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偽りではないけれど


 ――そんなのは認めない! 絶対に嫌だ! 認めるものか!
 ――いやだ、いやだ、いやだ……!
 ――いやだ、やめろっ、いやだ……! 俺はっ……!
 過去の声が残響のように現在に届く。生きてきた時間を考えれば、それほど古くない記憶。遠いのか近いのか。どちらでもあるように感じられる。はっきりしているのは、それが確かに過去の現実に存在した時間であるということだ。
 …………………………。
 珍しく冷たい表情を崩さないフランスの前で、プロイセンはわずかに頭を振った。呼び起こしかけた記憶を振り払うために。
 彼はなるべく静けさを保つよう自身に言い聞かせながら口を開いた。
「最初の質問については、それこそ自己紹介のとおりだ。二番目については……」
 と、数秒の空白を置いてから、
「肯定も否定もしようがねえな。見方次第だろう」
 曖昧に答えた。しかしそれでも、多少のヒントを与えたことにはなるだろう。
 俺はこいつに、こいつらに、自分をどうとらえてほしいんだ? 俺だとわかってほしいのか? それとも、別人として扱ってほしいのか?――プロイセンは胸中で自問した。心なら、五十年も前に決まっていたはずなのに。ロシアに膝をついたあのときから。けれども、いざこうしてかつての知り合いに向き合うと、心が揺るがされるのがわかった。
 思考の波にさらわれたプロイセンは、無意識のうちに視線を下げていた。と、フランスの低い声が鼓膜を揺らす。
「……変わったってことか?」
「答えはひとつ前に同じだ」
 プロイセンは顎を引いたまま、眼球を上方に動かして相手を見た。
「なるほど、俺たちの知るプロイセンはもういないってわけね」
 フランスが挑発的な口調で、ある種の納得を示して見せた。プロイセンはやはり肯定も否定もしない。回答それ自体を拒むように。
「おまえが何を知っていたのかは知らねえが……そいつの名前がすでに地図にねえのは確かだろ」
「そうだな、プロイセンの名も、ケーニヒスベルクの名も、もうない。あるのはカリーニングラードだ」
 フランスは右手を壁から離すと、納得したことを表現するように、わざとらしく腕を曲げて右肩をすくめた。
「ふん、やっと理解したのか」
 プロイセンが吐き捨てるように言う。ようやく腕の囲いから少し抜け出すことができたので、重心を移動させ立位の安定をはかる。
 だが、フランスは左腕を折り曲げると、左半身を前にして傾斜を掛け、ぐいっと相手との距離を詰めた。鼻先数センチの位置にプロイセンの顔をとらえる。
「で、おまえはそれを許容しているのか」
「許容も何も……俺は俺でしかねえ。そんだけだ」
「ずいぶん腑抜けた発言だな。正直失望したぜ」
 演技掛かったため息とともに、フランスは肩を落として見せる。
「はん、何を期待してたんだか」
 プロイセンは、どけよ、とフランスの肩を押した。フランスはそれに応じて少し後方に退いたが、改めて右手を持ち上げると、プロイセンの頬に触れるか触れないかのところまで指の背を近づけた。
「五十年も囲われてりゃ、性格も変わっちまうか?」
 せせら笑うフランス。あからさまな挑発だ。試してやがる。プロイセンは即座に理解した。自分が乗ろうが流そうが、フランスにとっては現状把握の材料になるということも。
 ならば、とプロイセンは犬歯をわずかに覗かせた。
「囲われるだぁ?」
 そして、フランスがしたのと同様に、鼻で笑う。
「はっ……そんなかわいらしいもんじゃねえよ」
 相手と同じくらい芝居がかった調子で言ってやったつもりだった。
 だが、その目は暗い光をたたえていた。プロイセン自身に自覚はないのかもしれないが、フランスはそこに偽ることのできない感情の渦を見た気がした。
 プロイセンはさもうっとうしそうにフランスの手を払った。フランスは今度こそ本当に体を引いてやると、個室の鍵を開けた。出ろよ、と視線で促す。プロイセンは数秒ためらったが、すぐに外へと足を進めた。フランスは入り口に立ったまま、彼の背を見つめた。
 視線を感じたプロイセンは振り返りたい衝動に駆られたが、それこそ相手に操られているような気がして、思いとどまった。そのまま立ち去ろうと床を蹴ったとき、フランスが彼の肩を掴んで強引に振り返らせた。
「なんだよ、まだなんかあんのか」
「忘れ物だ。借り物なんだろ、これ。なくしたら大変なんじゃね?」
 フランスはプロイセンから奪っていたサングラスを、手ずから彼に掛けてやった。冗長なまでにゆっくりとした動きで位置を調節してやると、そっと手を離しながら、
「ま、せっかくオブザーバーやるんだ、明日の会議はしっかり聞いてろよ。ああ、そうだ、席はロシアの後ろに用意しとくから。じゃあまたな、カリーニングラード」
 露骨な強調を加えて、自己紹介のとおりの名前で呼んだ。
 プロイセンはくるりと回れ右をし、ぎゅっと両の拳を握り締めると、肩を怒らせながら足早に廊下へと出て行った。
「あーあー、なんかかわいくなっちゃってまあ……」
 フランスは去っていった彼の後ろ姿を見送りながら、無精髭の生えた顎をさすった。触ってから、手を洗っていないことに気づいた。
 まあ、そこまで神経質じゃねえし、このままでもいいか、と洗面台には引き返さず廊下を歩き出そうとしたところで、
「よっ、フランス、話は終わったんか」
 男女のトイレの間に設置された用具室から、名前を呼ぶ声がした。今日はよく呼び止められる。
「盗み聞きは感心しねえぞ、スペイン」
 ドアを開いて出てきたスペインに、咎めるふうでもなくフランスは応じる。用具室は、先ほど彼らが籠っていた個室の壁一枚を挟んだ裏側にあたる位置だ。イタリア兄弟とシエスタ中かと思っていたが、腕時計を確認すると、とっくに起床時間を回っていた。オーストリアに事情を聞いたか、あるいはここのメンバー全体に噂が広まっているのか。
「フランス、えらい悪者ぶりやったなあ」
 スペインが呆れ半分でのんびりとした感想を述べる。フランスは、張っていた肩を弛緩させるように左右交互に回した。
「こーいうときの威圧感ならドイツのが上なんだけどな……この件に関しちゃあいつは当てにならん。ったく、俺も面倒な役回りさせられちまったもんだぜ」
 こういうやり方は性に合わん、とフランスは手の平を上に向けて肩をすくめた。
 スペインはそんなフランスの様子を軽く笑いながら、プロイセンが歩いて行った方向を眺めた。すでに目標の姿はない。
「あれ、やっぱりプロイセンなん? そっくりさんってことは?」
 間近で顔を見たわけではないスペインは、いまいち確信がもてないのか、素朴に首を傾げた。フランスはあっさりとうなずいた。
「本人だろうよ。仮に別人だとしたら、生まれて五十年そこそこ、しかもそのほとんどを特殊な閉鎖環境で過ごしたことになる。ロシアに閉じ込められた、異常な純粋培養だ。そんな世間知らずが、この俺相手にまともに話せると思うか?」
「……無理やろな」
「そうさ。俺にはわかる。おまえだってわかるだろう。きっとドイツだって。……あれはたかが半世紀生きただけの若造が出せる雰囲気じゃないって、さ」
 フランスは腰に手を当てると、やれやれと頭を左右に振った。そして、右手で横髪を梳きながらしみじみと呟く。
「しかし、それにしてもまあ、ずいぶん丸くなったもんだよ。俺があんだけ気合入れて挑発したのに、まるで乗って来ねえなんてな」
 肩透かしを食らった気分だ。フランスは狂った調子を取り戻すようにがしがしと頭を掻いた。
「ここでおまえに喧嘩は売れんやろ。立場が違う」
 会議本番は明日なんやし、とスペインは付け加えた。
 フランスは、こきこきと頭を揺らして首の疲れをほぐしたあと、ふっと息を吐いてから言った。
「けどまあ、安心したよ。あいつが相変わらずで」
「は……? 自分、言ってることが矛盾しまくりやで」
 スペインの指摘はもっともだと思われたが、フランスの中では自分の発言は整合性のあるものだった。しかし、それを細かく説明するのは骨が折れそうだった。なので、彼は端的に呟いた。
「同じさ。……ドイツとの間でゴタゴタすんのはヤなんだろ」
 プロイセンの不可解な態度も、そこに集約させてしまえば、説明がつくような気がした。もっとも、事情はもっと複雑なのだろうとも推測していたが。

*****

 プロイセンは医務室に帰る前に、同じフロアの休憩エリアに立ち寄った。幸い周囲に人はいない。彼は長椅子の横にあるごみ箱をつま先で強く蹴った。音とともに、壁や床に振動が広がる。
「くそっ、あの野郎が……」
 一度では荒れた気持ちが治まらず、数回にわたって彼はごみ箱を蹴った。ステンレスの平らな表面にへこみができるまで。
 くそ、と何度も繰り返したあと、彼は拳で壁を殴った。
「あの野郎、好き放題言いやがって……俺が、俺がどんな思いで……どんな思いでいままで……」
 壁に手を当てたまま、うなだれて強く瞠目する。
「おまえに何がわかるんだ……フランス……」
 汚い罵り言葉をいくつか並べ立ててから、彼はゆっくりと顔を上げ、天井を仰いだ。もう一度、今度はそっと目を閉じる。まぶたの裏側に映じたのは、さっきまで火花を散らしていた相手ではなく。
「また……会える日が来るなんてな」
 医務室で終始心配そうな視線を投げかけてきたドイツの顔を思い浮かべ、プロイセンは感慨深げに漏らした。
 と、指先が緩やかに振戦していることに気づく。我知らず、緊張に支配されているようだった。わずかだが、心拍数が上がっているのを感じる。
 自分の両手を見下ろしながら、彼は自身に問いかけた。
「俺は……喜んでいるのか? それとも、恐れているのか?」
 喜んでいる――あいつと再会できたことを。再び言葉を交わせたことを。
 恐れている――あいつの前に姿をさらしたことを。変わった自分を見られたことを。
「くそっ……」
 相反する感情を持て余し、彼は両手で壁を叩いた。


意味のない斜め上

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