text


苦渋の選択


 最後。会うのはこれで最後。
 いましがたプロイセンに告げられたばかりの言葉が、頭の中でいつまでもどこまでも反響する。
 これで最後ということは、もう会わないということだ。
 考えるまでもない。あまりにあけすけな意味。
 どういうことだと相手に問いただしたい衝動が湧き出る一方で、その答えを――彼の考えを聞くのが恐ろしくて、躊躇が生じる。彼の口からこれ以上拒絶の言葉を聞かされるのが怖かった。
 ドイツはプロイセンの突然の提案に狼狽と動揺を隠せず、ただ困惑のままに小さく口を開閉させた。息は漏れるが、声が出ない。
 プロイセンはあれきり何も言わず、ただドイツの返答を待っている。相手をじっと見据えて。
 長い空白ののち、ドイツはやっとのことで声を絞り出した。
「何を……言う」
 途切れがちな短い言葉。だが、何よりも雄弁に、彼の受けた衝撃を伝えてくる。
 プロイセンはふいに手を伸ばしそうになった。混乱に揺れる彼に触れて、宥めてやりたい。そんな顔をさせてすまないと言ってやりたい。だが、それでは自己の発言と矛盾する。彼は体の後ろに手を回し、ベッドのシーツを握ることでその衝動に耐えた。そして、話を続ける。
「正確には、プライベートで会うのは、な。今回みたいに仕事があれば顔合わすのはやぶさかじゃねえけど……私用で会うのはこれっきりってことだ」
「やはり、立場的に難しいか」
「いや。上に指示されたわけじゃない。あくまで俺の希望だ」
 会えないのではなく、会わない。
 プロイセンはそのように言っている。
 ドイツは名状しがたい感情の渦に呑み込まれた。
 どうして。その発言の意図はなんだ。
 尋ねたいのに、答えを恐れる自分がいる。何よりも怖いのは、自分が彼に説得されてしまうことだ。現況で彼がどれだけ本心を語れるかはわからないが、必要とあれば彼は自分に偽りを述べてでも、説得に掛かるかもしれない。……それがドイツのためだと判断しているとしたら、なおのこと。
 ドイツは恐る恐るひとつの疑問を投げた。
「会いたく……ないのか」
 明確に意志を問う質問。ドイツは審判を待つような気持ちでプロイセンの反応を窺った。プロイセンはぐっと唇を一文字に引き結んだあと、ゆっくりと開いた。
「……ああ。昔とは違うんだ、何もかもが。もう一緒にはいられない」
「それはわかっている。だが、もう閉鎖は解除されただろう。会ってまずいということはないはずだ」
 食い下がるドイツに、プロイセンは説明を付け加える。
「確かにその道理はない。けどよ、個人的に会ったとして……おまえ、俺と他人付き合いできるか? 仮におまえができるっつっても、俺が無理だ。いくら別々になって久しいからっつっても、そこまでは割り切れねえ。どうしてもおまえを他人とは思えないし、公の場以外でそう扱えるとも思えない。こうして話しているいまも、感情に引きずられそうになる。これでもけっこう気ぃ遣ってんだぜ、平静を保てるように。この先こういう機会があれば、俺は、そのたびに……。だからこそ、けじめが必要だ」
 彼の回答は、ある意味で優しかった。彼の中では、ドイツに対してまだ以前のような気持ちが保たれているということだから。だが、そのために彼は苦しいのかもしれない。割り切れない心を抱えている。変わらず相手を思いながら、現実には以前のように接することができない。それはお互いに言えることだけれども。
 彼はそれを踏まえた上で、あのように提案してきたのだろう。いまの立場、以前との状況の劇的な違いを認識しわきまえていたとしても、実際に接触したとき、その意識を維持し続けることができるだろうか。顔を見て、話をすれば、否応なしに昔の感覚がよみがえる。こうして会話をしているいまも、まさに。ドイツもまた、彼を他人とは考えられない。彼はそれを理解しているのだろう。それであのように答えたのだろう。優しいけれど、同時に痛くもある言葉だった。
「お、れ……は……」
 感情に従えば、そんなのは嫌だというのが、最大の答えだった。けれどもそれを口にするには、ブレーキがかかりすぎている。相手の言うことが、言いたいことが、理解できてしまっているから。
 聞き分けのない子供のように、泣いて喚いて、また会ってくれと駄々をこねられたなら、どんなにかよかったことか。……いや、そんな行動に意味はない。そんなことをしたことなどないが、もしその程度で彼の決意を覆せる算段があるのなら、自分はすでにそれを実行しているだろう。プライドなど厭わずに。だが現実としては、彼の言葉を撤回させられるカードが自分にはない。無力感に襲われ、ドイツは目元を隠すように額に手を当てた。
 プロイセンは今度こそ手が前に出た。突然の別離の宣言に当惑し苦悩するドイツの髪に触れて、そう嘆くなと……いや、苦しまないでほしいと言いたかった。もっとも、戸惑いを与えている張本人がそんなことをしても、さらに苦しませるだけだとわかっているので、結局撫でることも触れることもできず、手は虚空をさまようばかりだ。
 彼はのろのろと手を引っ込めると、うつむき加減に言った。
「すまん。おまえにしたらいきなりだよな。俺はもう何十年も前に勝手に別れを告げて、その覚悟も決めてたけど……おまえにはそんな時間も与えられていない。うろたえるのもわかるぜ」
 ドイツが、弾かれるように顔を上げた。少しだけ、声を荒げて。
「勝手だと……一方的だと理解しているのなら、なぜ……! どうして話し合おうともしない!」
「こういうのは、究極的にはひとりで決着をつけるしかないからさ。あとは……そうだな、やっぱり時間だ。それがいちばんの決め手かもしれねえ」
 やり場がなくて引っ込めた自身の手を見つめながら、プロイセンは苦笑した。
「そうやって……おまえはひとりで勝手に別離を決めたというのか。たったひとりで苦しんで!」
 プロイセンは詰まりかけた。そうだ、苦しかった。どんな痛みよりもつらかった。そしていま、俺はおまえに同じものを味わわせようとしている。けれども、俺も苦しんだのだから、おまえも同じように苦しめと言うつもりはない。言いたくもない。
 だが、実際にいまここでドイツに告げているのはそういうことだ。俺はひどいやつだ。……いや、もしかしたら、自分がかつて苦しんだほどにはこいつは苦悩しないかもしれない。うまく心のうちで処理できるかもしれない。それはそれで寂しい気がするが、それでも、苦悶に打ちひしがれるよりはずっといい。
 苦しみを長引かせないためには、はっきりとした態度を示すことだ。それくらいしか、できることは思い当たらない。
「そうだ。俺が決めた。自分で」
「それは……諦観だろう」
 ドイツの表情も声音も、ひどく苦しげだ。プロイセンは相手の指摘に同意して、軽くうなずいた。
「それが必要なときもある。おまえだって一度くらい経験あるんじゃねえ? それなりの年月、生きてんだからよ」
「ああ……そのとおりだ。おまえが姿を消してから、やがて俺はおまえを諦めた。……諦めたんだ」
 だが、諦めという後向きな選択を取ってから何十年も経ったいま、自分たちはこうして再会した。ということは、ほかに道があったんじゃないか?
 ドイツが過去の自分を責めかけていると、プロイセンが肯定の言葉を与えてきた。
「その選択は正しかっただろうな。俺は……このとおりなんだからよ」
 彼は少し腕を広げ、自嘲しながら自身を示した。ここまで変わってしまったのなら、消えたも同然だと言いたげに。
 彼がそうやって自身を皮肉るのに耐えかねて、ドイツは思わず椅子から立ち上がった。ふらりと彼のほうへ一歩寄ると、衝動のまま口を開く。
「やめてくれ、そんなふうに言うのは。俺はいまでもおまえのことを――」
 言葉は途中で遮られた。
 プロイセンの人差し指が、ドイツの唇に触れている。
「その先は言っちゃだめだろ」
 左腕を伸ばして文字通りドイツの口を塞いだ彼は、上目遣いで相手を見上げながらそう忠告した。
 激しい叱責ではなく、柔らかく諭されると、それ以上は何も言えなくなる。彼がこんなやり方で相手を制止することはまずないのだが、そのため余計に効果があるように感じられた。
 ドイツがおとなしくなると、プロイセンは指を離した。そして、自分も腰を上げる。
 不思議そうに見つめてくるドイツの前に立ったプロイセンは、一歩後退すると、わずかに腰を落とした。左肩を後ろへ引き、拳を固める。その一連の動きに、ドイツははっとした。この動作は……
「ヴェスト、歯ぁ食いしばっとけよ」
 ドイツが彼の行動に危険信号を覚えたのと時を同じくして、不穏なアドバイスを受ける。
「え?……お、おい――」
 まずい。これはまずい。
 瞬く間に、蛇に狙われた小動物のような心境になる。頭の中の警報機が最高レベルで鳴り響いている。だが、危険の予感に対処するだけの時間は与えられなかった。
 プロイセンが固く握った拳を斜め下から振り上げてくるのをスローモーションのように感じた。しかし、自分の時間もまたスローがかかっているのか、対応した防御行動が取れない。
「行くぜ! 動くなよ、怪我させたくねえから――なっ!」
「……!!」
 彼の言葉の最後の音節が耳に入るのと、打撃の衝撃が頭部を襲うのは同時だった。
 プロイセンの拳打を右頬に食らったドイツは、部屋の扉まで緩い弧を描きながら吹っ飛んだ。奇妙な浮遊感に数瞬包まれる。
 ドアに後頭部と肩が激突したかと思うと、重力に引かれて体が床に落ちる。
 盛大にブレた視界に映るのは、天井にはめ込まれた照明と火災報知器。仰向けに倒れたらしい。頭蓋の中で脳実質がぐわんぐわんと揺れているようで、ちょっと気味が悪い感覚だ。
 痛みよりも衝撃の余韻のほうが強い。振動が全身を揺さぶった。深部感覚が瞬間的にストップしたかのように、自分の体勢や手足の向き、関節の動きがわからなくなる。ドイツは不恰好に手足を動かして床の位置を同定すると、なんとか前腕をつくのに成功する。そのまま肘を伸ばし手の平で体を支え、ドアの上方へずり上がるようにして上半身を起こす。少し高くなった視線がとらえたのは、人間の足。膝から下だ。
 ほとんど反射的にそれを上に辿っていくと、自分の足先で仁王立ちをしているプロイセンの姿があった。窓を背にしているため、逆光で表情はわからない。


別れの真相

top