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遠い日の思い出


 彼の姿は遠い日の記憶の中でさえ鮮明だった。
「え、おまえ、ケーニヒスベルクに行ったことなかったっけ?」
 意外そうな顔をした彼にそう尋ねられたのはいつのことだっただろうか。場所はベルリンだったか。確か銃の分解と組み立て、それに手入れについて教わっていたときのようか気がするが、状況は曖昧模糊としている。色彩もかすんでいるかモノクロといった感じで、色のない夢を思わせる。ただ、視界の中心に映る彼の姿かたちは、輪郭も色も立体感も細部まで明瞭だ。髪や目や肌の色、服の皺や質感、口や手や肩の動き。古い記憶に貯蔵されたおぼろげな過去の世界を背景に、ひとりだけ明確に浮き出ている。
 ドイツは首を横にひねり、彼を少し見上げていた。そうだ、この頃はまだ、彼より目線が低かった。だから近距離で顔を見るには、いくぶん上目遣いにならざるを得なかった。彼を見上げる機会が減り、さらにその姿を見ることさえなくなって長い年月が経っていたが、いまだにドイツは当時の自分が目にしていた世界を覚えていた。というより、思い出というかたちで頭の中で再現できた。そのことを不思議に思いつつ、記憶の中の彼が過去の自分に話しかけてくるのを、つい先刻の出来事のように感じた。
 銃を掃除する手を止めた彼は、意外そうなまなざしをドイツへと向けていた。
「ない」
 ドイツは首を振りながら短く答えた。横に座る彼が目をぱちくりさせている。
「一度も?」
「一度も」
 念を押して確認をしてくる彼に、念を押して答える。すると、彼は油に汚れた手を構わず自分の側頭部につけ、大仰に口をあんぐりと開けた。そして、心底信じられないといった調子で勢いよくしゃべり出す。
「かーっ、まじかよ、もったいねえ! 一度は見ておくべきだぜ、あの街並は。すっげイケてるからよ!」
 あれ知らないなんて、おまえそれだけで絶対損してるって! 彼はオーバーに手や腕を振りながら、ずいっとドイツに顔を近づけた。ドイツは相対的に後ろへ重心をずらしながらも、彼を見つめたまま尋ねた。
「美しいのか?」
「おう、当たり前だ。なんたって俺の生地だからな。そういや俺もしばらく里帰りしてねえな。よし、今度あっち行くときはおまえも連れてってやるよ。楽しみにしてろ」
 彼は白い歯を思い切り見せて笑うと、黒く汚れた手でばんばんと景気よくドイツの背中を叩いた。手加減はしているのだろうが、元の力が強いので、それなりに痛かったのを覚えている。だが、嫌な痛みではなかった。
「ああ……それは、楽しみだ」
 ドイツは、服の背につけられたオイルの染みを気にしつつ、横目で彼をちらりと見た。底抜けに上機嫌そうな顔をしていた。ドイツは、ひりひりする背中や洗濯に苦労しそうな服の染みのことなど気にならなくなった。
 作業中の口約束のようなそれは、じきに忘れられた。ドイツも気にしなかった。けれども何ヶ月か経ってから、彼が突然言い出した――明日、ケーニヒスベルクへ発つ。支度をしろ。おまえもだ。
 当時、スケジュールの管理はほとんど彼がしていたので、唐突に何かを命じられたからといって、ドイツの予定が狂うということは基本的になかった。しかし、これは突然すぎる。それなりの遠出になるというのに。
 いきなり何を言い出すのかとドイツが驚いていると、問う前にあっさりと彼が答えた。こないだ約束したじゃん、連れて行くって、と。
 覚えていたのか、はたまた急に思い出したのか。彼の頭の中のことはわからないが、少なくともドイツは後者だった。
 そういえば、そんな会話をしたような。しかし、《こないだ》ではなく《大分前》のことじゃないのか?
 ドイツは胸中でぶつぶつと文句を言いつつも、どこか楽しい気分で荷造りをした。旅行の支度をするときの、あの独特の高揚した気分。いまでも時折感じるものだが、少年期においては、比べ物にならないくらい格別な感覚だった。
 慌しく出発した旅路の先に見えたのは、彼の故郷であるケーニヒスベルクの秀麗な街並だった。眼前に広がる景色は、訪れる者を圧倒した。ドイツははじめて見る風景に興奮しながらも、同時に不思議な懐かしさを感じたものだった。そのときは、それがノスタルジーと呼ばれるものだとは認識できなかったけれど。なぜ彼の生地に自分が郷愁を覚えるのか?――その感情を認識していない段階では、そんな疑問を覚える余地もなかった。
 彼はドイツを街のいろいろな場所に連れ回した。歴史と伝統を守る自然や建造物から、その時代の人々が憩う俗っぽい店や路地裏にまで。
「もう少しゆっくり見たいんだが」
 あまりに目まぐるしくあちこち移動するので、ドイツは彼にそう頼んだ。けれども彼は首を横に振る。
「それはわかるけどよ、今回はあんま時間がねえんだよ。ディープな案内はまた今度してやるからよ、今日のとこはいろんなとこ見て回ろうぜ」
 勝手にそう決めると、彼はドイツの手を掴んで文字通り引っ張り回した。歩幅の違いなんて気にせず、どんどん進んでいく。手の平や指の腹にできたいくつもの肉刺のごつごつした感触に、彼らしさを感じてふいにつながれた互いの手元を見た。手の大きさは、背丈ほどには変わらなかった。
 日が暮れると、彼はドイツを連れて酒場に入った。小さなテーブルを挟んで座り、食事を取る。ビールは飲ませてもらえなかったが、食事はうまかった。
「どうだ、気に入ったか」
 何を、とは彼は明示しなかった。状況からすれば食事かこの店について問われていると解釈するのが妥当だろう。だが、ドイツは彼の質問が意図するところが別のものであることを即座に理解した。そして答える。
「ああ、とても。整然としていて、優れた景観。きれいでいい街だ、ここは。それに、歴史を感じる……プロイセンという国そのものの。いたるところで、おまえの気配を感じる。はじめて来る街なのに、なんだか落ち着くんだ」
 粗野な彼と、美の調和の取れたこの街は、一見すると結びつかない。現に彼は期待を裏切らずテーブルに食べこぼしを落としている上に、そのことを気にもしていない様子だ。けれども、彼とこの街との間には不可思議な同一性があり、彼は自然にこの地に溶け込んでいた。間違いなく、ここは彼の街だ。この日一日この地で彼のそばにいて、ドイツは言葉では言い表せない説得力でもってそのように感じた。
 お世辞でもなんでもなく、率直な感想のつもりだった。この頃はいま以上に辞令が下手だったし、彼もそれは知っている。だから、ドイツが思ったとおりのことをそのまま口にしたというのはわかっただろう。
 なのに彼は一瞬呆けたあと、なんだか困ったような顔なり、ぽりぽりと人差し指で頬を掻いた。
「まあ、当たり前だな」
 そう言って頬杖をつくと、ふいっと目線を窓の外に向けてしまった。ドイツは向かいの席から不思議そうにそんな彼を眺めていた。
 それが照れ隠しだったと思い当たったのは、ずっとあとになってからだった。その頃の自分はまだ、彼がそんな顔をすることもあるだなんて知らなかったし想像もしていなかったから、わからなかった。
 街並は事実美しく、印象的だった。過去となり、歴史の一幕となったいまも、忘れ得ぬほどに。だが、それ以上に印象的だったのは、故郷を自慢げに語る彼の横顔だった。手を引かれながら、ドイツはケーニヒスベルクの街並と同じくらい、楽しそうな彼の顔を見つめていた。
 そのときの彼の表情は、いまでも忘れられない。現代のどんな画像技術をもってしても再現できないくらい色鮮やかに、記憶に焼きついている。

*****

 ロシア制作のドキュメンタリー風の映像報告は長さにして三十分ほど、オーソドックスな編集で、カメラは街の遠景からはじまり、荒廃した市街地の散策、現地のリポートと進んでいった。
 思い出に残るケーニヒスベルクと、目の前に映像として映し出されたカリーニングラードは、まったくの別物だった。同じ緯度同じ経度に存在しているという以外、同一と見なせる要素はまるでない。
 カリーニングラードは周囲からも時代からも取り残されていた。それも、古い時代の面影を残しているという意味ではなく、何十年分かの時代遅れという意味で。都市の戦略的重要性を維持するために必要なあらゆる手段を費やし、目的ごとにあちこち開発していった結果、奇妙に人工的な空間になってしまったといった感じだ。そしてその後、打ち捨てられ見放され荒れ果てて、現在に至るのだろう。ケーニヒスベルクが消失し、カリーニングラードが誕生した。そんな表現さえ成り立ちそうな変貌。
 ドイツは会議やそれ以前に得た情報から、街の様子についてある程度知っていたし想像もしていたが、いざこうして大々的な映像を見せられると、やはり信じがたいものがあった。かつて美しいと感じた街並は、どこにもない。見る影もなく荒廃した都市があるだけだ。
 現地に赴けばまた違った印象を受けるのかもしれないが、少なくともこの映像からは、プロイセンの面影は感じなかった。そこがかつてプロイセンの、そしてドイツの街であったとは、言われなければわかるまい。いや、言われてもにわかには理解できないかもしれない。
 記憶の中のプロイセンの古都と、現在の荒廃したロシアの都市。重なりそうにないふたつの街は、けれども同じ場所なのだ。壊滅の上に再建された、いや、新たに造られた街。その病的なまでに徹底した破壊の痕跡は、目には映らずともそこかしこに漂っている。かつての姿を知るものならすぐにわかるだろう。変わり果てた街の姿は、数世紀の歴史を、プロイセンの気配を根こそぎ消し去ろうという不気味な偏執性を感じさせる。彼がロシアの下でどれだけ変えられてしまったのか、いかに強固に支配されてきたかを否応なしに伝えてくる。
 それはどれほどの苦痛だっただろうか。
 いまはカリーニングラードと名乗るこの男が、映像を見られるのを頑なに拒み抵抗した理由が痛いほど理解できた。この姿を知られるのは、つらいだろう。
 知らず、腕の力が緩んでいた。プロイセンの右半身をソファに固定していたはずだが、いつの間にかただ触れる程度の力になっていた。拘束力は皆無だ。けれども、プロイセンは逃れようとはしなかった。もはやその気力もないのか、あるいは拘束の緩和自体に気づいていないのか、彼は何かに耐え忍ぶように目をきつく閉じている。疲れきっているらしく、無言のまま深くうなだれている。
 抵抗の意志を失った相手ではあったが、ドイツはふいに、自分の手に強い圧力が加わっているのを感じた。見下ろせば、プロイセンの手がドイツのそれをきつく握っている。無意識のようだが、それゆえかなりの握力だった。彼の手の平は、やはり硬くてごつごつしていた。だが、右手なので剣の握りダコはそれほど顕著ではない。ああ、これはきっと銃器の扱いによるものだ。ドイツはそう見当をつけ、肉刺の特徴を見ようと彼の指をやんわり開かせようとした。けれども、彼は反射的にますます強く握り締めてきた。そうしていなければ、この場にいることに耐えられないというように。
 ドイツは、握り込んでくるプロイセンの右手と、空いている自分の右手を見比べた。自分のほうが少し大きい。いつ追い抜いたのか明確な時期はわからないけれど、それが発覚したとき、プロイセンが器用にも不機嫌と上機嫌をない交ぜにしながら、この野郎、と複雑な笑みとともに言ってきたのは覚えている。
 ドイツは我知らず、彼の手を握り返していた。


消失の街並

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