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他己紹介、自己紹介


 再び一堂に会することになった四人だが、ロシアを除いて笑顔はない。カーテンの内側は、錆びた歯車を無理矢理回すような軋んだ空気に包まれた。
 ロシアは背筋を伸ばして来訪者に対面すると、服の皺を伸ばした。ベッドの足元ではフランスが柵を掴んでやや前傾姿勢を取ってプロイセンのほうを覗き込んでくる。ドイツは兵士のように直立不動の姿勢だ。
 自分だけベッドに座っているのが落ち着かず、プロイセンは床に放られた靴――ロシアに渡された着替えの中に一緒に入っていた――につま先を突っ込もうとしたが、
「きみは座ってていいよ。まだ点滴終わってないんだから」
 ロシアが軽く肩を押さえて制してきた。上方につるされた輸液パックを指差しながら。無色の液体は、残り三分の一ほどまで減っていた。
「丸椅子なら向こうにあるけど、使う?」
「いや、このままでけっこうだ」
 ロシアの勧めを辞退し、フランスはこほんと咳払いをした。
 改めてプロイセンのほうを眺める。ベッドサイドから脚を垂らして座り、ふたりに対し体の側面を向けている。少しだけロシアの陰になっているが、顔は十分見て取れた。
 懐かしい顔だ。
 トランク事件のときはあまりにぶっ飛んだ状況だったし格好が格好だったのでしみじみと感情を噛み砕く余裕がなかったが、こうしてゆっくりと観察すると、何もかもが記憶の中の彼の容姿と一致した。けれども同時に、何か異質な印象を受ける。
 ドイツを横目で見やると、フランス以上にじっとプロイセンを注視していた。不躾なまでに。固定した視線の外し方を忘れてしまったかのようなまなざしだ。
 プロイセンは注がれる熱視線に耐えながら、じっとその場に腰を下ろしている。気まずそうに唇をへの字に曲げ眉間に皺を寄せて、けっして目を合わせようとしない。左手で自分のズボンの布をぎゅっと握り締めている。手の平の汗がきっと染み込んでいることだろう。ロシアは興味深そうにプロイセンを見下ろしている。
 重苦しい沈黙が浸透しつつあるのを悟り、フランスは率先して話題を切り出した。
「あー……正直どういう順番でものを尋ねたらいいのか迷ってるところだが……とりあえずそいつについて説明してくれないか? ってか、もしかしなくてもプロ――」
 単刀直入に尋ねようとしたところで、ロシアが彼の語尾にかぶせるようにして答えた。
「ああ、そういえばまだ何も紹介してなかったね」
 と、ロシアはプロイセンを手で示す。
「彼はうちの子だよ。今回はオブザーバーとして来てもらったんだ、明日の会議のためにね。順番が逆になっちゃったけど、改めて紹介させてもらうよ。いまそっちのほうでも話題のカリーニングラード。ほら、挨拶して」
 ロシアはプロイセン――カリーニングラードと呼んだが――の体をふたりのほうへくるりと反転させると、背側から腕を回して彼の左手首を掴み、左右にゆらゆらと振らせた。挨拶の仕種のつもりらしい。
 促されたプロイセンは、口を何度か開閉させたあと、ためらいがちにやや小さな声で言った。
「ど、どーも、ロシア連邦のカリーニングラード州でーす……」
 ぎこちない棒読み口調でそう名乗る。
 首を横に向けたまま自己紹介の自己紹介に、ロシアが彼のおとがいを親指と人差し指で摘み、くっと正面を向かせた。
「ちゃんと相手の目を見ようね。失礼だよ」
「ちっ……」
 もっともな言い分でもって注意されたプロイセンは、忌々しげに舌打ちするも、強制的に前を見ざるを得なかった。眼球運動までは制限されていないので目線を逸らすことは可能だが、同じ注意をもう一度受ける羽目になるのはわかりきっていたので、思い切ってフランスとドイツを正面にとらえた。
 フランスは赤い双眸とロシアの顔を交互に見ながら、
「カリーニングラード?」
 疑念を隠そうともしない調子で尋ね返した。しかしロシアは当たり前のように首を縦に振るだけだ。
「うん、そう。名前は知ってるでしょ? リトアニアが一人暮らしに戻って以来飛び地になっちゃって、いろいろ大変なことになってるから、そっちでもそれなりに有名じゃない? 残念ながらあんまりよろしくない意味で、だけど」
「いやいやいやいや、プロイセンだろこいつ!?」
 滔々と紡がれるロシアの説明に、フランスは思わずボリュームを上げた。相手の言葉を否定するように、手の平をぶんぶんと振りながら。
 ロシアは答えず、プロイセンの手を放しやると、気をつけのポーズを取った。にっこりと微笑みながら見下ろしてくるロシアを恨めしげにねめつけつつ、プロイセンもまた何も言わない。
 フランスがどうリアクションすべきか迷って口をぱくぱくさせていると、ドイツがふいに一歩前に出た。プロイセンは小さく息を呑み、ぎくりと身を固くした。裁判で判決を待つ被疑者のような緊張した面持ちだ。対照的に、ドイツはこれといった表情を見せない。
 フランスは肝を冷やしながらも、彼らを見守った。ロシアだけは、何もかもを把握しているといった様子で、超然と構えている。
 無言のプレッシャーが痛い。プロイセンはドイツが言葉を発するのを恐れる一方で、もういっそひと思いに済ませてくれ、となかば捨て鉢な気持ちになった。沈黙という名の待ち時間は実際にはほんの数十秒だっただろうが、体感時間は何十倍にもなっていた。
 やがて、ドイツはプロイセンをまっすぐ見つめながら言った。
「ふむ……おまえがカリーニングラードなのか。事前に連絡は受けている。俺はドイツだ。こっちはフランス。明日の議題にはおまえの家の問題が挙がる。ぜひオブザーバーとして有意義な参加をしてくれ」
 そう告げるドイツの口調は、平生と変わらぬ真面目腐ったものだった。そして、相手の前にすっと右手を差し出した。が、一瞬の淀みのあとその手を引っ込めると、
「左で失礼」
 と断ってから左手を出してきた。プロイセンはドイツの一連の行動にしばしぽかんとしていたが、彼の手が視界の中央に入ると、はっとして目をしばたたかせた。一瞬どういう意味かと勘繰ったが、すぐに、こちらが右腕を点滴に使っているのを考慮してのことだろうと理解した。
「お……おう、よろしくな」
 プロイセンは少々不自然なトーンで挨拶を返すと、ドイツと握手を交わした。接触した面から、互いの体温や皮膚の感触、手の平の厚みが伝わる。プロイセンは思わずその手を強く握った。すると、一秒と経たないうちにドイツが同じようにぐっと握り返してきた。
 伝わってくる体性感覚が胸を熱くする。プロイセンは目を閉じると、はあ、と息を吐いた。まだドイツの手は放さない。
 が、それも束の間のことだった。
 しばらく呆気に取られて言葉を失っていたフランスが、ふいに現実に引き戻されたらしく、髪の毛を振り乱しながらドイツのほうへ顔を向けた。
「ちょっ……ド、ドイツ!? おまえなにあっさり納得してんだよ! どっからどー見てもプロイセンじゃんこれ! 親戚だろ、忘れてやるなよ! それともなんだ、おまえなりのボケのつもりなのか!? あるいは現実逃避!? だったらこっちに帰って来いドイツ!」
 ドイツのお手本のような大人の対応に、フランスは彼の二の腕を掴んでゆらゆらと上半身を揺すった。と、プロイセンと握手していた手が外れる。
 フランスの肩を押さえつつ、ドイツは冷静に言う。
「落ち着けフランス。確かによく似ているが……別人だろう」
「いや、同一人物だろ! DNAレベルで一致してる顔だぞ!」
「アメリカとカナダもそっくりじゃないか。おまえは区別がつくようだが、俺にはさっぱりだ」
「そりゃ、カナダは髪質が俺似でイケてるからな……って、いまは北米関係ねえ! ってか、これはそれ以上だろ! まったく同じ顔してるじゃん。なんで別人だって言い切れるんだよ」
 納得のいかないフランスは、プロイセンをびしりと指差しながらドイツに詰め寄る。ドイツは、フランスの激しい反応に不可解そうに首を傾げた。そして、当然のことのように答える。
「あいつがこんなところにいるはずないだろう」
「おまえさあ……思い込みもたいがいにしとけよ?」
 フランスが非難めいた調子で言うが、ドイツはやれやれと頭を振る。
「フランス、おまえこそ現実を鑑みろ――あいつはもう、いないんだ」
 どこか寂莫とした声と、遣る瀬なさの見え隠れする瞳。
 フランスは続けるべき言葉に詰まった。確かに本人及びロシアから確定的な言は取っていない。しかし、ここに座っているのがプロイセンでないとも思えない。少なくともフランスはそう感じていた。だが、ドイツは違うのだろうか。これについてはフランス以上に敏感そうなのに。
 目の前の男をプロイセンと認識できないのか。したくないのか。はたまた後者が原因で前者が結果なのか。ドイツの心理をはかりかね、フランスは弱ったように自分の横髪を手で梳いた。そして、プロイセンのほうに向き直ると、
「なあ、おまえ、プロイセンだろ?」
 確信の色をにじませながらダイレクトに問う。が、プロイセンはこの質問に対し肯定も否定もしなかった。
「さっき紹介されたとおりだ。もう忘れたのかよ、鳥頭め」
「じゃ、カリーニングラードか」
「ああ」
 今度はうなずく。と、フランスが立て続けに尋ねる。
「ってことは、ケーニヒスベルクだよな? ドイツの――プロイセンの」
 プロイセンはさっとまぶたを下ろし、呼吸をしてから、静かな声音で答えた。
「……古い名前だ」
「どれが?」
「どれも」
 プロイセンは質問者たるフランスではなく、その横のドイツのほうへ、窺うようにきょろりと眼球を向ける。が、結局、相手の表情を見る前に目を伏せてしまうと、顎を引いて斜め下に視線を落とした。
 どの面下げて対面すればいいのか、いまだにわからないままだ。


消えたもの

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