カリグラシリーズの過去にあたる話で、時代はソ連崩壊後しばらくした頃です。
露普ですが割と甘い雰囲気なので、普独/独普好きの方にはおすすめできません。
冬が来たら
数年来じわじわと忍び寄ってきた混乱がいまだ収束の兆しを見せないモスクワに、プロイセンはひとり降り立った。瓦礫の山も焼け野原もないけれど、この巨大な都会にはそこかしこに大小さまざまな傷痕が覗いているように感じられる。
季節は初冬。内陸に位置するこの大都市はすでに本格的な冷え込みがはじまっていた。彼はコートの襟を引っ張って首に密着させ、空気を密閉して保温を試みた。革手袋に包まれた手をポケットに突っ込むと、自然、わずかに猫背になる。中心地へ向かうには、徒歩は少し厳しいかもしれない。だが彼は、久しぶりに訪れる首都――いまでは彼にとってもこの街が都だ――を歩くことにした。第三のローマは、近年の情勢の混乱に加え、冬の装いも手伝っていささか陰鬱な雰囲気だった。
耳がすっかり冷える頃、中央に到着した彼は、荘厳な建築物のひとつに入った。しかし末端に体温を取り戻す暇もなく、彼はその建物をあとにした。往路を途中まで逆戻りし、古びた革靴をいじめながら歩道を行く。鼻や耳がじんじんと冷えて痛み、足の指は少し痺れている。歩くのに支障はないが。
ここは寒いな。
彼は小学生の作文にもなりそうにない感想を抱きながら、肩に掛けたナップザックから耳当てを取り出して着用した。子供っぽいデザインなのであまり着けたくはなかったのだが、背に腹は変えられない。耳当てによって耳介が側頭部に押し付けられると、頭蓋が冷えるような気がした。
大通りを三分の一ほど残したところで、彼は左折した。頭の中に定めた目的地に向けて、迷わず歩を進める。そう馴染みのない土地であっても、案外道順とは覚えているものだ。それが印象的な場所ならば。
*****
冬の寒さの厳しい街では屋内の暖房がよく効かされ、逆説的に薄着で過ごすことができる。もっとも、現況では安定した供給を得られるわけではないので、あまり安心はできないのだが。
本日の暖房は調子がいいようだ。家中が暖かい。けれども閑散とした室内は、視覚的に寒々しかった。
広い家の中、ロシアはひとり、散らかり放題の居間で書類の整理に勤しんでいた。民家なので機密文書などはなく、溜まっているのはもっぱら日誌やメモ程度の文書だ。ただ、思った以上に長年溜め込んでいたらしく、やたらと量が多い。倉庫に段ボール詰めにされて収納されていたのだが、どういった分類基準なのか不明で、作業は予想より煩雑になった。もっとも能率の悪さの原因は、文書の管理のされ方そのものより、作業者が集中力を欠いていることのほうが大きかったが。
「……だめ、だるい」
ローテーブルに書類を放ると、ロシアはソファの背もたれに沈んだ。情勢不安定と経済低迷が深刻な現状では、体調が優れないのも仕方のないことだと理解はしているが、慢性的に纏わりつくだるさは彼を苛つかせた。発熱しないうちに作業を済ませようと考えていたが、こうだるくては仕事にならない。遅々として進まない書類整理を放り出し、彼はそのまま目を閉じた。
が、意識を暗闇に落とす間もなく、静寂が破られる。
「よお。勝手に邪魔してるぜ」
ノックと同時に届く人声。
この家の住人は、いまでは自分ひとりだというのに、なぜ?
ロシアは驚きに体を起こそうとしたが、動くのが億劫だったので、反応としては緩慢にまぶたを持ち上げるに留まった。彼は面倒くさそうに眼球を動かすと、ドアの前に堂々と立つ侵入者に視線をくれた。
「どうやって入ったの。合鍵なんて持ってないよね?」
「んなもんなくたって鍵くれぇ開けられる。俺は器用だからな」
マフラーを外しながら、プロイセンが答える。ロシアはソファに座ったまま、やれやれと肩をすくめた。
「悪用したら駄目だよ」
「活用と言え、活用と」
どうやら空き巣まがいの真似をしたらしい。ロシアは咎めるふうでもなく、ただ呆れながら尋ねた。
「ドアの鍵、壊してないよね?」
「俺は器用だっつってるだろ」
プロイセンは自身ありげにへへんと笑った。寒気にさらされた鼻頭や頬は真っ赤で、小さな子供のようだった。
「う〜……寒かった。建物ん中はあったかいからいいけどよ。しかし、いきなりあったまると手足が痺れていけねえ」
かじかむ手で耳当てを外そうとする彼に、ロシアがちょっと眉をしかめた。
「その耳当て、子供向けじゃないの?」
耳当ては冬の陰気さを払拭させたいかのような、南国的なカラーリングだった。その配色の鮮やかさが許されるのは、せいぜいローティーンまでだろう。どう考えても成人男子の防寒具ではない。
「これしかなかったんだよ、家に」
「むしろなんでそんなのがきみの家にあるのかな……」
結局耳当ての謎は迷宮入りだった。わかったことといえば、プロイセンに防寒具を新調するだけの余裕がないということくらいだ。まあ、余裕がないのはロシアとて同じなのだが。
プロイセンはコートを脱ぐと、壁際の洋服掛けに勝手に引っ掛けた。寒い屋外から急に暖かい部屋に入ったためか、鼻水が出てきたので、無断でティッシュを取って鼻をかんだ。指の痺れは大分取れてきた。
「どうしたの。きみが来るなんて珍しいね」
姿勢を正そうともせず、ロシアはソファに背をつけたまま話し掛けた。プロイセンはちり紙をごみ箱に放ってから、相手を振り返った。
「実家がゴタついててな、困ってるんで窮状訴えに中央に来たってわけ。ちとクレムリンに顔出してきた。まあ、お偉方があの調子じゃ何かと後回しにされそうだけどよ。ってか、おまえてっきりあっちにいるんだと思ってたんだが、お暇もらってるんだって?」
療養してる暇があるのかよ、とプロイセンが突付いてきた。ロシアは部屋に散乱する書類の山ならぬ洪水を視線で示した。
「この家にも、整理しなきゃいけないものがいろいろあるからね、こっちで仕事してるの。自宅だっていうのに、どこに何があるのかいまいちわからなくて」
「秘書任せにするからだ。俺なら自分で整理するぜ」
秘書が出ていったら途端にこれとは情けない。プロイセンは鼻で笑いながらも、床に落ちた文書を適当に拾い上げて整えると、ぱらぱらと捲って目を通した。
「きみは大好きだもんね、分類と整理整頓。さすがドイツ人。なんなら手伝ってくれる?」
「手伝ってやらんこともないが、俺はこういうの半端なく細かいぞ。厳然たる基準を設定してから徹底的に細分化し、分けて分けて分けまくってやる」
脅しとも本気ともつかない口調で拳を握りながら意気込むプロイセン。ロシアはあっさり前言撤回した。
「やっぱやめる。ノイローゼになりそう」
「はは、いい判断だ」
プロイセンは拾った書類をテーブルに置いた。端からきっかり二センチ内側に。ロシアは呆れと感心を覚えないではなかったが、だるさと眠気が勝ってコメントする気にはなれなかった。
ロシアが無言でいると、プロイセンが腰に手を当てて室内を見回した。ソファ、ローテーブル、カーペット、本棚、サイドボード、電話、テレビ、照明、丸椅子、空調……家具も電化製品もひと通りは揃っている。西側に比べれば旧型ばかりなのだろうが、長らくそちらの様子を目にしていないプロイセンには、比べようがなかった。
「すっかりガランとしてるな。殺風景ってわけじゃねえけど」
ざっと見た限り、部屋の備品は特に変わった様子はないのに、中が妙に寒々しい。
「出て行った子、けっこういるからねえ」
少し前までこの家に暮らしていた者たちの気配がまだ残っている。けれども本人たちはもういない。その事実が余計に人気のなさを強調し、空間に寂寥感を与えていた。
プロイセンはソファの背もたれに手をついて腕を伸ばした。
「ああ、あのトリオは動くの早かったな。ったく、おかげでこっちはまた飛び地だっつーの。出入り制限が緩和されても、これじゃ結局意味ねえじゃねえか」
背後でぼやくプロイセンに、ロシアがちらりと目をやる。
「リトアニア、すんなり通してくれた?」
「知らん。勝手に通った」
「ばれないようにしてね」
「任せろ。抜かりはない」
「そう。それはよかった」
短い会話を交わしたあと、ロシアは再び沈黙に陥った。言葉が見つからないのではなく、声を発するのが面倒くさい様子だった。プロイセンは腕を突っ張ったまま、ロシアの頭頂部を見下ろした。視線を感じているだろうが、ロシアは何も言わず、また身じろぎもしない。やがて、プロイセンが低い声でぼそりと尋ねた。
「落ち込んでんのか」
やや遅れて、ロシアが答えた。
「見てのとおり」
「酒に走ってないのは評価できるぜ」
「ウォトカは楽しい気分で飲むものだよ。あと、寒いとき」
「寒い季節だろ」
「寒さはこれから」
ロシアの言い分は一理あった。確かに、モスクワの冬ははじまったばかりだ。だが、プロイセンは胸中で指摘してやった――おまえは年中飲んでるだろうが、と。そして、それを踏まえたうえで皮肉っぽく言ってやった。
「……飲んだくれる気力もねえってわけか。はっ、重症だな」
軽薄な笑いを立てながら、プロイセンは行儀悪く背もたれに足を乗せると、そのまま跨いでソファに腰を下ろした。人ひとり分の体重が衝撃とともに加わったソファが悲鳴と抗議の声を上げた。
ぎし、と音を立ててソファが揺れるが、ロシアは注意もせず、ただぞんざいに姿勢を崩して座っていた。プロイセンは、マットの上に放られた彼の右手の上に、自分の手を重ねた。そして、視線を虚空にさまよわせたまま、ぽつりと言う。
「……俺はいるぞ」
それだけ告げると、プロイセンは反応を返してこないロシアの手を上から軽く握った。
しばし、沈黙。
そうして三十秒ほども経ってから、小さな答えが返ってきた。
「うん……」
プロイセンは相変わらず目を合わせないまま口を開いた。
「俺にも移動の話はちらっと出た。でも、結局お流れになった。このままおまえとの腐れ縁は続くだろうよ」
「そうみたいだね」
プロイセンは片足をソファに乗せると、背もたれに手を置いて横向きになり、ロシアを正面にとらえた。
「つらいのか」
「……少し」
うつむき加減のロシアだったが、返答は素直なものだった。
プロイセンは腕を相手の両脇の下に伸ばすと、背中に手を回してぐっと自分のほうへ引きつけた。ソファのマットの上に膝立ちしているので、ロシアの頭が彼の肩の辺りに来た。彼は何の言葉も発しないまま、ただ静かにロシアを抱き締めた。ロシアはしばらくの間何もしようとせず、腕をだらりと垂らしていた。しかし、一分ほどしたところでゆっくりと腕が持ち上がり、その手はプロイセンの背に触れた。
きゅ、とプロイセンの服の背を握る。最初はやんわりとしたものだったが、彼の胴を抱くロシアの腕の力は徐々に強くなっていった。抱き締め返してくる力が思った以上に強くて、プロイセンは息苦しさを覚えた。この馬鹿力め。罵りの言葉が胸に浮かぶが、声には出さない。背骨が軋みそうだと頭の奥で感じたが、制止はせず、相手のしたいようにさせてやった。
→エンパシー
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