きみに残された場所
東部戦線末期の激しい市街戦によって中心地はほぼ壊滅したものの、郊外に出れば、古い時代の民家はまだ残っていた。住居として十年来与えられていたソ連風建築物のアパートを引き払ったプロイセンは、戦前のドイツ風の家屋へと住まいを移すことにした。林の中にひっそりと立つその家は、まるでゴーストタウンから抜け出たように内外荒れ放題だったが、ここ一週間ほど地道にひとりで修理と清掃に勤しんだところ、なんとか人が住める程度には回復した。
十数年前まではここに同胞たる民が暮らしていた――
家具ひとつないリビングの中央に立って、プロイセンは天井を眺めた。外装、内装ともに馴染みのある建物だ。それは数百年にわたって彼の内部で流れてきた時間を反映するものでもある。
けれども。
いま目を閉じて古い時代を回想しても、驚くほど感慨が湧かなかった。まだロシアの手に落ちたばかりの頃、たとえ破壊の限りを尽くされた街の中心に立っていたとしても、彼は確かに自分の中に自分の歴史を感じたものだった。だがいまはどうだろう。この地に閉じ込められて十年以上が経ったいま、懐かしいはずの建物の内側に立っても、胸にはいささかの感傷も去来しない。むしろ、自分がひどく場違いな存在に思える。時折、昔の自分の姿がいまの自分に重ならなくなる。拭えない違和感。かつての自分が色濃く残る空間にいまの自身を置くことがどうしようもなく居たたまれない。しかし、居場所のなさを感じていながら、同時にこの空間に惹かれずにはいられないのもまた事実だ。
プロイセンは、新しく取り付けられたばかりの窓ガラスを見た。日中なので鏡の代わりにはならないが、それでも光はいくらか反射して、像を映し出す。
平面上には、ソ連の制服を着た青年。
この服に身を包んで、この家屋に足を踏み入れる。
――まるで侵略者だ。
鏡像がかすかに陰鬱な嗤いを浮かべた。彼はそれを見ないまま、くるりと踵を返して居間から出て行った。
玄関の外には荷台の開かれた軍用車が停められている。彼はそこから荷物の箱を数箱引っ張り出すと、胸の前に抱えて家の中に運んだ。
四往復が終わり、五回目の復路を目指そうと荷物を左肩に積んだところで、背後からエンジンの音が聞こえた。基地から無断で拝借した車輌が音源ではない。彼は荷物を担いだまま振り返った。と、数メートル先の舗装されていない道路に、一台の車があった。プロイセンが引っ越し用に勝手に借り出したものと同型だ。まずい、無断借用がばれたかと身構えるプロイセン。
荷物を地面に置き、言い訳を考えていると、運転席からドライバーが降りるのが、ドアの動きでわかった。
プロイセンは習慣的に踵を揃えてつま先を六十度ほど開くと、背筋をまっすぐ伸ばして手を後ろに組んだ。よし、どやされる準備は万端だ。そんな心構えをしていた矢先。
「やあ、久しぶり」
拍子抜けするような明朗な声が響いた。
車体の陰から現れた長身の男は、お馴染みのマフラーの緩みを正しながら笑顔で挨拶してきた。
「なんだ、おまえか」
プロイセンはうっとうしそうにロシアを見たが、体は勝手にきびきびとした敬礼をした。骨身にまで染み付いた慣習としての動作は、心情にかかわらず主の体を正確に動かす。
「相変わらず堅苦しい挨拶するよね、きみって」
ロシアもやはり礼を返してきたが、こちらはぞんざいというか、動きにたるみが見られる。プロイセンは、やるならもっとちゃんとやれと指導してやりたくなった。彼は敬礼していた腕を下ろすと、腰に手を当てて面倒くさげに尋ねた。
「何の用だ。俺は忙しいんだが」
「邪険にしないでよ。忘れ物届けに来たんだから」
「忘れ物だあ?」
胡散臭そうに眉をひそめるプロイセン。ロシアは自分が乗ってきた軍用の小型トラックを指差した。戦車で乗り込まれなくてよかったぜ、とプロイセンは思った。
「きみのアパートを訪ねてみたら引き払われててね、びっくりしたよ」
「引っ越したんだよ。ってか、いまその最中。だから忙しいんだ」
プロイセンは降ろしていた荷物を再度肩に担ぐと、相手に背を向け玄関に向かって歩き出した。二歩遅れてロシアがついてくる。
「うん、職場の人に聞いたよ。でも前の部屋、まだ荷物残ってたよ?」
「それでわざわざ持ってきたのかよ。いらないから置いてったのに」
「捨てるの?」
ロシアが目をぱちくりさせるが、前を行くプロイセンからは見えない。彼は開け放った玄関をくぐると、一定の歩調で廊下を進んだ。
「ああ。勝手に処分してくれ。手間取らせて悪かったな――って、俺が謝る必要ねえよな。おまえが勝手に持ってきただけなんだから」
「じゃあ、処分はこちらでしておくよ」
「そうしてくれ」
ロシアの提案に、プロイセンは素直に乗った。捨てる手間が省けたと思いながら。
居間に入って荷物を壁際に置いたところで、プロイセンはまた玄関へ向かった。その後二往復したところで、彼は荷解きを始めた。たいした量はないようだ。
部屋の出入り口から一歩引いたところで壁に背をもたせかけていたロシアは、運び込まれた荷を見回した。
「それにしても、ひとりで引っ越し?」
手伝いのひとりも頼まなかったのだろうか、と疑問に思ったが、彼の性格からすると、そんな人間関係を構築するスキルがないのかもしれない。彼のほうはそもそも誰かに協力を要請するという発想自体なかったらしく、ちぐはぐな答えを返してきた。
「いいだろ、許可は降りたんだし。ここ、なんかいわくでもあんのか知らねえけど、住み手がつかなかったみたいでな。駄目もとで転居申請してみたら、すんなり通ってびっくりしたぜ。まあ、家ってのはひとが住まねえとあっという間に劣化しちまうからな」
説明しながら、彼は空の本棚を部屋の隅に運んだ。それなりの重量はあるだろうが、軽々とひとりで移動させる。ロシアは所在なさげにその場に立ったまま、
「ひとりで住むには広すぎるんじゃない?」
部屋をぐるりと眺め渡した。リビングだけで、独居用のアパート一室分の面積はありそうだ。
「俺んちは元々こんくらいはあったぜ。まあ、広いと掃除が面倒くせぇけどな」
荒れ放題だった家を住めるようにするのは骨が折れたんだぞ。プロイセンは顎をしゃくって部屋の片隅に放置した掃除道具を示した。そして、再びロシアへと視線を戻す。
「で、結局何の用なんだ。もしかして監視に来たのかよ。いまになって俺が古い家に住むのが気に食わないってか?」
半眼のプロイセンに、ロシアは肩をすくめて見せた。
「それは構わないよ。よくない徴候だと判断されたら、許可は降りないからね」
「別に信頼されてるとは思ってないけどな」
プロイセンはせせら笑うと、テーブルの脚を覆うカバーを外そうと床に膝をついた。自分で梱包したのだが、不必要にきつく縛ってしまったらしく、結び目がなかなか解けない。しばらく指先で紐と格闘していたが、痺れを切らし、素手てちぎってしまった。
そんな乱暴な荷解きをしていると、ふいに視界が翳って手元が見づらくなった。
プロイセンは迷惑そうなまなざしとともに顔を上げる。すぐ横に、長身が立っていた。
邪魔すんなよ。表情で言外に抗議するプロイセンを無視し、ロシアは彼の横に膝立ちになった。プロイセンはますます眉をしかめたが、ロシアは無言だ。
すっ、とロシアは両手をプロイセンに伸ばした。プロイセンは不可解そうに見返しながらも、抵抗や逃避の様子は見せない。
怪訝な面持ちのプロイセンの頬を両手で挟むと、ロシアは彼の額に自分のそれを軽くつけた。そして、低い声でささやく。
「きみは大分、僕に近くなった。思った以上に」
手の中で、プロイセンが目をぱちくりさせる。ひどく幼い表情に見えた。相手の言葉の意味を理解しているのか、いないのか。
「これ以上の同化はきみにとって危険かもしれないよ」
ロシアがゆっくりと手を離す。プロイセンは実感のなさそうな調子で生返事を返してきた。
「へえ」
「危機感がないね」
困ったように苦笑するロシア。プロイセンは皮肉っぽく口の端をつり上げた。
「それでおまえはお情けを掛けてくれたってわけか」
せめて生活の場所だけでも、かつての自分に戻れるように?
そんなものは全部いまさらだろうが。彼は鼻先で笑った。引き返すことのできない道を歩いていることは彼自身がいちばんよくわかっていることだ。そして、自分にそれを選ばせた当の本人が、いまになって何を言い出すのか。
「はは、ちゃんちゃらおかしいってのは、こういうのを言うんじゃねえか?」
プロイセンは乾いた笑いを立てた。ロシアは再度右手を伸ばすと、彼の頬に触れさせ目尻を親指でこすった。彼は気にしたふうもなく、手を退けようとはしない。
「きみにはきみの役割がある」
「仕事はしてるぜ?」
「それは知ってる」
「ならいいだろ」
プロイセンはロシアの手の甲に自分の手の平を添えると、おもむろに立ち上がった。必然的に腕を引かれるかたちになったロシアもまた、腰を上げる。テーブルの前からロシアを下がらせると、プロイセンはテーブルの端を掴んで移動を試みた。
「手伝おうか?」
「自分でやる。おまえのセンスは当てにならん」
変な配置にされたらたまらない、とプロイセンはロシアの申し出を断った。ロシアは無言で引き下がると、ひとりで引っ越し作業を続けるプロイセンを見つめた。自分と同じ制服を着た彼が、この建物の中でソ連製の家具や雑貨を持って忙しく動き回っているのを奇妙に感じながら。
→思い出を片付けて
|