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プレゼンテーション


 ホテルのエレベーターから目的の階に下りて、会談の場所としてセッティングされた小会議室の扉の前に立つ。ロシアはノブに手を掛けると、それを回す前に、右隣に立つプロイセンをちらと見た。彼は三十センチ先の扉の装飾に視線を張りつけている。その向こうで待つものの姿を想像しているのだろう。
「ここからがきみにとっては本当の本番かな。なにしろ、きみについて話し合うんだから」
「う〜……」
 彼は口角を左に偏倚させると、苦笑ともうめきともつかない奇妙な声を立てた。
「緊張してる?」
「いや、緊張っつーかなんつーか……」
 歯切れ悪く答える。そのあからさまに表情が引きつっていた。ロシアは彼の肩甲骨の間をぽんと叩いて励ます。
「心配しなくても、現状の改善のために尽力するよ。きみのうちの問題は僕の問題でもあるんだし? 大丈夫、僕がついてるから」
 手を肩に移動させ、安心させるように軽く押さえた。だがそれとは裏腹に、プロイセンの口からはため息が漏れる。
「……それがいちばんの懸念材料なんだけどな」
 ロシアの言葉は虚言ではないだろう。彼が自分の不利益になるような交渉をわざわざするはずがない。任せても大丈夫だろう。それについては、まあ信頼してもいい。しかしだからこそ、プロイセンは自分がなぜこの場にいるのか不思議でならなかった。
 ――俺がいちいち出張らなくても、こいつひとりで十分な交渉戦力だろうに。相手の心理的動揺を誘うのが狙いか? 確かに一定の効果――言ってみりゃ幽霊みたいなもんだからな――はあるだろうが、俺ひとりの存在がそこまで決定的な影響力をもつわけもない。あいつピンだったらもう少し事情は違ったかもしれないが、フランスの野郎は昨日の行動を見る限り冷静だ。ああ、そういやあいつ、何かにつけてフランスと一緒じゃねえか。いつの間にそんな、コンビ組むほど仲良くなったんだよ。…………
 先の会議開始前にフランスがやたらドイツのそばに引っ付いていたことが思い出され、プロイセンはむすっと唇を曲げた。おまえはあいつの保護者かよ、そんなに俺は警戒が必要な要注意人物なのかよ、と回想の中の軟派な髭面に文句をつける。
 と。
「入るよ」
 急に降ってきたロシアの声が彼を思考の海から現実に引き戻す。
 彼ははっと顎を持ち上げると、一度空嚥下をしてからうなずいた。
「あ、ああ……」
 ロシアは彼の顔を横目で数秒眺めたあと、おもむろにノブから手を離し、一歩後退した。プロイセンは怪訝に眉をしかめたが、ロシアは無言のまま、読めない微笑を浮かべている。
 開けてみろということか。俺に。
 意図は察したが、その理由までは解釈しきれない。どのみちその時間もない。
 何を企んでんだ。プロイセンはじと目で相手を見やり、ちっと小さく舌打ちしたが、それでも声なき命令に従ってノブに手を掛け扉を押す。
 室内に一歩踏み入れば、右手に豪奢な円形テーブルと、その前に座るドイツとフランスの姿が見えた。同時に、二対の瞳がこちらを向く。彼らの対面には、ふたつの空いた椅子。新たな入室者のために用意されたものだろう。
 あの席に着くのか。
 そう思った瞬間、自分でも不思議なほど心拍が速くなった。なに緊張してるんだ、ブランクはあれどトータルの経験値ならそう劣っちゃいないはずだ。
 注がれる視線を避けるようにうつむき、彼は胸のうちでそう唱えた。自分に言い聞かせるように。だが、手の平は汗で湿るばかりだ。足の裏が床に張り付いたまま動かない。
 扉から数歩進んでところで立ち止まっている彼の背に、ロシアが軽く手を添えた。
「どうしたの」
「いや……」
 なんでもねえ、と彼が小さく答えると、ロシアがその背にわずかに圧力を加えてきた。
「さ、座ろうか。まもなく予定時刻だから」
 小さな、しかし抗えない力で背を押され、プロイセンは否応なく話し合いのテーブルへと進んで行った。その間ずっと目を床に落としていたが、自分を注視してくる視線を絶えず感じずにはいられなかった。
 テーブルとセットになった流麗なデザインの椅子に腰を下ろす前に、ロシアがちょっと不思議そうに席を眺め、それからきょろきょろとあたりを見回した。
「あれ、席足りなくない? リトアニアは? 彼も来る予定だったよね」
 プロイセンはロシアの質問にぎょっとした。なんだそれ。聞いてないぞ。また黙ってやがったのか。現在進行でトラブルを抱えている隣人の名前がここで出るのは不思議ではないが、直前というかもう本番という段になるまで伏せられていたのは気に食わない。ロシアの口ぶりからすると、知らなかったのは自分だけらしい。
 疎外感にひとりへそを曲げている彼を尻目に、フランスが答えた。
「さっきの会議のあとぶっ倒れたんでな、残念だが急遽欠席になった。いまはポーランドが看護中らしい」
「リトアニアってば……健康管理がなってないのかなあ。心配だよ」
 いや明らかに心労だろう。
 頬に手を当てて心配そうな仕種をするロシアに、残りの三者は心の中で同じことを同時に考えた。ただでさえEU−ロシア間の板ばさみで胃の痛い思いをしているところへ、ロシア本人の直接のプレッシャーを掛けられ続ければ、不調に沈むのもうなずける。
 リトアニア不在の事情をとりあえず納得したらしいロシアは、それなら仕方ないね、後日また話し合うことにしよ、と妥当ではあるが残酷でもある呟きを漏らしながら席に着いた。ロシアがフランスの対面に座ったので、必然的に残された席はドイツの真正面だ。プロイセンは何秒かためらっていたが、やがて観念して腰を下ろした。
 フランスは体を斜めに倒すと、隣に座るドイツにささやき声で話しかけた。
「あんなストレスフルな環境じゃ、そりゃ倒れもするわな。あいつもけっこう疲れた顔してるけど」
 と、ドイツと対面して座るプロイセンを見る。目を合わせたくないのか、あるいは精神統一でもはかっているのか、プロイセンはまぶたを下ろしている。
「そうだな、重心が不安定だ。肩の高さにも左右差がある。姿勢の維持がやや乱れているようだ。疲労が蓄積しているのだろう。あるいはそのために集中力がやや散漫になっているのかもしれないが」
「おまえ、よくそんな微妙なとこまで観察できるな……」
「見ればわかることだろう」
「ふうん……そんなもんかね」
 息をするような自然さでそんなことを言ってくるドイツに、フランスは呆れと感心を交えて相槌を打った。
 一方、実は薄目を開けてふたりを観察していたプロイセンは、彼らの距離の近さを目の当たりにし、なんとも言えない苛立ちが湧いてくるのを抑えられずにいた。おまえら引っつきすぎだ!――胸をむかむかさせながら、彼は心のうちで叫んだ。
 不快感につられて、こめかみや頬の筋肉がぴくぴくと小刻みに痙攣している。フランスはドイツの肩に腕を置いたまま、そんなプロイセンを愉快そうにじとりと見やった。へへん、と挑発的な笑みを一瞬だけ浮かばせて。
 静かな攻防が机上で繰り広げられる中、腕時計で開始時刻を確認したドイツが切り出した。
「全員揃ったことだし、そろそろはじめるぞ。ちょうど予定時刻になったところだ。……さて、さっきの会議でも問題になったことだが、改めて的を絞って話し合いたい。おまえたちの間の往来について」
「しかし、よくよく飛び地と縁のあるやつだよな。なんか因縁めいたもんを感じるぜ。なあ?」
 フランスがさっそく仕掛ける。プロイセンとドイツを交互に眺めながら。
 向かい合うふたりが押し黙る中、応じたのはロシアだった。
「そうなんだよね。リトアニアが出て行って以来、彼、僕の家から切り離されちゃったんだよね。加えてベラルーシも一人暮らし中の現在、ダブルの飛び地状態になっているというわけ。それでまあ、いろいろと不便なんだ。仕事のたびに、行き帰り、女の子の家に寄ることになっちゃうわけだし?」
「別にやましいことは何もしてねえぞ」
「もちろん、きみが彼女に迫れるとは思ってないよ」
 ロシアは軽口を交えつつ、いかにもドイツが好きそうな、というか要求してきそうなデータや資料を提示して見せた。かなり詳細かつきれいにまとまっている。いつの間に用意したんだ、とプロイセンは感心しかけたが、ふと目に留まったグラフのタイトルを見て気づく。 これ、俺がこないだまで書いてたレポートじゃん! 締め切りに追われまくって超苦労したやつ!
 もしかしなくても、この日この場所のために命じられた仕事だったのだろうか。調査、統計、分析、報告書作成――数ヶ月がかりの仕事の成果をこんなところでお披露目されるとは。
 ということは、俺がここに来るのはもう何ヶ月も前から決定されていたのか……。
 怒りというよりむしろ脱力感に襲われ、プロイセンは机に突っ伏したくなった。
 ドイツとフランスが、会議では配布されなかった新たな資料に目を通している前で、ロシアがプロイセンに尋ねた。
「きみもいまのままじゃ困るよね? 家、荒れ放題だもんね」
「あ、ああ、まあ……現在進行で大いに困っているな」
 今回の会議および会談に連行されたことを含めて、困らされることだらけだ――彼は声には出さずに付け足した。
 本人の口から同意の言葉を引き出すと、次にロシアは一枚の薄っぺらなプラスチックケースを取り出して見せた。CDやDVDを収納する、ほぼ正方形の容器だ。
「だよねえ。じゃ、ここはひとつ、きみがどのくらい困っているのか、プレゼンテーションしようか」
「は?」
 プロイセンが目をぱちくりさせていると、ロシアはケースを開き、テーブルの上に置いた。タイトルはないが、DVDのようだ。
 きょとんとした顔でそれに注目する三人に、ロシアが説明を加える。
「資料の閲覧も重要だけど、時間も限られていることだし、ここは手っ取り早くDVD供覧ということでどうかな。機器は設置されてると思うけど。そう注文つけといたから」
「DVDだぁ?」
 やや気色ばむプロイセン。こういう場合、自分にとってよろしくない展開が待ち受けているのがセオリーだ。
 果たして、ロシアは期待を裏切らなかった。
「ふふ、きみのおうちの実態をドキュメンタリー風にまとめてみました〜」
「なっ……」
「制作に凝ったらちょっとテレビ番組風になりすぎちゃったから、さっきの会議ではプレゼンに使うの控えたんだけど、せっかくだからここでお披露目。けっこうよく撮れてると思うんだ。自信作! あ、撮影は専門のスタッフだけど。僕は編集担当」
 ちょっと誇らしげに語るロシアに、プロイセンが突っかかる。彼からすれば盗撮されたようなものだ。
「ちょっ、おま、いつの間にそんなもんこさえたんだよ! 俺聞いてねえぞ!?」
「そりゃ、言ってないからね」
「その台詞今日二度目だぞ! なんでおまえはそうなんだよ!」
「事前報告したらきみが騒ぎそうだから。まあ、事後報告でもこのとおり騒いでるけど」
「さっきとおんなじ理由かよ!」
「そりゃ、まったく同じ理由なんだから仕方ないよね」
「ちょ、やめろよ、やめろって! 恥ずかしいじゃん! 俺に恥かかせたいのかよ!」
 DVDをセットしようと立ち上がったロシアの腕を、プロイセンが思わずがしっと掴む。
「別に悪いことしようってわけじゃないよ。事実を提供するだけだから」
「事実だからこそ悪いんだろうが!」
 プロイセンも椅子から立つと、ロシアの手からDVDを奪おうと腕を伸ばす。ロシアは手を真上に上げてプロイセンの攻勢をかわす。悲しいことに、身長とリーチの差により、プロイセンの手はロシアのそれには届かない。それでも往生際悪くぴょんぴょんと跳ねてなんとか奪取を試みていると。
「ほら、妨害はやめて。ふたりとも、悪いけど彼抑えててくれる? ディスク壊されかねないから。原本はモスクワにあるからいいけど、ここには余分なスペア持ってきてないからさ」
 彼らのくだらない攻防に口を挟めずにいたドイツとフランスにそう呼びかける。
 要請に先に応じたのはフランスだった。
「はいよ」
 彼はすばやく立ち上がると、プロイセンとロシアの間に割って入った。続いてドイツが背後から忍び寄り、脇の下から腕を入れてがっちり羽交い絞めにしてきた。スムーズな連係プレーである。
「お、おい……!」
 プロイセンは狼狽しながら、背中に密着しているドイツを振り仰いだ。ドイツは申し訳なさそうな表情をするが、力を緩めようとはしない。
「すまないが、おまえの家の現状については俺たちにとって大いに興味のあるところだ。本人の同意が得られないのに強要するのは忍びないが、ここは我慢してくれ」
「そういうわけだから、おとなしくしてろって」
「こ、この野郎……!」
 プロイセンは両肩を前方に交互に引いたり、足をばたつかせては暴れようとするが、不利な体勢で固定されている上に、自分より上背のある相手に抱えられているため、足が床に完全につかず踏ん張りがきかない。後頭部を使った頭突きをしてやろうと首を屈曲させるが、一足早く察したフランスにうなじを捕まれ阻止される。
 二対一で揉み合っている間に、ロシアはAV機器の操作を終えていた。
「よし、セット完了。みんなこっちおいでよ」
 ロシアは手招きをして、テレビの前のソファに座るよう促す。ドイツとフランスは嫌がるプロイセンを無理矢理そちらへと引きずっていく。ぎゃあぎゃあと喚き散らす彼をなんとかソファに落ち着けようとしたとき。
「あ、でも、破壊行為に走らないとも限らないから、見終わるまでフリーにはしないほうがいいかも」
 ロシアがそんな忠告をしてきた。ドイツははたと止まったあと、
「ふむ、一理あるな」
 あっさりと同意した。
「ちょ、ちょ、ちょ……何しやがるっ!」
 プロイセンはドイツとロシアに両側から肩を押さえつけられ、強制的にソファに着席させられた。
「きみはそっち側押さえててね。僕はこっち押さえてるから」
「了解した」
 ふたりもまた腰を下ろす。プロイセンを挟んで。
 長身ふたりに左右を固められ、プロイセンは身動きが取れなくなる。筋力以上の何かが彼をその場に縫い付ける。
「じゃ、そろそろはじめようか。リモコンそれだからさ、フランスくん、操作してくれない?」
「おう」
 ひとり両手が開いているフランスは、ソファの後ろに立ってリモコンを手に取りボタンを押した。
 大型の液晶ディスプレイに、メニュー画面が映し出された。最初のチャプターから流して、とロシアの指示が入る。プロイセンはいよいよ焦った。
 見られるのか。こいつらに――こいつに、あの街の現状を! あの変わり果てた街を!
 恐怖にも似た焦燥に駆られ、彼はなりふり構わず暴れ出す。
「よ、よせ! やめろ!」
「ドイツくん、しっかり捕まえててね。彼、見た目より力あるから」
「そのようだな」
「いっ、いやだっ、いやだ! やめろ、放せ! やめろ――――っ!! 見るなっ、いやだ、見ないでくれ……っ!!」
 彼の絶叫むなしく、デッキはデータの再生を開始する。真っ黒な背景に浮かぶキリル文字。画面の下部にはご丁寧にフランス語とドイツ語の字幕が並列されている。
「うわぁぁぁぁぁぁぁ……!」
 ほとんど恐慌状態で悲鳴を上げるプロイセン。ドイツは掴んでいる彼の右腕を宥めるようにさすった。
「すまない……。だが、静かにしてくれ」
「もう観念しなよ」
 抵抗を続けるプロイセンだったが、ドイツに四肢の動きを、ロシアに口を封じられ、もはやどうすることもできなくなった。
「おまえら、息が合いすぎてて怖いぞ……」
 ドイツとロシアの即興の連携に感心というより不気味さを感じつつ、フランスは後ろからプロイセンの頭を撫でてやった。あまりに必死の抵抗に、さすがにちょっとかわいそうな気がしてきて。


遠い日の思い出

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