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別れの真相


 プロイセンは軍の教官のようなしかつめらしい顔つきで直立不動を保つと、部屋の隅、ドアの前で倒れている――彼が吹っ飛ばしたのが原因なのだが――ドイツを見下ろした。手加減はしたので脳振盪は起こしていないだろうが、激しく体を打ちつけたためか、すぐには起き上がれないようだ。緩慢な動作でなんとか姿勢を整えようとする彼を、プロイセンは何も言わずに眺めている。
 扉に背中をもたれさせて座位を取ると、ドイツは彼に殴られた右頬を手の甲で拭った。思ったほどふらつかなかった。ようやくじわじわと頬が痛みを感じはじめる。血の味がしないところからすると、口の中は切れていないようだ。これだけ体重のある相手を、ろくに加速もせずに一撃で吹き飛ばすとは、見上げた膂力だ。しかも見事に拳が極まったにもかかわらず、ダメージが少ない。つまり、打撃だけを目的とした、実にうまい殴打だったというわけだ。いきなり殴りつけるのは感心しないが(直前警告はあったが、直前すぎて意味がなかった)、この筋力と技術には敬服する。
 ドイツは顎を持ち上げて正面の相手を見やった。腰に手を当てたプロイセンが、厳しい顔を向けている。
「甘ったれるなよ、ドイツ。おまえはもう立派な大人なんだ、ひとりで歩けるはずだ。……俺がいなくても」
 乾燥した低い声でそう言い放つ。
 プロイセンは、ドイツを殴った左の拳をきつく握った。こんなことをしなくても、ドイツは状況を理解しているし、プロイセンの主張の理由や意味だって呑み込んでくれるだろうとわかっていた。だが、はっきりとした契機がほしくて、殴ってしまった。彼にではなく、自分自身に引導を渡そうとして。
 そんなことのために暴力を振るうなんて最低だな。はは、ほんとにこいつに見切りをつけられそうだ。プロイセンは自省しながらも、やや怒気をはらんだような険しい表情を崩さない。
 ドイツは膝を立ててしばらく考え込んでいる様子だったが、やがて目線を床に落としたままぼそりと言った。
「そうだな……プロイセンはいまは亡き国だ。ケーニヒスベルクもその名を消した。俺はすでに……おまえを失った」
 最後の一文で、ドイツはぎゅっと強く目を閉じた。彼が自分の知りうる世界から消えたときに感じた、あの強烈な喪失感が再度襲ってくる。いや、それよりもなおつらいかもしれない。眼前に確かに存在していながら、やはり失ったままなのだ。過去の喪失を、目に見えるかたちで、手で触れられるかたちで突きつけられているような気分だ。
 うなだれてしまったドイツの頭頂部をじっと見つめながら、プロイセンははっきりとした声で肯定した。
「ああ、そのとおりだ」
 おまえの知っている俺はすでにいない。そう考えろ。……それがプロイセンの希望であり、またドイツに対する助言なのだろう。
 それが真に彼の願いであるのなら、叶えてやるべきなのだろうか。いや、そうするしか自分たちの取りうる道はないのだろうか。ドイツはまとまらない思考に心を乱された。しかし、ドイツとて、言い分はある。彼がどんな紆余曲折を経ていまに至ったのかは知らないが、ドイツにもまた、同じだけの時間が流れたのだ。言いたいことは積もっている。
 ドイツはすっと視線を上げると、プロイセンを視界の中央にとらえた。
「おまえの言いたいことはわかる。それが正しいであろうことも。……だが、俺の中ではいまでもその名は生きている。プロイセンも、ケーニヒスベルクも。おまえにとってあの地が故郷であるということは、俺にとってもまた、あの街は精神の故郷と言えるんだ。俺の心の一部はいまでもあの土地をにある。おまえのそばに。忘れていない。忘れることはない」
 ドイツの双眸は、もう揺らいではいなかった。あまりにしっかりした声音と意志の強い瞳に、プロイセンのほうが少したじろいでしまう。
「……ヴェスト」
 すっかり頼もしくなったじゃねえか。成長を喜ぶと同時に、いままで感じなかった種類の寂しさが湧いてきた。彼がもう自分の手を離れて久しいことが、改めて実感されて。
「そうだな……おまえが俺を忘れていなかったから、俺は今日まで自我を保ってこられたのかもしれない。あんだけ散々改造されて、とっくに消えるか別物になっててもおかしくねえのに、俺はまだこうして生きている」
 プロイセンは自分の手の平を見下ろすと、緩やかにきつく握り締めていった。そこに自身の実在を確認するように。
 ドイツはまっすぐプロイセンを見つめたまま、さらに言葉を紡いだ。
「近くにいなくてもいい。もう会えなくてもいい。ただ、どこかで無事に生きていてくれ」
「別のやつの一部になっても、か?」
「構わない。誰のものであろうとも。おまえが生きているのなら」
 きっぱりとした口調。皮肉の色はない。本当に、心底そう考えているのだろう。
 強い声ではなかったが、不気味な迫力を感じて、プロイセンは目を見張った。ドイツの言葉が呼び水となって、ひとつの過去が脳裏をよぎる。

 ――……の一部になるんだ。それしかない。

 それほど遠くはない昔、自分にそう言ってきた声がふいに耳元によみがえる。拒絶と抵抗を繰り返したがやがて耐え切れなくなり、ついに諦観に至り受容した……あの一連の過去。いまでは後悔すら捨ててしまった。
 プロイセンは目を細めると、小さく苦笑した。
「……ひでぇやつ」
「わかっている。その上で言っているんだ」
 迷いのない返事に、プロイセンは満足した。いつの間にこんないっちょまえになったのやら、と驚きながら。
 彼はふっと息を吐くと、それまで保っていた真面目な空気をちょっと崩した。
「はっ。そこまで言えるなら、心配することはなさそうだな。立て。顎には極めてないからな、ふらついたりはしないと思うが」
 手は貸さない。ひとりで立てる。そう確信していた。
 ドイツは軽く反動をつけて上体を起こすと、膝を伸ばして立ち上がった。足取りはしっかりしている。
「ああ、平気だ。うまく殴ってくれたものだと思う。防御もなしに力いっぱいおまえに殴られたら、きっと昏倒していた。だがそれでも、相変わらずの馬鹿力だな……安心した」
 服の裾を払いながら答えるドイツに、プロイセンは笑った。
「へっ……ちっと頭に血が上っちまったかな。表に出て風にでも当たるか。頭冷やさねえとな」
「ああ」
 プロイセンはルームキーを胸ポケットに入れると、扉を開け、ドイツの背を軽く押した。相手を廊下に出してから、自分も片足を踏み出す。が、そこで立ち止まる。
 不審に思ったドイツが振り返ると、そこには自分を見上げてくるプロイセンのなんともいえない顔があった。寂しい笑顔。こんな表情をする彼を見るのははじめてだ。
 ドイツが呆気に取られて言葉を失っていると、プロイセンが口早に言った。
「かなうなら、ずっと一緒にいてやりたかったけどよ……いや、過去の望みを口にするのはむなしいな。ドイツ、これでさよならだ」
「何を――」
 プロイセンは言い終わるが早いか、ドイツの背を思い切り前方に突き飛ばした。そして、自分は反対方向、つまり部屋の中に後退し、すばやくドアを閉めてしまう。次の瞬間にはオートロックが掛かる。
「おい!? 何のつもりだ!」
 ドン、とドイツが扉を外から叩く。しかし、ほかの宿泊客もいるので、大きくは騒げない。彼は隣室に響かない範囲でドアを叩く。だが、開かれる様子はない。
「おい、いくらなんでもこれで終わりというのは――」
「悪ぃ。そのまま……少し聞いててくれ」
 内側から、扉越しにプロイセンが答えた。ひどく真剣な声音だ。ただごとではない、とドイツは心臓が跳ねた。いままでもずいぶんと深刻な調子で会話をしてきたが、今度の話はそれ以上だと予感する。
 ドイツが何も反応できないでいると、プロイセンが話を切り出した。
「ごめん……」
 突然の謝罪。いったい何事かと、ドイツは身構えた。
 扉を一枚隔てて、プロイセンの苦しそうな声が届く。
「ごめん……俺は本来ならあいつを憎まなきゃいけないはずだ。そうするのが、俺のかつての民と同胞たちへのせめてもの誠意だっただろう……。だが、現実はどうだ? 名前を変えてこうしてぬけぬけと生き長らえている。敵だったやつの一部としてな。とんだ背徳行為だ。最低さ。自分でも呆れている。でも……俺は、あいつを憎むには、あまりにもあいつに同化しすぎた。そしてそれだけ、おまえと共有していたものを失った。いや、これは無責任な言い方だな。……捨てたんだ」
 時折、吐き捨てるような口調を交えて、プロイセンは途切れがちに話した。彼は部屋の中で、扉に手の平をつけて立っている。ふたりを隔てる一枚の扉――それは彼を少しだけ安心させた。ドイツには残酷かもしれないが、プロイセンには必要だった。
「ドア越しなんかですまない。面と向かって告白する勇気がねえんだ……これについては許してくれ――ほかのことについては、許してくれとは言わねえからよ。とても顔向けできたもんじゃない。おまえの顔を、見られない……。一方的なやり方だとわかってるが、おまえの反応が怖いんだよ。……はは、俺としたことが、情けないことこの上ねえ。きっと、過ちを犯した自覚が……裏切りの自覚があるからだろうな……こんなにかつての同胞を恐れるのは」
 プロイセンは扉に額をこすりつけると、ぎゅっと縮こまった。声も自然、絞るようにかすれていく。
「俺は……おまえと別れてから、あいつの家に忠誠を誓った。別に無理矢理ってわけじゃないぜ。それじゃ忠誠の意味がないからな。自分の意志でそうしたんだ。もう、半世紀にもなる。そんでもって、そのときの誓約はいまでも続いている。この先もきっとそうだろう」
 膝がかくりと折れ、彼はドアに体重をもたせかけたままずるずると床へ崩れていった。
「これが……答えのすべてだ」
 膝立ちでドアにすがりつくような姿勢で、姿の見えないドイツに告げる。扉の向こうからは何の反応もない。ついに見限られただろうか。
 二分ほど同じ姿勢を取り続けたが、やがてそれも維持できなくなり、ついに床に座り込む。ドアに背中を預け、天井を仰ぐ。視界が少しずつにじんでぼやけていくのがわかった。
 足を床に投げ出し、力なく崩れた体勢のまま、プロイセンは自分に向けて指摘した。
「一緒にいてやりたかっただぁ? はは、違うだろ、俺が一緒にいたかったんだろ。おためごかしもいいとこだ。はっ……いまとなっては過去形でしか語れねえなんてな」
 俺は最後まで誠実じゃなかったな。まあ、俺らしいっちゃらしいか。
 自嘲の笑みとともに、プロイセンは前髪をくしゃりと掴んだ。


きみに、さよなら

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