text


消えたもの


 こんなにうつむいてばかりのやつだっただろうか。
 フランスはプロイセンの金髪を見下ろしながら、反語を交えて胸中でうそぶいた。数百年の付き合いがあるが、彼が顔を伏せるイメージはついぞなかった。いま、眼前にあるような姿は。
 腑に落ちない印象を覚えつつ、フランスは顎に手をやった。
 唇を一文字にして顔を背けたままのプロイセンの背を叩き、ロシアが注意を引く。
「点滴、終わったようだよ」
「ん。やっとか」
 プロイセンは輸液パックを見上げると、次に自分の右腕に視線を移動させた。テープで腕に留められていた細いチューブの根元を掴むと、ためらいもなく無造作に、勢いよく引っ張った。音もなく針が抜ける。
「もう、勝手に針抜いて」
 咎めるように言いながら、ロシアは針の刺さっていた部位のすぐそばを指で強く押さえてやった
「圧迫すりゃ、こんくらいの出血すぐ止まるだろ」
 プロイセンはロシアの手を外させると、自分の指で血管を圧迫して止血を試みた。指先にいくらか血が付着する。
 三十秒ほどして、彼は腕を押さえたままゆっくりとベッドから立ち上がった。まだいくらか出血の続く腕をサイドテーブルのサングラスに伸ばし、蔓を開いて耳にかける。そして、とんとんと革靴の中に踵を収めると、ドイツの横を通過しようとした。
「どこへ行くんだ」
 移動するプロイセンを目で追いながら、ドイツが訪ねる。プロイセンは振り返らずに答える。
「便所だ便所。用くらい自由に足させろ。手も洗いてえしな」
「ひとりで大丈夫か」
「もう平気だ。とりあえず水分もエネルギーも補給したし。ってか、だからトイレ行きたくなったんだよ。わかるだろ」
 プロイセンは少し萎えた脚をごまかすように、ゆっくりとした歩調でカーテンの外側に出た。不安定な足取りを見せないように気をつけながら。
 出入り口の扉を開き、医務室から出て行く。さすがにトイレにまで同伴しようとするものはいなかった。ロシアにしても、この期に及んでプロイセンが逃げ出すとは考えていないだろう。
 残った三人は、完全に沈黙に陥っていた。時折ロシアが、何か聞きたいんじゃないの、とでも言うように、ちらりちらりとドイツとフランスに目線を投げてくる。もちろん聞きたいことは山とある。が、何から尋ねるべきか整理がつかないし、状況も不透明なので下手に切り出すのははばかられた。ここは非公式な場だが、半日後には会議室での対峙が控えている。こちら側の動揺は見抜かれているし、予測済みなのだろうが、程度や質について、わざわざロシアに情報を与えたくはない。
 フランスが現状及び明日の仕事について思考を巡らしていると、ドイツがロシアを一瞥した。何を言う気だ。フランスが警戒を掻き立てられていると、
「例のトランクのことだが、おまえの宿泊先に送るよう手配しておいた」
 ドイツは控え室での約束を履行した旨をロシアに伝えた。
「あれ、そうなの? わざわざありがとう」
「それはいいが……もう使うなよ、ああいう用途では。トランクは人を運ぶ道具じゃない。説明書にそう明記されているのかは定かではないが。今度確認しておこうと思う」
「やだなあ。帰りは急ぎじゃないし、詰めたりしないよ。今回はほんとに緊急だったんだってば。いつもあんなふうに運んでるわけじゃないからね? それじゃ僕だって大変だし」
 ドイツに釘を刺され、ロシアは苦笑しながら腕を広げて見せた。
 と、前触れもなく扉がスライドされる音が響いた。
 カーテンの向こうを見やると、プロイセンがばつの悪そうな顔で廊下に立っている。やけに早いな、と思っていると。
「場所がわからん……」
 プロイセンがぼそりと言った。ドイツはおもむろに彼のほうへ歩いて行くと、扉の枠に手をついた。黒いレンズ越しにある双眸を窺おうとこっそり上から覗き込んでみたが、結局何も見えなかった。
「右に曲がって、最初の角をもう一度右折したところだ。男子用は手前の入り口だ。間違えないようにな」
「そうか。どうも」
 指差しを交えて教えてきたドイツに簡単に礼を言うと、プロイセンはすぐに踵を返した。

*****

 洗面所で手を洗うついでに、サングラスを外してざぶざぶと水で顔を濡らす。捲くった袖や襟元に水滴が飛び、繊維に染み込んだ。 ハンカチを持っていないことに気づき、彼は犬が水気を飛ばすときのようにぶるぶると勢いよく頭を左右に振った。
「あー……生きた心地がしなかったぜ。あの狭い空間にあのメンバーって、濃すぎるだろ」
 手の平で顔面を上から下へとこすりつけ、三十センチ先にある鏡に映った自分の顔とにらめっこをしながらぼやく。ロシア、ドイツ、フランスに囲まれること十数分、神経をすり減らし続け、この上なく心安らがないひとときだった。しかし、明日はさらにきつい時間が待ち受けている。これは確定事項だ。
「はあ……会議出たくねー……」
 洗面台の陶器に手を突き、彼は疲れきった商社マンよろしく肩ごとがっくりとうなだれ、深々とため息をついた。
「いきなりEU相手ってきつすぎるだろー。俺はCISはおろか連邦内の会議だってろくに出たことねえんだぞ、機密扱いのせいで。そりゃ国際経験あるけど、ブランク半世紀あるんだぞ。ロシアの野郎、ちっとはリハビリってもんを考えろってんだ」
 ソ連時代ずっと封鎖されていたのに加え、飛び地になって以降は最近まで中央に放置され気味だったため、いまだに彼は国際的にはもちろん国内でも得体の知れない存在とされている。さすがにリトアニアやベラルーシは浅からぬ関係があるので、彼の正体を知っているわけだが。
 盛大な独り言をぐちぐちと漏らしながら、彼は上体を起こした。
 視界に自分の鏡像が入ったとき、そこに映る像がひとつ増えていることに気づいた。
「よお、調子はどうだ?」
 彼が背後の存在に気づくと同時に、相手が話しかけてきた。
「フラ……!」
 プロイセンは反射的に体ごと振り返った。
 一メートルほど後ろに立っていたのはフランスだ。いったいいつの間に。気配を消してやがったな。プロイセンは不覚を感じるとともに、鏡の下の台に置いたサングラスを取り、慌てて掛けようとする。が、二歩進み出たフランスがフレームをやんわりと掴んでくる。
「おいおい、さっきまで素顔さらしてたんだ、いまさら隠すことないだろ。それとも、まだ隠さなきゃならない理由でもあんのか?」
 フランスはプロイセンの手からさっとサングラスを奪った。
 トイレなんて誰が来るかわかったもんじゃねえだろ。プロイセンは相手をにらみつけた。
「お、懐かしい目。まあ、怖くねえけどさ」
 意味深長にそう言うと、フランスはプロイセンの上腕を掴み、横に何歩か移動する。
「おい……」
 プロイセンは引かれるがままに足を横に出した。と、片足が地面から完全に離れたとき。
「わ……!?」
 いきなり前方に強く引っ張られ、つんのめるのを耐えるようとそのまま何歩か進み出た。フランスの横を通過したと同時に、どん、と背中を突かれ、さらに前へ行かざるを得なくなる。その先にあるのは、個室だった。
「てめ、何を……!」
「うん? ゆっくりお話できるようにと思って。俺なりの気遣いだよ」
 個室に押し込まれたプロイセンがトイレのタンクに手をついて振り返ると、フランスまで中に入ってきた。定員一名の狭い空間に大人の男がふたり、無理矢理収まる。フランスは後ろ手に扉を閉めて鍵を掛けると、プロイセンを正面に向かせた。
「で、なんでしらばっくれるんだ、プロイセン?」
 フランスはドアに背をつき腕組みをすると、落ち着いた、しかし低いトーンでそう尋ねた。
「……………………」
「だんまりか。まあいい、勝手に話は続けさせてもらう」
 プロイセンが答えないのを予測していたのか、フランスはさくさくと話題を進める心積もりのようだ。
「まずは仕事の話だ。これについちゃおまえにも答える義務はあるぜ? 得体の知れないやつを会議に入れるわけにはいかないからな」
「話なら上に通してからにしろ。勝手なことは言えん。それから、すでに自己紹介はしたはずだ。正体不明ってことはねえだろ」
「上って、ロシアか?」
「そうだ」
 即答したプロイセンに、フランスはしばし考え込むように自分の下顎を押さえた。顎を引き、剣呑な上目遣いで確認をする。
「……おまえ、さっき自分で名乗ったよな、『ロシア連邦のカリーニングラード州』だって」
「ああ」
「つまり、おまえは名実ともにロシアのものってわけか」
 フランスが嘲笑混じりに言った。しかし、プロイセンは反発や動揺を微塵も窺わせない。
「言葉の通りだ。素直に解釈しろ。難しいことは何も言っていないはずだぜ」
「自分でも認めてるってことね」
「事実を事実として述べたまでだ」
 質問と応答の関係が微妙に噛み合わない。はぐらかしのつもりかと感じ、フランスは直球を投げることにした。
「《プロイセン》はどうしたよ」
「なぜ俺に聞く」
 プロイセンは平静な声で聞き返した。しかし、瞳がわずかに揺れるのは抑えられなかったようだ。フランスは彼の表情を漏らさず観察しながら、話を続ける。
「おまえはロシアよりゃドイツと関わりが深い土地のはずだからな。七世紀分の歴史を忘れたか?」
「……消滅した。とっくの昔に。知っているだろう」
「じゃ、その後やつはどうなった?」
「消えたんだろ」
 フランスは、ふうん、とうなずいて見せた。そして、両手を肩の高さまで持ち上げると、プロイセンの耳の横を通り越し、後ろの壁に手の平をついた。相手を腕の中に囲うように。プロイセンは背を逸らして背後のタンクに体重の一部を預けるかっこうとなり、少々姿勢が苦しそうだ。
 しかし、フランスは構わず、彼にずいっと顔を近づけた。
 プロイセンは一瞬顔を逸らそうとしたが、思いとどまり、相手を正面からにらみ返す。
 フランスはそんな彼の態度に満足するように口角を上げる。だが、それもほんの一瞬のことだった。
「……なら、おまえはいったい何者だ? やつが消えて、おまえが現れたのか?」
 フランスの冷徹な声音に、プロイセンはぐっと唇を強く結んだ。そのまま唇を噛みたくなる。
 自分がいつ、いまの自分になったのか。意図せずその過去が思い起こされて。


偽りではないけれど

top