロイセンは首都の病院の一室に置かれた。搬送されてから数日は断続的に手足を抑制されていたが、その後は身体の自由を保障された。行動制限および監視は免れなかったが、ベッドに全身を縛り付けられるのに比べたらずっとまともな待遇だった。カーテンに仕切られた緩やかな閉鎖空間で、彼は何をするでもなく、ただ傷が癒えるのを待って過ごした。
 時折、ロシアが見舞いだと称して現れることがあった。顔を見せないことが最大の見舞いだと言ってやりたかったが、人との接触を極端に制限された状況下では、もっとも嫌悪すべき相手の顔すら、見えないよりはましだと思えた――屈辱的なことに。彼はロシアとの会話にはほとんど応じなかったが、接触は拒まなかった。伸ばされる手を受け入れて、目を閉じる。この男だけなのだ、傷に直接触れるのを許されるのは。治癒途中にある傷の疼きを名状しがたい心地よさに変えられる瞬間がたまらず、彼は吐息のような小さな声を上げた。
 創傷は急速に治癒するものではなかったが、いつまでもそのままで停滞しているわけでもない。体が徐々に回復していくのを感じると同時に、彼は自分の体が変わりつつあることを理解した。暁のまどろみがふいに醒めゆくとき、奇妙な浮遊感がある。肉体が輪郭を失い、気体となって空中に紛れて消失していくかのような。完全に覚醒してからそのときの感覚を思い返すと薄気味悪いが、まだ半分眠りの世界にいる間は、それはひどく心地よいものに感じられた。そうして空気のゆりかごに揺られてから目覚めたあと、彼は己の体を見下ろしては深い息を吐く。自身の肉体がかたちを保っていることへの安堵と、体のどこかが異質なものに取って代わられてしまったのではないかという恐れをない交ぜにして。
 モスクワの病室で考えるのは、いまはもう自分の手の内からこぼれ落ちた故郷の街だった。名前を変えられたあの街は、いよいよ名ばかりではなく、その姿さえ変貌させようとしているのだろう。離れた場所に身を置いたとて、それは理解できる。なぜならあの土地こそいまの自分なのだから。街が変われば、自分もまた否応なく変わりゆくのだ。支配力を剥奪され、自力で存在する力を喪失し、支配を受ける立場に落ちたいまとなっては、変化に抗うことは不可能だった。
 彼がもっとも恐怖したのは、自分の中にこれまでなかった異質さを察知してなお、そのことに対し違和感を覚えないということだった。彼は思考では変化を拒否したが、感情は現況に適応しつつある。それを自覚するたび、彼は深い苦悩と罪悪感に襲われた。
 ――あいつとの絆や思い出が壊され、消され、失われていく。
 激しい喪失感が胸に風穴を開けるようだった。けれども、それもいつかは感じなくなるのだろうか。体の傷が消えていくのとともに、同胞に対する未練や執着もまた消滅してしまうのだろうか。何の痛痒もなく回顧する日が訪れるのだろうか。
 毎日のように繰り返される思考の中、時の流れが感情を磨耗させ、わずかだが確実に順応という名の鈍麻を導いている気がした。いずれ俺は俺でなくなるのではないか――
 彼はベッドに仰向けになったまま、天井に向けて両腕を突き出した。左右の手には、白いグローブ。睡眠中、無意識に傷口に爪を立てないよう、着用を義務付けられていた。外すことはたやすいが、勝手に脱げば腕を拘束されることは目に見えている。
 彼は白い布に包まれた己の手を見つめながら、きつく握り締めた。
「すまない……」
 そしてゆっくりと拳を開き、手首を回して今度は手の平を眺める。指先が少しだけ震えていた。
「すまない……俺はもう、おまえのところには戻れない……おまえとの思い出、否定して、消さなきゃならないんだ……。ごめん、ごめんな……。痛くてもいい、苦しくてもいい、傷のひとつでも残せたらいいのによ……」
 再び対面する見込みのない同胞の姿を胸に浮かべ、彼は謝罪を繰り返した。ごめん――届くはずのない言葉。それでも言わずにいられないのは、自分の中の罪悪感を少しでも軽くしたいからだろうか。
 苦悶に駆られながら、彼はまだかろうじて傷の残る自身の胸に指を置いた。布越しに軽く爪を立てる。醜くて構わない、この身にひとつでも過去の証を残せるのなら。
 彼の切望を嘲笑うかのように、肉体は治癒の過程を歩んでいた。

*****

 大方の傷が癒えた頃、彼は故郷に送還された。
 不快な疼きはほとんど治まっていたが、前科があるためか、はたまた体制そのものに起因するのか、監視生活は続いた。移動の自由はなく、事実上、街に閉じ込められた、いや、街ごと閉じ込められたようなかたちだった。封鎖された港町で、彼は命じられた職務に従事した。
 自分の同胞たる人々たちを、街から追放する――これ以上の辛苦はない。
 けれども苦汁を呑む以外に選択肢はなかった。別の地で彼らがわずかながらでも安寧を得られるようにと願いながら、プロイセンは人々を見送った。いや、去らせた。中には、より過酷な地へと送られた者もいる。自分の民だった人々を助けるには、いまの彼はあまりに無力だった。
 新しい上司や同僚――それは何年か前まで激しくやり合っていた敵だ――とともに、彼は淡々と仕事をこなした。最初の頃は、部屋でひとり泣き崩れることもあった。が、数年間、なかばパターン化された職務と生活に飼い慣らされた結果、やがて涙は消えた。
 苦もなく周囲の人間たちの話すロシア語を聴解し、また流暢に操るようになった頃、彼は勤務先の基地で久しぶりに長身の青年に遭遇した。


消えたきずあと

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