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ぼかしてますが少し前の時事問題が絡んでくるので、苦手な方はご注意を。





消失の街並



 テレビ画面が黒一色になり、メーカーのロゴが浮き出てくる。
 リモコン担当のフランスが、ソファの背後からデッキに向けて腕を突き出し、停止ボタンを押した。彼は背もたれに手を突くと、長身ふたりの間で燃え尽きたボクサーよろしくがっくりと背を丸めているプロイセンの後頭部を見下ろした。ドイツもロシアもすでにプロイセンを押さえつけてはいなかったが、彼が動く気配はない。ものの見事に固まっている。頭の影になっているので確認しづらいが、どうもドイツの手を握っているようだ。
「いやあ、噂にゃ聞いてたけど、改めて見せられるとほんとすごかったなあ、こいつの乱れっぷり。なあ?」
 どんよりした空気を払拭しようと、フランスが軽い調子で言いながら、ドイツの肩にぽんと手を置いた。ドイツは背後に注意を向けていなかったのか、虚を衝かれたようにぴくりと肩を揺らした。
「あ……ああ、これはひどい。驚きすぎて呆然とした。言葉もなかった」
 偽らざる感想だ。
 すっかり様変わりした景観。それも、確実に悪い意味で。思い出の中の色彩豊かな美しいケーニヒスベルクは、無残なほど醜悪に荒れ果てた暗い都市として眼前に示された。ああ、これが本当にあの街の成れの果てだと言うのか? ドイツは心臓をきりきりと引き絞られるような痛みを覚え、右手で服の胸元を掴んだ。彼にとっては、これ以上ないほど衝撃的な映像だった。
 横に座るプロイセンを一瞥する。彼は打ちのめされたように深くうなだれたまま、動かない。ドイツは、握られた手がひどく汗ばんでいるのを知覚した。けれどあまりに強く互いに握り合っていたので、もはやどちらの手の平が汗をにじませているのか、わからなかった。
 俺でさえ、見るに耐えないと目を背けたくなった。まさに当事者である彼の苦しみはいかばかりだっただろうか。彼は、故郷がこのように変貌していく過程をずっと見てきたのだから。いや、それこそが彼自身に起きた出来事なのだ。壊され変えられていく街から、その身から、逃げることはできなかった。彼はどんな気持ちでこの半世紀を過ごしたのだろうか?
 俺には想像もつかないな――ドイツは痛ましい気持ちで彼の手を見つめた。力むために爪の先が白く変色し、その指の先はドイツの手の甲に食い込んでいる。ドイツは自分の手の甲をまるで他人のそれのように眺めた。痛いと感じているはずなのに、つらくはなかった。指を外させようとも思わなかった。
 しかし、あまりに反応がないのでそろそろ心配になってくる。ドイツはソファの上で体を少しひねると、空いている右手でプロイセンの肩を掴んだ。
「大丈夫か?」
 上体を起こさせようとするが、プロイセンは可能な限り身を倒し、頭を垂らした姿勢のまま動きたがらない。不躾と知りつつ相手の顔を覗き込むが、嫌がるようにそっぽを向かれてしまう。無言の拒否の態度に遣る瀬無さを覚えながらも、苦悶にゆがんだ眉根を前にすると、何もできなくなる。ドイツはため息をひとつついてから、
「気分が悪いなら休んでいろ。いいだろう、ロシア?」
 彼を挟んで隣に座っているロシアに尋ねた。
「うん、時間も限られていることだしね。話を続けようか。テーブルに戻ろう。彼は……まあ、一定時間へこませておけばそのうち復活すると思うから、ひとまずそっとしておこうか」
 ロシアは立ち上がると、会談の最初に四人で囲んだテーブルを示した。ドイツとフランスはうなずいて了解の意を表す。
 フランスとロシアに遅れて、ドイツもソファから腰を上げた。まだつないだままの手を軽く持ち上げながら、
「すまん……手、いいか?」
 プロイセンの耳元で言う。彼は数秒、相手の言葉を拒むように力を加えてきたが、やがてゆるゆるとドイツの手を解放した。
 緩められた手の平から、ドイツもまた、惜しむようにゆっくりと自分の手を引き抜き、テーブルへと戻っていった。
 空席をひとつ残したまま、話し合いが再開される。ロシアはDVDを収納したケースを鞄にしまうと、代わりにプラスチックとビニールでできた分厚いファイルを取り出した。差し込み式のアルバムだ。彼はふたりの前にそれを見せると、
「この際だから写真も提示しようか。正直、彼のこういう姿を見せるのは忍びないし僕としても恥ずかしいんだけど、情報開示はしないとね」
 ぱらりと表紙をめくった。写真には、先刻の映像とよく似た雰囲気の建造物や道路などが写っている。
「半数くらいは彼が作成したレポートに添付されていたものでね、現地在住なだけあって、僕が見落とすようなところまで撮ってくれてる。さっきのDVDよりさらに詳しいよ」
 ドイツとフランスは肩を寄せ合ってアルバムに見入った。
――うわ、こりゃひどい――えぐいな――あのケーニヒスベルクがねえ……――見ていられないな、これは――この建物、いつから放置されてんだろな――この様子だと、環境汚染が深刻なんじゃないか
…………………………………………。
 口々に漏らしながら、彼らはページを繰っていった。
 アルバムを三分の二ほど進めたところで一旦手を止めると、フランスは意味ありげにドイツに視線を送った。ドイツはそれを察すると、彼にちょっと頭を寄せた。低い位置に来たドイツの耳元で、フランスがこそっとささやく。
「うーん……ロシアのやつが俺ら外部のもんに見せてもいいと判断した写真でコレなんだから、きっと実態はもっとひでぇんだろな……」
「だろうな。……見るのがつらい」
 ドイツは眉間に皺を寄せ、目を閉じる。
「や、逆に俺としては興味あるけどなあ。いっぺんこっそり潜り込んで写真撮ってやりたくなるぜ、思い切り恥ずかしい部分まで」
「危険なことはするな。発言についてもだ」
「冗談だって」
「自重しろ。非公式とはいえ会談の場だぞ」
「わかってるって」
 フランスをたしなめると、ドイツは目線を上げて向かいのロシアを見やった。ロシアは穏やかな、けれども感情の読み取れない微笑でこちらを眺めているだけだ。内緒話――実際はだだ漏れだが――に気を悪くしたふうでもない。
 写真、DVD、資料、そしてカリーニングラード本人。交渉材料は揃っている。ロシアが仕掛けてくるとすればここからだ。ドイツはそうあたりをつけて気を引き締めようとした。
 が、そのとき。
「もうやめろぉぉぉぉぉ!!」
 雄叫びとともに背後から人の気配が突如出現した。そしてドイツとフランスの間に割って入るように、勢いよくバンッとテーブルに両手がつかれる。
「うお!? なんだいきなり!?」
「回復したのか。よかった」
 肩を離し、めいめいに振り返ると、そこには顔を真っ赤にしたプロイセンが立っていた。机についた腕は震え、唇は戦慄いている。
「お、おまえらぁぁぁぁっ!! 散々ひとの恥ずかしいとこさらさせやがって! おっ、俺を視姦するのがそんなに楽しいかぁ!? 悪かったな、荒れまくりの乱れまくりの街でよぉ!! へん、そーだよ、秩序なんかとっくに崩壊してるぜ! ああ、くそ、見るんじゃねえよ! うわぁぁぁぁぁぁ……!!」
 怒りと羞恥に駆られて、彼はロシアが提供したアルバムの回収を試みた。だが、傾けたのがまずかったのが、写真の何枚かがページのポケットから抜けてテーブルの上に散乱してしまい、余計に慌てる。自ら混乱に拍車をかける彼に呆れながら、ロシアは手近に飛んできた写真を一枚拾い上げ、自分の口元を隠すようにぴらっと提示した。
「でも、このへんはきみが撮った写真なんだよ」
 すると、ひゅう、と口笛の音がした。
「自分でこんなとこ撮るなんて、露悪趣味だよなあ」
「撮影に多大な勇気が要りそうだな」
 テーブルに身を乗り出して写真を見つめるドイツとフランス。プロイセンは大慌てでロシアの手からそれを奪った。
「国外に持ち出されるってわかってたらこんなモンまで撮らんかったわ! 中央に窮状を訴えるためにわざわざ見苦しい場所まで写真に収めたんじゃねえか! でなかったら、誰がこんな恥さらしな真似をするもんか! ちくしょぉぉぉぉぉ!」
 叫びに叫んでいた彼だが、とうとう本格的に居たたまれなくなってきたのか、両手で頭を抱えてその場にしゃがみ込んでしまった。
「ありゃりゃ、半べそだよこいつ。ちょっといじめすぎたかぁ?」
「まあ、家がこれだけ乱れた状況では嘆きたくもなるだろうが……」
 ドイツは自分も椅子を離れると、プロイセンのそばに膝をついた。彼の肩に手を置き、顔を上向かせると、
「泣かないでくれ。これからおまえのうちの問題について解決策を模索するために話し合うんだ。だから、あまり悲観的にならないでほしい」
 落ち着いた声音でそう告げた。プロイセンはじんとしながら口の中で小さく呟いた。
「ヴェス……ドイツ……」
 彼はドイツに促されて立ち上がると、そそくさと自分の席についた。ロシアはやれやれと肩をすくめながら、やっと戻ったの、と苦笑した。
 ようやく会談の初期形態に立ち返ったところで、ロシアが仕切り直す。
「けどまあ、僕編集のコレをきみたちがそのまま信じるなんてことはないと思うから、なんなら現地視察に来る? それがいちばんわかりやすいからね。いまはもう閉鎖が解かれたことだし、よかったら案内するよ――彼が」
 観光案内のようなさわやかさでそう宣伝したロシアに、横のプロイセンが再び声を荒げた。
「え、ちょ……そ、それは嫌だ! 俺が嫌だ! どんだけ俺を辱めるつもりだよ! お、俺がどんだけ恥ずかしい思いをしてるとっ……!」
 思わず立ち上がりかけた彼を片腕で制止し、ロシアが真面目な顔つきで言う。
「交渉に必要なら、きちんとアピールしないと」
「う……くそ、正論言いやがって」
 プロイセンは自分のほうが聞き分けのない態度を取っているように感じられ、不服ながらも椅子に座り直した。ロシアはそれを見届けると、今度は向かいのふたりを相手に話し出す。
「なんにせよ、状況がはかばかしくないのは事実でね、彼も困っていることだし、僕としても早いところ解決したいんだ。飛び地は何かとコストがかかるし、その上移動に制限がかかるとなると、正規の流通がスムーズに行かなくなってしまってね、まあ、いろいろ問題が出てくるというわけ。それについてはすでに示したとおりだね」
「通行制限のことだな」
「そう。まあ、ほかにも問題は山積みだけど、きみたちとの間にある問題について言えば、最大の争点はそこだね」
 ロシアは、微笑みという名の無表情の仮面をつけ、つらつらと述べた。
「彼は我がロシアの一員なんだから、彼が本土ぼくのうちに自由に行き来できるのは当然のことじゃないかな?」
 ロシアからちらりと視線を寄越され、プロイセンは反応に詰まった。ここは首を縦の振るべきだろうか。往来が不便なのは確かだが、問題の原因はそこだけじゃないんだが……。
 迷っているうちに、相手側からの意見が出る。
「住民のことを考えればわからなくはないが……こちらとしてもルールがある。ないがしろにはできない」
「規則は規則。簡単に例外を認めるわけにはいかないんでね。リトアニアもこっち側に入れば、こっちのルールを適用することになる」
 まあ、そう答えるわな。静かな攻防がすでにはじまっているのを肌で感じ、プロイセンは改めて背筋を伸ばした。
 と、肩に何かが触れた。首を横に向ける。ロシアの手の平が肩に置かれていた。ドイツとフランスの注意がそちらに引かれたが、ロシアは顔を正面に固定したままだ。
「現在、彼と僕は分断されていると言える。かつてのあの構造が崩れ地図上のラインが少々変わったいま、彼はきみたちEUによって包囲されているんだ。つまり彼と僕はきみたちという壁によって隔てられているというわけ。かつてのアレに比べればずっと薄いカーテンだけれども、無視できる問題じゃあないんだよね。彼は僕にとって重要な存在だから。自分の手のうちにあるものを守れないようじゃ、上に立つ資格はないでしょう。まあ、この問題については僕も長らく頭を痛めているから、大口は叩けないけれど」
 ロシアは当然のように言った。自然、相手方からの視線がプロイセンに突き刺さる。彼はとんでもない居心地の悪さに逃げ出したい気持ちでいっぱいになった。立場上、ロシアに加勢して自分も彼らに現状の問題点を訴えるのが道理だ。だが、口や喉がからからに乾燥して、舌がうまく回らない。起声できる気がしない。
 下を向いたまま目線だけをわずかに上げると、苦虫を噛み締めるような表情をしたドイツの顔が目に入り、プロイセンはわけもなく罪悪感に駆られた。
 プロイセンの心拍数が加速度的に上がっていく中、ロシアは淡々と進めていく。彼はドイツに意味深長な視線を投げた。
「分断の苦しみはきみがもっともよく理解していると思ってたんだけど?」
 その発言に、プロイセンははっと顔を上げた。
 攻勢に出たか、だが、ほどほどにしておけ――隣の相手に胸中でそう呟きつつ、彼は対面の相手を見た。
 フランスが険しい顔をして彼らを見返しながら、ドイツの腕に触れながら小声で忠告する。
「ドイツ……乗るなよ」
「ああ……わかっている」
 ドイツもまた、剣呑な表情でこちらを見てくる。彼のこういう顔を知らないではない。が、向けられる立場になるのははじめてだ――プロイセンは胸のうちに苦みが広がるのを感じた。


思惑はさまざまに

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