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コーヒーの苦い味


 ホテルの自室に戻ったものの、着替える服といったらロシアが持ってきた例の悪趣味な綿シャツしかないことに気づき、プロイセンは仕方なくスーツのまま出かけることにした。中途半端に着乱れたフォーマル衣装など見苦しいだけなので、面倒くさいがもう一度ネクタイを締めてジャケットを羽織る。
 そうして部屋をあとにすると、エレベーターの待ち時間が長そうなのに焦れて、勝手にスタッフオンリーの扉を開き、職員用の階段を使って階下へと駆け下りる。利用者がいないので、スピードを出し放題だ。しかし、さすがにそのままフロントに飛び出すのはまずかろうと、二回で廊下に戻ると、一般用の階段を使って一階に降りた。
 ラウンジを横切り、出入り口に向かって歩いていくと、ガラス張りの扉の外で気難しい顔をして佇む、見知った顔に出くわした。一目でわかった。ドイツだ。相変わらず威圧感が醸し出されている。しかし、なぜここへ?
 プロイセンが不思議に思いつつ足早にそちらに駆け寄ると、気づいたドイツが驚いた表情でこちらを見てきた。
「どうしたんだ、おまえ、別んとこに泊まってんじゃなかったっけ?」
 自動ドアの控えめな機械音を背後にプロイセンが尋ねる。ドイツは、ごく自然に近寄ってきた彼に驚き、ちょっとぎくしゃくした。昨日からかなり避けられていたような印象だったので、この態度は意外だった。同時に、以前の、まだともにいた頃の距離感が想起される。
「その……用があってな、おまえに」
 やや言いよどみながら、ドイツは答えた。
「俺に? 奇遇だな、俺もだ。これから行こうと思ってたんだぜ」
 プロイセンは気安くドイツの肩口を軽く押した。そして服の二の腕を摘み、軽く引き寄せた。
「じゃ、いま話せるか? 個人的に」
「ああ、構わないが。というか、そのつもりで訪ねたんだ」
「そうか。じゃ、部屋行こうぜ、部屋。俺が泊まってるとこでいいよな? 表じゃ落ち着いて話せん」
 ドイツの答えを聞くや否や、プロイセンは彼の腕を引いてホテルの玄関へと逆戻りした。ドアをくぐりロビーを抜け、エレベーターの前に立つ。ドイツは呆気に取られ、ほとんどされるがままに引きずられていった。こんなにあっさり彼を話をする機会が得られるとは予想していなかった。会議や会談での反応から、もっと敬遠されると思っていたのに……猫を被っていたのだろうか。
 少し呆然とするドイツを、プロイセンは昔のような強引さで持って引っ張っていく。エレベーターに乗っている間も腕は掴まれたままだった。機械の箱がゆっくりと上昇していく独特の感覚と騒音の中、沈黙に耐えかねたドイツがためらいながらもそろそろと口を開く。
「おまえは、やはり……」
「プロイセン」
 あっさりと名を告げるプロイセン。けれどもその顔に浮かんでいるのは、自嘲の笑みだった。彼はまぶたを半分ほど下げ、視線を床に落として言った。
「……歴史になった名前さ。いまはもうない。フリードリヒ二世が歴史書に記されるように」
 ドイツはどう答えてよいかわからず、結局また無言に戻ってしまう。いまはもうない。ドイツ自身、彼について幾度となく胸中で、そしてときには声にして繰り返してきた。だが、本人の口が紡ぐその言葉は、自分のそれとは比べ物にならないくらい、途方もなく重く暗かった。
 目的の階に着き、エレベーターを降りて廊下を進み、突き当りからふたつ手前のドアの前で立ち止まる。カードキーで開錠すると、プロイセンはドアを九十度開放した位置で腕で固定し、入れよ、とドイツを促した。
 ドイツが室内に入って五秒後、オートロックの掛かる音が響いた。プロイセンは、まあ座れや、とドイツに椅子を譲ると、備え付けの戸棚を漁って飲み切りタイプのインスタント飲料を手に取った。
「コーヒー、インスタントしかねえけど、飲むか? 湯はちょっと前に沸かしたのが残ってる。まだ保温されてるからよ、すぐ出せるぜ」
「ああ」
 ある種のパターンのような会話をすると、彼はコーヒーを二人分用意した。シングルルームのためマグカップはひとつしかないので、もうひとつはグラスで代用した。
 プロイセンはカップをドイツに渡すと、熱をもったグラスの縁を掴んだまま、自分はベッドの縁に座った。砂糖もミルクもフレーバーもない味気ないコーヒー。だが、香りや味を楽しむような状況でもないので、ふたりともただ機械的に黒い液体を口に運んだ。苦いだけだった。
 沈黙が続く。相手が何か話したそうだというのは互いに察していたが、切り出し方に迷っている。特にドイツのほうは顕著で、絶えず視線をさまよわせ、ひどく落ち着かない様子だ。まるで、知らない場所にひとりで置いていかれた子供のように。プロイセンはこっそりと苦笑しながら脚を組み換え、腕を伸ばしてナイトテーブルにグラスを置くと、ぽつりと言葉を発した。
「……驚かせたか?」
 急に届いた声に、ドイツがはっとして顔を上げる。何秒かまごついたあと、彼はテーブルにカップを置いた。
「あ、ああ……驚いたに決まっている。もういなくなったとばかり思っていた。いや……そう自分に言い聞かせていた」
 言いながら、ドイツはうつむいた。こうして目の前で彼と話しているいまも、どこか現実感がない。彼の消息が知れなくなって長い時間が経過した――もういなくなったと考えた。だがその思考の裏側にあったのは、もう一度会いたいという熱望だったのではないか。それがおよそ叶いそうになかったから、諦念で自分を説得していたのではないか。思わぬ再会を果たしたいまになって、ドイツは自分の心理を理解したような気がした。
 プロイセンは体の両脇に手を着いて腕を突っ張ると、ぶらぶらと脚を遊ばせた。重苦しい場を茶化そうとでもいうように。
「ああ、そうだな……。戦いに敗れ赤旗の前で膝をつき……俺は名前を失った。だから、おまえらが俺を死んだものだと思ってたのも、あながち早とちりとも言えねえよ。見ようによっちゃ正しい認識だ。……実を言えば、俺はもうおまえと会うつもりはなかった。生きてること自体、知らせないつもりだった。いや……知られたく、なかった」
 プロイセンは語尾を濁すと、そこで足を地面につけた。ドイツはまっすぐに彼を見つめた。
「俺は、会いたかった。生きているなら、それを知りたかった」
 はっきりとした音声。プロイセンは感情の揺れに耐えるように何秒か目を閉じてから、答えた。
「そうか。けどよ、俺のほうは合わせられる顔なんざなくてな。見てのとおり、俺はすっかりロシアに染められた。あの映像でもわかっただろう……面影なんてないってことが。いまも正直、あんま見られたくねえんだけど……まあ目の前にいるのに目ぇ逸らしてろってのも変な話だから、別にいい」
 ドイツは何も言わない。プロイセンの言葉を否定することはできなかった。映像と写真が示す変わり果てた街並のイメージが、視界に映る彼の像の上にかぶる。再会してから先刻ホテルの前で遭遇するまで、ずっとドイツの視線から逃げるようにうつむいていた彼。いまならその理由がわかる。
「すでに知ってると思うが、あいつの下でドイツ的なものは徹底的に壊され、捨てさせられたよ。いや……俺の手もまた、その破壊に加わった。言語さえ封じた。俺がおまえと話すときに使う言葉だ……。今日こうしておまえと話してみて、まだ話せることにほっとした。おまえの言葉が、わからなかったらどうしようかと思ってた」
 プロイセンは自分の両手の平を広げて見下ろした。この手から滑り落ちていったもの、失ったもの、捨てたもの。消えたものへの未練が再燃しそうになり、彼は自制しようと拳を握った。
 ドイツもまた、彼の両手を見下ろしながら、
「会議場のあの場所でとんでもない再会をしたとき、信じられない、こんなことはあり得ないと理性が訴えてくる一方で、直感は、これはおまえだと告げてきた。確信した。だが、その後のおまえを見ていたら……段々と自信がなくなってきた。いや、疑念を挟みたくなった、というほうが正しい言い方かもしれない」
 この二日間で感じた印象を述べた。プロイセンは納得するようにうなずいた。
「ま、すっかり変わっちまったからな。いまのウチと同じだ」
「すまなかった」
 ドイツが苦しげに謝罪すると、プロイセンは目をぱちくりさせた。
「は? 何が? 俺のこと別人だって思ったことか? そんなん別に気にしてねえよ。当たり前だと思うぜ?」
 むしろ同一人物だということに疑問をもたれないほうが嫌だったかもしれない。彼は自分の身の上に起きた変化の大きさとその結果を、誰よりもよく知っているから。
 気にしなくていいって。そう言ってくるプロイセンに、ドイツはふるふると頭を振った。
「そうではない。いや、それももちろんあるが……それだけではない。俺は昨日まで、おまえが生きているのを知らなかった。知ろうとしなかった」
「おいおい、無知は罪だとか言い出す気か? よせよ、それこそ不可抗力ってやつだろが。長年閉鎖されてたんだからよ、知ってたほうが逆にやべぇよ。情報が出回ってたら、何のための秘密都市かわかんねえだろ」
 幾分、プロイセンに饒舌さが戻っていた。しゃべり方も軽くなってきている。彼本来の口のきき方に近い。ドイツのほうも、そんな彼につられて少し話しやすくなり、質問をしてみた。
「ずっとあの街にいたのか?」
「んー、まあだいたいは。住人だって簡単に出入りできねえしよ、あそこ。たまに中央とかレニン……じゃね、サンクトペテルブルクなんかにゃ出向いたけどよ」
「向こうではずっとひとりで?」
「そりゃあ。普通に考えて、同居人なんていないだろ」
「あの街で、ひとりで……」
 ドイツが眉間の皺を増やす。プロイセンはちょっと唇を曲げて見せた。
「なんだよ、神妙なツラして。俺はひとり大好きだぜ。あんな楽しいもんはねえって。気楽だし、ダレてようが文句言われねえし」
 そう答える彼が、ひどく懐かしい。ようやく、古い記憶の中の彼といまの彼が結びついた気がした。やはり彼は彼なのだ。
 だが、それでも、ここ二日間に感じ続けた違和感を払拭することはできない。ドイツは思いきって質問をぶつけた。
「ロシアとはうまくいってるのか」
「そう見えるか?」
 プロイセンは露骨に眉をしかめた。聞くまでもないだろう、と言いたげだ。彼がどう答えてほしいかは定かではないが、ここは素直に自分の心象を答えることにした。
「ああ。非常に」
 プロイセンは一瞬ぎょっとして目を大きく開いたあと、ひくりと口の端を痙攣させつつつり上げた。肯定されるとは思っていなかったらしい。コーヒーを飲んでいたら噴き出していたに違いない。
「えぇっ? ちょっ、おま……どこ見てんだよ? おまえの目は節穴か。どう考えても俺が割食ってるじゃねえか。俺がどんだけやつに振り回されてると思ってんだ。あいつ超横暴なんだぞ。今回だって催眠ガス嗅がされた挙句強制連行されたんだぜ。しかも変な服寄越すしさ〜、自分のセンスのダサさわきまえろってんだ、まったく」
 ぶつぶつと愚痴を並べ立てるプロイセン。ドイツはいくらかの寂しさを覚えながら相槌を打つ。
「……そうか」
 湧き出てきたもやもやを払うように、ドイツは会話を続けた。
「まあ、ちゃんとやっていけているようだな」
「おいおい、俺は仕事のできる男だぜ?」
「そうだったな。仕事はできるんだったな」
「なんだよその含みのある言い方」
「ちゃんと細かいニュアンスも理解できているじゃないか」
「お、そういえば……やっぱ忘れてねえもんだな」
 彼のドイツ語は健在だった。
 久しぶりとはいえ、言語的な直観は失われていなかった。ああ、やっぱりこれが俺の本来の言葉か……と強い感慨を覚えると同時に、彼はぎくっとした。呼び起こされた懐古の念が、恐怖に似た何かを掻き立てる。彼は胸を押さえてその感覚に耐えた。
「どうした?」
 急に黙りこくってしまった彼に、ドイツは不審そうというよりは心配そうに尋ねた。
 プロイセンはしばらく目を閉じたあと、ゆっくりと顔を上げ、ドイツを真正面にとらえた。そして、真剣な声音で告げる。
「なあ、昨日再会したばっかだけどよ……会うのはこれで最後にしようぜ」
 ドイツの瞳が揺れた。一瞬にして不安と動揺が浮かび上がる。
 昨日から俺はおまえにそんな顔をさせてばかりだな――プロイセンは自分を嘲った。


苦渋の選択

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